札幌発 旅人通信 99年盛夏 第二号

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 いよいよ夏も本番、と言いたかった7月下旬は雨降りの日が多く、夏らしさよ、カムバック…などと思っていたら、8月に入ると“酷暑”とでも言うべき暑い日が続いています。特に、湿度が高いのがこの夏の傾向で、北海道らしからぬ、蒸し暑い日が多いのが今年の特徴のようです。思えば私が北海道に移住した平成6年、1994年の夏も異常猛暑で、本州と遜色取らない熱帯夜が続いたことを思い出します。今年は、日中は蒸し暑くとも、夜にはそれも落ち着くので、あの年よりはかなりましなように思えますが、札幌では観測史上四番目という34、2℃、帯広では36℃を記録するなど、日中の気温は完全に本州並みの日々です。
 暦の上では秋を迎え、札幌の夏の風物、大通公園のビアガーデンも8月11日でラスト、テレビやラジオのCMでは、早くも暖房機や融雪機のコマーシャルが始まっているというのに、暑さはまだまだ居座っています。こうなると、北海道では、5年前の猛暑の時同様、エアコンや扇風機が、量販店の店頭から姿を消すという事態になります。夜しか家にいない私には実感のない話ではありますが、一日家に居通しの主婦や自営の人々には、相当深刻な問題のようです。

 さて旅人はというと、例年よりは早く、6月下旬より宅配の仕事に従事することになりました。その前の道路区画線工事の仕事との僅かな間隙をぬって、ニセコ方面へ車を走らせました。札幌から小樽までは晴天、毛無峠周辺では霧に見舞われたものの、赤井川から仁木、共和にかけては再び素晴らしい晴天に恵まれたものの、ニセコ山中に向かうにつれ、再び霧の中…しかし、道道岩内洞爺線のサミットを越えると、再び晴れに…そこからやや下った湯本温泉の国民宿舎で日帰り入浴。大露天風呂から、ニセコ山系のパノラマと、ひたすらに澄み渡った、初夏の青空を見上げることができ、最高の初夏の一日となったのでした。 深夜から早朝にかけて、山菜や筍とりの人々で賑わう湯本駐車場で一晩を過ごし、翌日は積丹半島へ。愛車に積み込んだMTBで汗を流した後は、神恵内村の“温泉998”で一浴。海水よりしょっぱいというのが売りの温泉を楽しんだ後、当丸峠〜小樽経由で札幌へ戻ったのでした。一泊二日ではありながら、海と山、サイクリングに温泉と、たいへんに充実した二日間でした。

 その翌日から、ペリカン便の仕事開始。担当するのは、中央ペリカンセンター管轄地最南端に位置する幌南エリア。同じ中央区の宮の森、或いは南区の真駒内といえば高級住宅街として著名だが、南二十条から三十条にかけての我が幌南地区も、それらに遜色取らない邸宅街。7月に入ればギフトが大幅に増加し、大いに稼げるモードに。しかし、当然ながら、中元のピーク時ともなれば一人ではこなせない物量になるのは必然で、当然アルバイトを入れることに。ところが、最初に来たオヤジは一日で辞め、代わりに入った兄ちゃんは、車のスピーカーが傷つくとか吐かし、二言目には「もう積めません」と言い出す体たらく。一個いくらの歩合の仕事なのだから、荷物が少なくて文句を言われるのなら理解できるのだが…
 その兄ちゃんも、就職が決まったとかで去り、その後は他区域のレギュラーに手伝ってもらったりして凌ぎ、さすがに8月の声を聞くと、物量の方は一段落。とは言いつつも、減りそうでなかなか減らない“最後のあがき”状態がしばらく続き、盆明けになって、ようやく落ち着きを取り戻した感じで、仕事の合間にこれを書いたりもしています…

 しかし、返す返すも、北海道のこの夏は暑い。例年なら、盆が明けた頃には秋風が吹き出すのに、今年はとんでもなく、札幌では一週間以上も真夏日が続きました。幌南の麓から見上げる藻岩山の山肌は青々とした樹々に覆われ、これまた青々とした空、そして地平近くには白い雲。不意に、どこか熱帯の国で仕事をしてるのでは、などという錯覚に陥ったりもします。何しろ8月前半の平均気温は、那覇より札幌の方が高かったというのですから…
 とは言いつつも、各地の海水浴場のクローズのニュースが伝わってきたりと、少しづつではあっても、北の大地は着実に秋を迎えるモードに入りつつあるようです。そして旅人個人は、月末から来月にかけて一週間くらい仕事を休み、どこかへ出かけようかと思っています。そして、9月いっぱい今の仕事をして、10月はフリーの予定。夏の旅は残暑の頃になってしまったけれど、秋は、北海道を心ゆくまで、と思っています。今は、それに備えて、稼ぎまくるしかないと割り切る以外ないようです。

 以上、北海道&旅人、ナウ、でした。



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 連載、岬をめぐる道

 第二回 最北の二つの岬を走る

 留萌から日本海に沿った、国道232号線を北上する。寂しい海岸と、内陸には小高い丘陵が続き、単調な道程ではある。羽幌あたりでは天売、焼尻の島影が見えるが、平坦な島で、さして強力なアクセントにはなりえず、淡々としたドライブが続く。
 陸側には、時折、ぽっかりと口を空けたトンネルの姿を見受ける。かつてここを走っていた羽幌線の遺構である。かつては産炭地だったこの沿線に、鉄道は必要不可欠な存在だった。しかし、国のエネルギー政策の転換で炭鉱は閉山に追い込まれ、かつての産炭地は過疎に追い込まれた。貨物、旅客両方の客を奪われた羽幌線は、昭和62年3月をもって鉄道としての役目を終えたのである。
 そんな鉄道遺構を目の当たりにすると、志半ばで逝った鉄路の怨念が伝わってくるような気がする。圧巻は、初山別市街を過ぎた国道右手にかなりの区間にわたって残るコンクリート橋で、撤去をするにも費用が掛かり過ぎるものと思われ、おそらくは半永久的にその姿をさらし続けるのであろう。
 かつて、この羽幌線の保線にたずさわった人々は、
「このへんの雪は、上からだけでなく、横からも下からも降る」
と言ったという。そのとおり、留萌北部から小平、苫前、羽幌、さらには初山別にかけての日本海沿岸は、冬には凄じい地吹雪に見舞われるところである。通常の吹雪なら、上と横からの吹きつけだが、地吹雪となると、それこそ上、横、下の全ての方向から吹きつけ、時に視界は数メーターというひどい状態となる。私も数年前の冬、ここを走っていて、まさに目の前も見えない状態にさいなまれ、肝を冷やしたことがある。通常は特殊自動車にしか搭載が認められていない回転灯が、この地区に使用本拠を置く自動車には特例で認められているというのも、頷ける話ではある。
 遠別まで進むと、左手の海上には利尻富士の秀麗な姿が見え出す。富士と呼ぶにはやや武骨な山容だが、北の絶海に浮かぶ孤高の頂は、行く人の目をとらえて放さぬ神々しさである。
 天塩から232号線は内陸へと向かうので、ほぼ海岸線を忠実にたどる道道稚内天塩線へと進路を取る。十余年前まではダート区間も残り、冬季は通行止めとなる道だったが、現在は完全舗装となり、冬季間も通行可能である。しかし、道幅は広く、休憩施設やスノーシェルターまで設けられている割には、交通量はごく少ない。利尻富士はますます間近に迫り、海岸には様々な花が咲き乱れている。右手に広がる広大なサロベツ原野は、任意のどの一片を切り取ってみても、全く同じなのでは、と思えるほどの奥行きと広がりを見せている。そんな広がりの中に、ぽつん、ぽつん、と牧場があったりもする。ここに生きる人々の厳しい冬の生活は、果たしてどのようなものなのであろうか。
 幌延、豊富を経て、日本最北の市、稚内へ。風景を超越したような“超風景”の中を走っていると、時間の経過さえも曖昧に思えてくるから不思議である。
 やがて、海岸段丘が右手に迫り、小さく日本海に突き出た抜海岬の付け根にある抜海の市街へ。市街と呼ぶべきか集落と呼ぶべきか迷うところだが、商店と郵便局があるので、とりあえず市街としておく。それを過ぎると、海岸の平地は一段と狭まる。このあたりの段丘上を宗谷本線が走っており、全線で唯一海が見え、しかも利尻富士と対峙するということで、国鉄時代から急行列車も徐行し、乗客サービスに努めている区間である。
 さらに進むと、道は二股に別れる。道なりに右手に進めば、丘を越えて稚内の市街に至るが、ここは海岸沿いの左の道へと進む。おもむろに道幅は狭くなり、集落が次々に展開する。ひときわ大きな富士見の集落には、市営の“稚内温泉童夢”や公共宿泊施設、民宿や青少年の家などもある。“童夢”の露天風呂からは利尻、礼文の島影も望め、日没時が最高である。
 さらに北進を続けると、右手の丘が途切れ、道は大きく右にカーブをする。道なりに進めば稚内市街へ至るが、左に折れ、野寒布(のしゃっぷ)岬へと進む。道の両側には建物が立ちこめ、岬へ通じる道というイメージには乏しい。やがて右手に大駐車場のある土産店があり、ノシャップ寒流水族館が現れる。そのすぐ先で道は途切れ、そこが岬で、稚内灯台が立っている。起伏の全くない、のっぺらぼうのような岬である。間近まで水族館の建物が迫っているせいもあるが、灯台がなければ、岬だとは気が付かないかもしれない。地図で見れば確かに岬の体を成してはいるが、実際に立ってみると、短小軽薄な印象は拭えない。
 そこから稚内市街を経て、国道238号線に進路を取る。市街地外れまで来ると左手に宗谷湾が広がり、海の穏やかな日には、多くの漁船の姿が見受けられる。声問を過ぎると市街地は完全に途切れ、海岸沿いにはメグマ原生花園と呼ばれる湿性花園が広がり、ハマナスやエゾカンゾウが美しい。晴れた日には、沖合にサハリンの姿が見える。この海峡は、国境の海なのである。原生花園が終わると、右手には宗谷丘陵が間近に迫る。短小軽薄な印象の野寒布岬と比べ、こちらは重厚長大な面持ちである。道はカーブを繰り返し、間宮林蔵渡樺出航の地を経て、いよいよ日本最北端、宗谷岬へ。かつては、国道の傍らの海岸に、ぽつんと日本最北端の碑が立っていて、その風情はなかなか良かったのだが、国と稚内市は観光誘致のため、その一帯を埋め立てて駐車場とし、碑は人為的に少し北へと動かされる結果となった。私的には、かつての風情の方が好きだったのだが…
 岬の背後は丘陵地で、宗谷岬灯台が立ち、その背後には風車のあるオートパークが近年整備された。旧日本軍の望楼が残るのは、かつて国防の最前線として、この地が置かれていた時代の名残である。
 岬を回り込むかたちで進むと、大岬と呼ばれる集落が展開する。地図で見れば、まさに日本の最果ての地であるが、なかなかどうして、そんな最果てには不釣り合いとも思える立派な家々が軒を連ねている。このあたりの漁の主力は養殖のホタテで、それらの立派な家々は、“ホタテ御殿”と呼ばれている。停まっている車も、シーマはあるはセルシオはあるはで、まったく北辺の地に似つかわしくない。地図とガイドブックだけを見て、どんな寂しいところなのだろう、という先入観を持ってやって来た旅行者がいたなら、度肝を抜かれる思いに至るに相違あるまい。
 その大岬集落を抜けると、道は丘陵を縫うように走り、海と間近なところなのに、高原を走っているような錯覚にとらわれたりもする。左手には穏やかなオホーツク海が広がる。ここから紋別、そして網走へと至る道は、穏やかな季節では、単調な道程である。が、冬ともなればオホーツクは流氷に閉ざされ、そうなれば、単調云々を超越した、もはや言葉では表現し難い世界となる。そんな冬のドライブにも、また訪れてみたいと私は思う。(完)

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 連載、北の湯めぐり

 第二回 網走周辺の公営温泉を訪ねて

 北海道、網走といえば、道東観光の拠点都市として名高い。のみならず、市内に網走刑務所、博物館網走監獄、そして網走湖、天都山、能取岬などの観光スポットも多く抱え、冬には流氷観光船も網走港から出航し、季節を問わず、多くの観光客で賑わっている。
 そんな網走市内にも温泉は湧いているが、残念ながら公営の温泉としては、かんぽの宿網走があるだけで、純然たる市長村営温泉はない。しかし、周辺市町村に目を向ければ、デラックス温泉からひなびた雰囲気の山の温泉、銭湯代わりに気軽に入れる温泉など、その充実ぶりには目を見張る。今回は、そんな温泉たちを訪ねてみたいと思う。

 まずは、網走の東隣に位置する、小清水町の「小清水町ふれあいセンター」を紹介しよう。原生花園で知られる小清水町だが、町の中心は内陸部にあり、農業が基幹産業のマチである。その市街地中心からやや東にそれはあり、宿泊施設も備えた鉄筋二階建ての立派な建物である。
 特筆すべきは、入浴料大人三百円という安さにもかかわらず、極めて施設内容が充実していることである。フロントで料金を支払うと、貴重品類は預かってくれる。脱衣所にロッカーがないかわりに、無料預かりをしてくれるのである。突き当たりにある、日帰り客も利用できるレストランの前を右に折れ、突き当たりにある休憩室の前で、靴を脱ぐことになっている。一段上がった左側が浴室で、仕様の異なった浴室を、週代わりで男女に使い分けている。とはいっても大きな違いではなく、片方には滝風呂、片方には歩行浴があるといった程度のものである。
 双方に共通しているのは、大浴槽のほか、ジャグジーバス、寝湯、サウナが備えられていることで、さらにシャンプーとボディソープも置かれている。露天風呂こそないが、ほぼフル装備施設内容と言ってよく、それらを銭湯より安い(現在、北海道の銭湯は大半の地区で大人三百六十円)料金で利用できるのだから、小清水町の人々は幸せである。施設内容と料金を比較すれば、全国でもトップクラスの低料金温泉と断じることができそうである。
 お湯は、やや黄緑色をしたナトリウムー塩化物泉、源泉温度で50℃あり、肌にしっとりとする感じの湯である。聞いたところによれば、特に水虫には効くそうである。宿泊は一泊二食付き六千六百円からと手頃で、宿泊客に限り朝風呂にも入れるとのことである。
 次に紹介するのは、網走の南東に位置する酪農の村、東藻琴村にある「藻琴山温泉」。東藻琴の市街からは、道道網走川湯線を屈斜路湖方面へ進んだ山あいにあり、温泉宿泊施設のほか、オートキャンプ場、ゴーカートなどの施設もある。背後は芝桜の丘で、毎年初夏には、丘一面が鮮やかなピンク色に染まり、圧巻である。この村では、のんきと、心に鍵を掛けない“ノン・キー”に引っかけ、「ノンキーランド」を標榜しているのだが、遠くに藻琴山の頂を見上げるこの場所にやってくると、確かにのんびり、のんきに過ごしたくなってしまう。観光ガイドには載っていない、知る人ぞ知る穴場温泉といえよう。
 村営の温泉宿泊施設は、昭和40年代にできたものなので、今時の公営温泉のようなオシャレさはなく、浴室も大きな浴槽が一つだけ、シャワーも一基しかなく、当然のように露天風呂もサウナもジャグジーも打たせ湯もない。しかし、湯量は豊富で、含塩化土類食塩泉の湯が、24時間こんこんと湧き出している。 この日帰り料金は大人二百五十円という安さ。それでありながら、シャンプーと石鹸は備えられているのだから、設備の簡素さを差し引いても、十分納得の価格である。前述の小清水ふれあいセンターのような設備の整った温泉は、それはそれでいいが、ここのようにシンプルで、ひたすらにお湯につかることに専念できる温泉というのも、時に悪くはあるまい。宿泊も、一泊二食付五千円からと手頃で、それでありながら料理はなかなかの豪華版である。6泊以上での湯治も受け付けており、この場合は一泊二食付二千九百円となる。
 次は、秀峰斜里岳のふもと、清里町札弦にある「パパスランド」に足を運ぼう。斜里から裏摩周へ至る道道摩周湖斜里線沿いにあり、宿泊施設を持たない日帰り専用の温泉である。入浴料は大人二百八十円と、小清水、藻琴山両温泉の中間を取ったような設定となっている。泉質はアルカリ性単純泉で、普通浴槽のほか、ジェットバス、打たせ湯、そして小石を敷き詰め、足の裏のツボを刺激するのによいという歩行湯がある。シャンプーはないが石鹸はは置かれており、休憩室やレストランもある。設備面では小清水温泉には譲るが、銭湯代わりに立ち寄れる気軽な温泉である。町内にはほかに、市街中心部に近いところに「緑風荘」という宿泊施設も備えた温泉もあり、日帰り利用はパパスランドと同料金である。筆者はこちらにはまだ足を運んでいないが、近いうちには訪ねてみたいと思っている。
 網走から南に下った空港の街、女満別町にも、町営の日帰り温泉「農業構造改善センター」がある。ここは、休憩室こそ備えているが、浴室は大浴槽があるだけで、シャンプー、石鹸もなく、入浴料は銭湯と同じ大人三百六十円である。ナトリウムー炭酸水素塩・塩化物泉の湯は温浴効果が高く、なかなかいい湯であるが、周辺市町村の温泉と比べ、設備、装備面での見劣りは否めないのが正直なところである。温泉の銭湯、と割り切った利用が無難かもしれない。
 その南に位置する美幌町にも、近年立派な公営日帰り温泉が誕生した。美幌市街から美幌峠に向かう国道243号線沿い、都橋地区に忽然と現われるのが、「峠の湯びほろ」である。丸太を組んだ巨大なドーム屋根の浴室が特徴で、風呂の種類の多さは道内の公営温泉随一ではなかろうか。大浴槽のほかにジャグジー、寝湯、薬湯、打たせ湯、露天風呂、サウナ、ミストサウナに水風呂…お湯はナトリウム塩化物―炭酸水素塩泉で、やや黄色みを帯びている。さらに特筆すべきは、ソフト面での充実ぶりである。入浴料は大人五百円だが、この料金でフェイスタオルを貸してくれる。さらには、手ぶらでやって来ても、千円を出せば、フェイスタオル+バスタオル、浴衣までも貸してもらえる。さらにこのコースだと、仮眠室の利用までもセットされている。
 浴室に備えられたシャンプー、ボディソープは特筆事項には当たるまいが、脱衣所の洗面台にはローション、リキッドといったコスメティックまでもが備えられている。ホテルやサウナならいざしらず、公営温泉でコスメティックを置いているのは、私の知る限りここだけである。また、脱衣所は全てロッカーで、これはコインリターン式で無料である。館内にはレストラン、軽食コーナー、休憩室に地元産品を扱う売店もあり、まさに非のうちどころのない公営温泉である。
 思うに、先に述べたような低料金、かつそれなりに充実した設備の市町村温泉が近隣には多くあるため、この峠の湯びほろは、ハード面のみならずソフト面での充実に特に力を注いだ、ということらしい。施設が立派なだけに、料金面ではこれ以下への設定は難しかったとも思えるが、内容的には六百円を取ってもいいだけのものである。それを敢て五百円に押さえ、かつソフト面の充実に心血を注ぐというのが、この温泉の方針らしい。事実、町内のみならず近隣からも多くの客がやって来て、土日ともなればいつも賑わっている。戦略の勝利というところか。
 このほかにも、この一帯の市町村で公営温泉を持つところはまだあるが、全てを紹介していては際限がなくなるので、今回はこのくらいにしておこう。今回紹介した五ヶ所は、いずれも車ならば最大で一時間も離れていない距離にあり、ハシゴをしてみるのも悪くなさそうである。もちろん私のおすすめは、どこか一つに絞り、一日、或いは半日を、のんびりと過ごすという手法ではあるが…最後に、その五ヶ所のへのアプローチを紹介し、終わらせていただくことにしよう。

 小清水町ふれあいセンター
 網走から国道244号線経由、浜小清水より小清水市街方面の標識に従い右折。網走市街より約45分。
 交通機関利用は、網走より網走バス小清水行にて終点下車、徒歩約10分。
 藻琴山温泉
 網走から国道244号線を、藻琴駅前からは東藻琴、川湯方面(道道網走川湯線)に右折。網走市街より約50分。
 交通機関利用は、網走または藻琴駅前より網走交通バス東藻琴行乗車で終点乗換え、村営バスにて藻琴山温泉下車。

 パパスランド
 網走より小清水市街を経て、札弦峠を越えておよそ所用1時間強。
 交通機関利用は、釧網本線札弦駅より徒歩10分。

 農業構造改善センター
 網走から国道39号線を経て、女満別空港方面の標識に従い左折後、温泉の案内板に従い左折、網走より約30分。
 交通機関利用は、石北本線女満別駅から徒歩15分。
 
 峠の湯びほろ
 網走からは国道39号線、243号線を経由して約50分。
 石北本線美幌駅からは、タクシー利用で約10分。

(次回は、道北方面の温泉を紹介します)



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 連載、グルメ情報

 第二回 北の銘柄米

 米どころ、という言葉から、皆さんはどこを思い浮かべるだろうか。多くの人は、新潟、或いは宮城、山形、秋田といった東北地方なのではないだろうか。一方我が北海道は、酪農、或いは大規模畑作のイメージは強いが、北海道と米どころを結びつける人は少ないのではなかろうか。
 ところが実際は、北海道は都道府県別稲の作付面積日本一なのである。石狩平野に広がる見渡す限りの水田など、圧巻である。にもかかわらず、米どころのイメージに乏しいのは、長く、全国に誇れる銘柄米に恵まれなかったことが大きな要因ではなかろうか。 これは、北海道に於ける稲作の条件の厳しさと切って切れない問題であろう。長く銘柄米のトップブランドであり、全国各地発の新しい銘柄米が相当に知名度を上げた今を以て、依然銘柄米のトップ二強に君臨する「ササニシキ」、「コシヒカリ」は、いずれも冷害には弱く、寒冷地での作付には適さないという本質的問題がある。それにもまして、北海道の稲作は、本州、ことに関東以南の地区と比較し、大きなハンディを背負っている。たとえば、九州や四国では、3月の下旬ともなれば、早くも田起こしが始まり、間もなく水が張られ、田植えを待つばかりとなる。ところが、同じ頃、北海道の農地の大半は、まだ雪に閉ざされている。北海道の田起こしと田植えは、西日本の早いところより、確実に一月以上遅れるのである。
 そればかりではなく、秋の訪れの早い北海道では、9月も半ばとなれば霜のおりることもままあるので、収穫もその前ということが要求される。そういう二重のハンディが、長く北海道発のうまい米の誕生を妨げていたようである。
 筆者は十数年前の一時期にも、北海道で生活したことがあるのだが、その頃の北海道米の主力銘柄は、「きたひかり」「ゆきひかり」という二銘柄であった。しかし、どちらも食味の点では本州の銘柄米には遠く及ばず、ヌカ臭さがどうしても気になるなど、とても全国に誇れるような銘柄米ではなかった。現在では死語となったが、当時では店頭にに並んでいた「政府米」の方が、むしろ食味がよいのでは、というものだったのだから、当然、道内での人気もいま一つであった。
 後になって、「きらら397」が登場する。この銘柄は、それまでの道産米につきものだったヌカ臭さがなく、粘り気の少ない炊き上がりが特徴であった。しかしそれとて、食味の点では、本州産の銘柄米にはまだまだ及ばぬものであった。道産米でも、とりあえずは食べられる銘柄が登場したか、といった程度のものであった。
 しかし、そんな北海道にも、平成9年秋、これこそは、と言えるブランド米が誕生した。その名は「ほしのゆめ」といい、食味の良さでは定評のある「あきたこまち」と、それまで道産米のトップブランドであった「きらら397」を交配して完成したというもので、ほどよく粘りのある炊き上がりと、冷めてからの味落ちの少なさは、これまでの道産米の常識を大きく覆すものであった。事実、道内での「ほしのゆめ」に対する評価はうなぎのぼりで、登場から二年足らずで、もはや「きらら」を完全に追い落とし、道産米トップブランドに成長しつつある。
 これをお読みの北海道外の方は、もし店頭で「ほしのゆめ」を見かけた折には、ぜひとも購入し、その味のほどをお試し願いたい。大規模作付の北海道米だけに価格はリーズナブルでありながら、その食味は十分満足いただけるものと私は信じて疑わない。それだけではない。清涼な気候の北海道は、当然病害虫の発生も本州と比較して遥かに少なく、ゆえに農薬使用量も、作付面積換算では全国一少ないのである。いわば日本一クリーンな米なのでもあって、食味、価格、そして安全と三拍子揃った北海道米を、道外の方々にも、ぜひ試してもらいたいものである。
 最後に、「ほしのゆめ」以外の銘柄米についても、その特色を述べておこう。「きらら397」は、前にも述べたように粘り気の少ない炊き上がりが特徴なので、チャーハンやピラフ、リゾットといった米の炒め料理、炊き上げ料理には好適である。また、今では小売店の店頭では見かけることのなくなってしまった「ゆきひかり」は、全国で唯一、米アレルギーを起こさない米として引き合いがあり、細々とながら、栽培が続けられている。筆者は数年前、旅先の鹿児島の精米店の軒先に、50キロ袋で積み上げられた同米を見かけ、なぜこんな南の地に北海道の、しかももはや主力ではない銘柄米が、と思い至ったことがあったのだが、かような事情で全国に引き合いのある米だと知ったのは、そのかなり後になってからであった。
 「北海道は米どころ」
 道内の方々は、いま一度このことを認識し直してもらいたいし、道外の方は、ぜひ一度、北海道米をお試しあれ。その期待を裏切らぬことであろうことは、この旅人が保証しよう。(完)



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 旅人コラム

 青春18きっぷのシーズンを迎えて

 いまや、「青春18きっぷ」について、あえて説明を必要とする人は少数なのではなかろうか。春、夏、冬の年三回発売され、5日間ないし述べ5人で、全国のJR線の普通、快速列車に乗り放題の切符である。鉄道好きの人間のみならず、用務客や中近距離での帰省やレジャーに幅広く利用されていることは、もはや周知の事実である。
 この切符のルーツである「青春18のびのびきっぷ」が登場したのは、昭和58年夏のことであった。当初は、2日間有効の券が組み込まれていて、都合6日間利用できたように記憶しているが、後に1日ないし一人有効の券五枚綴りとなり、長くこのスタイルが続く。
 平成8年春の発売から、一枚の券で5日、ないし五人での利用のスタイルに改められ、使い勝手は非常に悪くなってしまった。これは、都市部の金券ショップでのバラ売りが日常化し、ビジネス客などの「きっぷの趣旨以外の利用」への歯止めが目的だったようである。何よりも痛かったのは、それまでのように、必要な枚数を金券ショップで揃えるということが不可能となったことで、気ままな旅をする私には痛かった。しかし最近では、使い残した残分を買い取る金券ショップが増え、少なくとも首都圏あたりの金券ショップでは、残一日につきいくらで、半端日数分を購入できるようになった。JRが使い勝手を悪くしたからといって、金券ショップ側も黙っては引き下がらないのである。
 さて、この青春18きっぷ、現在の価格は一万一千五百円で、一日分は正価だと二千三百円となる。これで、果たしてどれだけの距離を移動できるのだろうか。0時を過ぎて最初の停車駅から、翌日の0時を過ぎて最初の停車駅まで一日分で乗れるので、私はよく、首都圏から札幌に戻る時に、二夜行快速を乗り継ぎ、一日分で高崎から新札幌まで移動している。営業距離で1166.8`、所要時間は実に28時間45分である。二十四時間を越えても、なお一日分の効力が持続するのは、最終ランナーの函館発札幌行の快速“ミッドナイト”が、23時30分に函館を出た後、翌朝6時15分着の新札幌まで、時刻表の上では無停車だからである。
 しかし、調べてみると、所要時間はこれより短く、かつ長距離の移動が可能であった。まず、東海道線の夜行快速“ムーンライトながら”に、横浜から0時10分に乗車する。6時51分に大垣に到着した後は、東海道線から山陽線を乗り継ぎ、夜になって九州入りし、鹿児島本線へと進めば、最終ランナーの大牟田発熊本行351Mの上熊本発が0時01分。時刻表だけではわからないが、もし上熊本着時刻が0時00分なら、上熊本がゴールということになり、実に1290`を、23時間50分で移動できることになる。こんな酔狂?とも思えることを実行するかどうかは別問題としても、これを表定速度に直すと54.13`。人口密集地帯を走る主要幹線ばかりを辿るとはいえ、なかなかの俊足ぶりである。このことを考えれば、普通列車乗り継ぎの旅も、捨てたものではないことがおわかりいただけよう。
 もちろんこれは極端な例であって、青春18きっぷの最大のメリットは、JR旅客六社全ての路線で、自由に乗り降りができるという点だろう。逆の考え方をすれば、一日(一人)二千三百円分を乗れば元は取れるのだから、乗っては降りてを繰り返し、様々な駅、街に足跡をしるすことができるのである。漠然とどっち方面へ行こうか、ということだけを決め、あとは気の向くまま、列車の来るまま、といった旅は、この切符でなければ、なかなかできるものではない。
 さて、この青春18きっぷ、先にも述べたように使い勝手の点では以前より悪くなり、一部では、販売した各旅客会社内でしか利用できないようにするという動きがあるとも耳にしている。実際に、東海会社の乗務員は車内改札の折、それに通じるようなことを多々発言しているのを耳にしており、一部旅客会社には、売り上げの配分に対する不満があるようにも思える。小耳にはさんだところでは、この切符は実際の利用実態を追跡することは不可能のため、その売り上げは販売した会社に重点的に配分されるようになっているという。それが事実なら、自社沿線の人口の多い本州三社が有利であり、逆に三島会社は不利となる。なのに、東海会社が不満を持っているというのは解せないが、ともあれ全国で会社の別なく使えてこその青春18であり、これ以上の“改悪”を許してはなるまい。但し、この8月のJR時刻表では、見開きの2ページを使い、「“青春18きっぷ”で出かけよう」と題し、車中4泊5日の日本縦断モデルコースを紹介し、便利な夜行快速列車の一覧表を載せるなどしている。これを見る限り、JRグループとしてもこの切符の必要性を認識していると受け取れ、当面は安泰と見ることができるのではなかろうか。
 さて、筆者も、この夏の終わり、“青春18きっぷ”で出かけようと思っている。例によって、特に行き先、あてはない、ふらり旅となりそうである。しかし、心の片隅には、先に述べた一日分で1290`の旅に挑んでみたい、という思いもあり、果たしてどうなることやら…その顛末は、次の号で報告したいと思っているので、請うご期待!



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 さて、旅人通信盛夏号、いかがでしたか?多忙な仕事の合間を縫っての執筆のため、執筆期間が長きに及んでしまったことをお詫びします。次号は、北海道秋たけなわ、の頃にお届けできたらと思っています。それでは、次号までごきげんよう!



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