マジック・サム

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 この、どこか人を引きつけるステージ・ネームを持つブルースマンの「魔法」に僕がかかったのは、70年代末、巷ではピンクレディが流行り、サザン・オールスターズがデビューした頃だった。当時ブルースバンドを演ろうと思っても、声の高い僕は、マディなどの渋い声のブルースを唄ってもはまらない。そこへ当時のバンドのギターが持ってきたのが「West Side Soul」だった。ややハイトーンの、少しスモークのかかった、伸びがあるが情感も豊かなヴォーカル、シャープだが決して弾きすぎないギター。「オール・ユア・ラヴ」「アイ・ドント・ウォント・ノー・ウーマン」「スウィート・ホーム・シカゴ」このアルバムから演った曲の数々だ。そしてサムのアルバムから、僕はさまざまなアーティストへと引き込まれていく。ロック少年がブルースにのめり込むひとつの典型的なパターンを、僕もまた踏んでいたのだ。ロバート・クレイにサムの影響を感じ、クレイ本人もそのことを認めていたことを知ったとき、僕は改めて思った。「サムよ、ありがとう」と。
 マジック・サム(本名 Samuel Maghett)は、1937年のヴァレンタイン・デイにミシシッピのグレナダで生まれた。子供の頃から手製のギターで遊び、地元のカントリー・ブルースマンの演奏やヒルビリーを聴いて育ったサムは、1950年にシカゴに移住、マック・トンプソンとシル・ジョンソン(彼は最新作「Talkin' Bout Chicago」でサムの「オール・ナイト・ロング」を取り上げている)の兄弟とともに演奏活動を始める。ステージ・ネイムはこのころサムの苗字をマック・トンプソンがもじってつけたそうだが、やはり魔法は効いた。叔父のシェイキー・ジェイクのバックをつとめたり、ホームシック・ジェイムズのバンドで演ったりしていたが、やがて自分のバンドで人気が出始める。オーティス・ラッシュ、フレディ・キング、後に遅れてルイジアナからシカゴに来たバディ・ガイなどの若手ブルースマン達と、サウスサイドやウエストサイドのクラブで夜な夜な壮絶なギターバトルを繰りひろげていたようだ。フレディ・キングの有名なインスト「ハイダウェイ」も、こうしたバトルの中で生まれた。フレディ自身の証言*1によると、「ハイダウェイ」の元はハウンド・ドッグ・テイラーが生み出し、フレディとサムが仕上げたとのことだ。バディ・ガイもその自伝「アイ・ガット・ザ・ブルース」で、ウイスキーをかけたギターバトルの様子をなつかしそうに語っている*2
 サムは1957年 COBRA から「オール・ユア・ラヴ」をリリースする。この曲はローウェル・フルソンの「イッツ・ユア・オウン・フォールト」をベースにして、レイ・チャールズ*3の「ロンリー・アヴェニュー」のパターンをかませて作ったと、シル・ジョンソンは回想しているが、トレモロを効かせたギター複音弾きのこのタイプが、サムの代表的スタイルとなる。その後しばらくは順調に活動していたが、1959年に徴兵されるが脱走し、21日どころか6ヶ月の刑務所暮らしを経験する。60年代に入ってシカゴに戻ったサムは、再び音楽活動を再開する。しかし、時代はブルースには冷たかった。時の「フォーク・ブーム」に乗って白人聴衆に受け入れられたビッグ・ネイムと異なり、シカゴのクラブで黒人聴衆相手に活動していたサム達は、全国的な注目を集めることはなく、レコードリリースは激減する。また、リリースされた曲も、ダンス・ナンバーやアーリー・ソウルの影響を受けた曲が増えてくる。もちろん、もっぱらシカゴのウエストサイドで、連日観客を沸かせていたのだが(その様子は「Magic Sam Live」「Magic Touch」で捉えられている)。
 こうした状況に転機が訪れたのが、1966年の「アウト・オヴ・バッド・ラック」と、続く DELMARK への録音だ。1968年は、キング牧師の暗殺、メキシコ・オリンピックの「黒い手袋」など、黒人を巡る状況は劇的で、シカゴでは大規模な黒人暴動が起きたりする中であったが、「West Side Soul」は非黒人にも受け入れられていく。シャープでタイトな演奏と、ハイトーンで抜けの良い歌が、ギターバンドで演奏されており、当時イギリスから逆流してきた、ブルースの影響を受けたロック(ジミ・ヘンドリックスやクリーム)や、ポール・バターフィールドやマイク・ブルームフィールドに親しむ非黒人の若者にとって、サウンド的にも受け入れられやすかったであろうし、事実、サムはコンサートやイヴェントに引っ張りだこであったという。こうして大きく輝いたのも束の間、日頃から大酒飲みであったサムは、過密スケジュールによる過労もあってか、1969年12月1日、心臓発作でその若き命を終えることになる。享年32才。歴史に「もしも」は禁物だが、サムがもう10年、20年生きていたら、現在のブルースは違った展開を見せていたのではないか、と多くの聴き手に言わしめる、実に惜しい死であった。生前のサムは、気さくで、よくしゃべる明るい人物だったという。その付き合いの良さが、ひょっとして寿命を縮めたのかもしれない。
 最後に、マジック・サムの音楽について。詳しくは「CD紹介」でも触れるが、サムはパフォーマーとして素晴らしい魅力を持っている。比較的小編制のバンドで演奏してきたためか、サムはギター1本でリードとバックの両方をこなす。そのスウィッチングがかえって良い切れを生み出している。ソロを垂れ流すように弾くのではなく、短いフレーズやパッセージを、バッキングの合間にたたみこんでいく。また、複音を使用したフレーズも多く、リフとして用いることもしばしばある。したがって、ロック系のギターフリークには非常にとっつきやすい面がある。また、ヴォーカルは、ハイトーンで、特に60年代に入ると、滑らかなヴィブラートのかかった、情感のある歌い方になっていく。この背後には、サム・クックの影響すら見ることができる*4。オーティス・ラッシュのような、深い感情を込めたものとはまた別の、ある種透明感のある、それでいてブルースを感じさせる歌声は、明らかにロバート・クレイなどに影響を与えていると思う。
 これに対し、ソングライターとしては、いわゆるスタンダードとなるような曲を作り得てはいない。代表作は「オール・ユア・ラヴ」であり、「イージー・ベイビー」であり、「アウト・オヴ・バッド・ラック」であるが、この3曲は同系統の曲であり、オリジナルでは「ユー・ビロング・トゥ・ミー」など、むしろ8ビートの曲に佳曲が多い。また詩についても、英語力の乏しい僕が言うと説得力はないが、オーティス・ラッシュのような深い詩情を感じさせる作品は少なく、むしろシンプルで分かりやすい。しかし、このようなサムの側面は、彼の魅力にもつながる。サムはシカゴのクラブ・シーンの中で、伝統的なダウンホームなバンドブルースにとらわれず、ウェスト・コースト(ローウェル・フルソンやジミー・マクラクリン)、メンフィス(B.B.キングやジュニア・パーカー、ロスコー・ゴードン)といった、よりモダンなブルースを、シカゴの伝統と融合させた形で演奏していた。DELMARK はサムのこうした魅力にいち早く気づき、「West Side Soul」を生み出したのだろう。そのもっとも代表的な例が、「スウィート・ホーム・シカゴ」だ。映画「Blues Brothers」のなかで、ジョン・ベルーシがこの歌を"for Magic Sam"と紹介して始めるシーンがあり、彼の代名詞とも言うべきこの歌、しかしサムは、この歌を、ジュニア・パーカーのサウンドから生み出したのだ。こうしたサムの幅広いアプローチは、サムからブルースに踏み込んでいった聴き手・入門者にとっては、良き水先案内*5となっている。かくいう僕も、マジック・サムの曲のオリディネイターを求め、ブルースの海原に漕ぎ出したのだから。

*1 「十字路の彼方へ」(リットーミュージック 1994)p.342
*2 「アイ・ガット・ザ・ブルース」(ブルース・インターアクションズ 1995)p.78〜9;
  なお、この時のバトルはバディが勝ったが、ウイスキーはサムとオーティスが飲み干したそうだ。
*3 そのレイ・チャールズは、フルソンのツアー・ピアニストだったというからややこしい。
*4 詳しくはCD紹介で。後藤幸浩氏も同様の意見をおもちである。>「200CD ブルース」(立風書房 1997)p.79
*5 小安田憲司氏も同様の経験をしている。>ブルース&ソウル レコーズ13号 p.17



画像は上から
  • The Magic Sam Legacy (P-VINE PCD-5218) のライナー裏表紙。良い絵を使ってる。
  • Magic Sam Live (P-VINE PLP-9031/2)ジャケット中写真(左)このキメポーズ、ポスター用か?
  • Magic Sam Live (P-VINE PLP-9031/2)ジャケット表、色がなんとも特徴的。

  • 参考文献は、本文中に紹介された記述および各CDのライナーノート
            Robert Santelli 「The Big Book Of Blues」A PENGUIN BOOK


    CD紹介