スカンクの本棚

僕は職業柄もあって日ごろ本に触れる機会は多いです。その中で、気になったものなどを紹介します。

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和久井光司 『ビートルズ 20世紀文化としてのロック』 講談社選書メチエ 2000年

 僕がビートルズをリアルタイムで体験したのは小学校4年の時。当時同室していた8才年上の姉が受験勉強のさなかに聴いていたラジオから流れた「ハロー・グッドバイ」だったと記憶している。その後「ヘイ・ジュード」(ラストのリフレインが何回かよく数えた)、「レディ・マドンナ」、「カム・トゥゲザー」、「レット・イット・ビー」などは、ほぼヒットしたときに耳にした覚えがある。中学に進み、いろいろな音楽を聴くようになると、周囲のものが「ビートルズが最高」という声に反発を覚えていった。殆ど「アンチ巨人」と同じ感覚だったと思う。そしてC.C.R.からアメリカン・ロックやポップスを聴くようになっていった。
 著者の和久井氏は僕と同年齢、育ったところも同じ横浜だそうだ。彼は中学1年の時にビートルズに衝撃を受けて以来、「欧米ポップ・ミュージックを聴くようになった」、まさに同世代だ。新聞書評と彼がバンドをやっていること、何より「レコード・コレクター」などの鋭い論評に共感していたため、元来それほど好きでもないビートルズ(でもバンドで10曲近く取り上げている)の概説書を紐解くことにした。
 本書には一貫した基本的視点がある。それは乱暴にまとめれば、「ロックはアフリカン・アメリカンの音楽とケルト(アイリッシュはその代表)音楽の融合から生まれた」ということで、その中心的な役割を担ったのがビートルズだったということだ。この基本的視角があるため、本書は単なるビートルズ評伝に終わることがなく、僕のような「とてもファンとは言えない」者の興味をそそる作品になったと思う。縦糸にビートルズおよびメンバー個々人の歩みを系統的に整理しながら、横軸に英米の音楽や文化状況、時代状況を絡ませながら立体的に「ビートルズによるロックの構築と発展、そしてその限界」を論じていく著者の筆力には、部分的に首をかしげる記述がないではないが(著者本人はある程度承知の上でそうしているとのこと)、脱帽する。特に初期のジョンやポールがレイバー=ストーラーやキング=ゴフィンなどのティン・パン・アレーで活躍する職業ライターの仕事に注目していたこと、「Beatles For Sale」が、ロックンロールのカヴァーが多いのは、それとの決別だったなど、いわば「門外漢」の僕にとっては、まさに目から鱗だった。また、「Sgt. Peppers...」をロック史上初のコンセプト・アルバムとして高く評価しつつも、楽曲については「Revolver」の方が格段に上だったという指摘は、思わず頷いてしまった。
 一方で著者は、「ロックの原点はビートルズ」という風潮には大きな疑問を呈している。むしろジェリー・ウィクスラーの「ビートルズなんて大嫌いだった」という言葉を巧みに引用しながら、ビートルズによるロック、あるいはポップ・ミュージックが、アフリカン・アメリカンのブルースやR&B〜ソウルなどと、アイリッシュに代表されるケルト・ミュージックなどとの高度な「ミクスト・ロック」である点に注意を促している。慧眼と言うべきであろう。この辺が昔出ていた凡百のビートルズ論との大きな違いだ。ただしこうした議論は「レコード・コレクター」誌上などでもう何年も築きあげられてきたもの(著者もその中心のひとりであり、その点はよく心得ている)の成果であり、著者ひとりによって見いだされたものではないが。
 最後に疑問点をひとつ。ビートルズがアフリカン・アメリカンの音楽とケルト音楽を融合させるようにしてロックを発展させたことは理解できるが、アメリカのポピュラー音楽を見る視点にまで、その側面が強く出過ぎてはいないだろうか。1940年代〜50年代のアラン・ロマックスのフィールド・レコーディングを例にとって、(ケルト音楽にルーツがある)マウンテン・ミュージックと、(アフリカン・アメリカン音楽の代表である)ブルースが複合した豊かな音楽があったことが指摘されており、それ自体間違っているとは思わないのだが、アメリカのポピュラー音楽にはもうひとつ、ラテン・ミュージックの影響が色濃いと思うのだが、その点の指摘があまりに少ない(というか皆無に思えた)。ニューオーリンズの音楽はカリブ海抜きには語れないし、R&Bの発展にラテン音楽が与えた影響は計り知れない。ラテン音楽自体が3大陸の融合音楽であったわけで、ロックのひとつの母体となるアメリカのポピュラー音楽とのさらなる融合が、ビートルズに影響を与えなかったわけはないのだが。一例を上げれば、ドクター・フィールグッド(ピアノ・レッド)の「ミスター・ムーンライト」をビートルズはカヴァーしているが、あの曲からラテン・フレイヴァーを嗅ぎ分けるのはたやすいことだと思うのだが。この他ルイジアナのフレンチ風味や、テキサスなどに見られるポルカなどのドイツ系の音楽の影響も無視できないように思える。紙面の都合はあったのだろうが、この辺まで配慮して、初めて「ルート66を北上」という象徴的表現が本来の意味を持ってくると思うのだが。(2001.2.1記)


田中圭一 『百姓の江戸時代』 ちくま新書 2000年

 僕は高校で社会科を教えるという仕事をしている割に、日本史が大の苦手だ。なにしろ漢字が多い上、やたらと法の名前とかを丸暗記させられたので閉口していた。おかげで自分の高校時代、日本史を選択までしたのに惨憺たる成績だった。
 そんな僕がなぜこの本を読む気になったのか。それは百姓からみた江戸時代にすこぶる興味があったからだ。自分が習った日本史で、百姓は常に社会の底辺に置かれていて、ときおり一揆などで歴史の中に名を残す存在だった。でも江戸時代の人口の八割を越える百姓が、日本社会に何の影響も与えていないとは考えにくい。白土三平の「カムイ伝」あたりを読むと、少しは理解できる部分があったが、何かしっかりしたものはないか。そう思っているとき、タイムリーに出版されたのが本書だ。
 本書の著者は、江戸時代の佐渡や新潟、千葉などの地域に残っていた史料を丹念に読み起こす中で、今までの江戸時代に対する歴史解釈に大きな疑問を投げかける。江戸時代の幕府の諸政策は実は行き当たりばったりの対策に過ぎなかったのではないか、そしてそれに「政策的意味」を付け加えたのは、後世の歴史学者達ではなかったのかと。例えば定免制(平均の出来高からある期間定額の年貢高を算出する方法)の導入は一般に言われるような幕府による増税策ではなく、検見制(年々の出来高から毎年年貢高を算出する方法)に対する百姓の不満に対応したものだったなど、具体的な例示を重ねながら、次々と疑問を投げかけていく。そして従来の歴史解釈は、それがいかに民衆からの視点を標榜していたとしても、幕府側に残った史料を中心にして、あたかも江戸時代=封建社会、農民=しいたげられた奴隷同然の社会の下層構成員という「公式」を証明するためにされていたと断ずるのである。ここには、戦前の皇国史観のみならず、いわゆる唯物史観と言われる立場をも包摂して、「上からの歴史観」と批判の対象にする、著者のある意味自由な歴史解釈を見ることができる。
 著者はともすれば「個別の一事例」と見なされがちな、村の史料の中にこそ真実があると考える。例えば有名な「慶安御触書」も、幕府直轄領佐渡の260村を調査したとき一度も出くわさなかったという。その他いくつかの事例を踏まえ、江戸時代の幕府は政策目的を持った法(御触書、禁令など)を出し、上意下達的に地方を支配していたのではなく、もっとずっと百姓と幕府は対等に近い関係にあり、その百姓側から出されたさまざまな不満などに対する、その場しのぎにお触れなどを出していたのではないかという。おもしろい視角だ。さらに一揆は暴動などではなく秩序だった抗議の手段であったこと、「村八分」も封建的主従関係などではなく、村人同士の秩序のために作られたものと考えられること、そして何より、百姓は単に農業、つまり田畑を耕すだけでなく、漁労、炭焼きから機織り、手工業、廻船業などにより利益を上げようとする、文字どおりの百姓(「あらゆるものを作る民」の意)であったことを、具体的史料を元に見事に解き明かしていく。これこそ真に民衆から見た歴史ではないか。久々に爽快な読後感を得た1冊だった。(2001.1.8記)


森達也 (デーブ・スペクター監修) 『放送禁止歌』 解放出版社 2000年
 

 昨年フジテレビ系列で放送された同名の深夜番組の担当者が著した本。夜中の番組で僕は見てないのだが、この夏休み、書店の音楽コーナーに平積みしてあったのが目を引いた。「悲惨な戦い」とか「オー脳」とか出てるのかなといった、いわば興味本位でその時は立ち読みし、けっこう網羅されてるので感心しながらも、その時は「音楽裏話本」程度にしか思わず買わなかった。その後ネット上で話題になったので、購入することに。ちょっと出版社にも興味があったので。
 読み進むうち、僕の認識は一転した。これは「音楽裏話本」などではない。森達也という、ひとりの番組制作に携わる者の、認識の変化を綴った本だったのだ。そして、なぜこの出版社から出されたのか、合点がいった。もちろん、過去の放送禁止歌が多数リストアップされており、それはそれで興味深い。しかし「なぜ放送禁止になったか」という理由はどうもはっきりしない。それもそのはず、著者にもはっきりしないことなのだ。そしてこのはっきりしない理由を追求するうち、著者は問題の核心に迫ることになる。つまり「なぜ放送禁止になったのか」ということを、それぞれの歌ごとに明らかにすることではなく、マスメディアの中でとらえようとしたのだ。結局「伝聞」「思い込み」「ことなかれ」そして「思考停止」が「禁止」を生みだしたことに行き着き、テレビのドキュメンタリーはおよそこうした視点で作られたようだ。結論は、本書をお読みいただきたいが、次の一文は引用しておきたい。

「『自覚性を持つこと。主語を自分にすること。』
文字にするとたったこれだけの作業だ。しかしこの作業が、メディアに、そして日本人全般に、そして実は誰より僕自身に、今、大きく欠落していることは間違いない。」(p.73)

 これは第1章の結語なのだが、実は本書はここから本題に入っていく。著者はまさに「主語を自分」にして、「伝聞」「思い込み」「ことなかれ」そして「思考停止」に切り込んでいくのだ。そして放送禁止の理由として、避けて通れない部落差別の問題に踏み込んでいく。「東」に育ち、実体験としての部落差別を知らない著者(僕も同様だ)が、全く筆が進まないという厳しさに直面しながら、もっと重い部落差別に向き合っていくくだり、これが本書のクライマックスとなっていく。「竹田の子守歌」を題材に、決して感情に流されることなく、冷静に自分を見つめながら、自分の中からこみ上げてくるさまざまな思いを「主語を自分」にして語る著者。久々に「まともな本」に出会えたなと感じた。マスメディア、ジャーナリズム、そして教育に携わる者は一読すべき本ではと思った。インパクトが強いというよりは、じわっと、でも確実に訴える作品だ。一気に読了した。(2000.9.27記)

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