いよいよ本格的な秋、ですね…といっても、道外の方々には、まだいま一つ実感ないかもしれませんが、ここ北海道は、もはや秋色濃厚です。この夏は、例年にない猛暑ではありましたが、8月から9月へと移行するのに合わせたかのように、一気に気温は下がり…と言いたかったのですが、9月に入っても気温は高めのまま経過し、夏日を記録した日も多かった上旬です。しかし、それも間もなく一段落し、10月ともなると雪便りもあちらこちらから届き、もはや完璧な秋を迎えました。藻岩山の山肌も、日々色づきが進行しているのがわかります。短く、燃えるような北の秋、そしてその後には長い冬が…痛快なまでに明確な北の季節感。それを体感できるのも、こちらへ移住した者の冥利、と思う反面、氷雪との格闘の季節が迫りつつあるのもまた事実。旅人としては、ややすれば複雑な心境にならざるを得ないこの頃です。
秋といえば修学旅行シーズン。観光客の姿がめっきり減った札幌市内では、変わって制服姿の集団を随所で見かけるようになりました。主に道内、或いは北東北地方からの高校生が多いようで、観光云々より、自由行動時の、マチでのショッピングが彼ら一番の楽しみのようです。それもそのはず、札幌といえば道内のみならず、東京以北では最大の都市。“マチ”に憧れる地方の高校生にとって、札幌は東京に遜色取らないメガロポリスなのです。
さて、過ぎ去りしこの夏の北海道は、久々に“鉄道復権”の夏だったように思います。NHKの連ドラ「すずらん」のロケ地に留萌本線の恵比島駅が、また、映画「鉄道員(ほっぽや)」のロケでは根室本線の幾寅駅が抜擢され、合わせてSLすずらん号、レトロ風気動車のぽっぽや号も運行され、両駅を中心に多くの観光客が訪れました。筆者も先日、「明日萌駅」こと恵比島駅を訪ねましたが、駅ならびに駅前の店はロケ時の姿のままであり、駅前には臨時の売店も出て、それまでは山あいの貨車改造の待合室だけの静かな無人駅に過ぎなかった小駅は、多くの観光客で賑わっていました。但し、私を含め、大半が車での来訪者だったようですが…
そして、鉄道復権のとどめは、なんといっても“カシオペア”のデビューでしょう。国鉄時代の昭和50年代以来、実に四半世紀ぶりに登場した新型客車寝台車は、その客室の全てが二人用の個室というデラックス車両。それでありながら、7月の運転開始以来、ほぼ満室での運行が続くという盛況ぶり。これは、運転時間帯や料金を度外視しても、“列車の旅”を楽しみたいという層が日本にも潜在的に存在していたことを証明したということでもあり、斜陽の叫ばれて久しい寝台列車の在り方に、一石を投じたと言えるでしょう。残念ながら、貧乏旅人の筆者には、当分は縁のない存在ではあるようですが…
鉄道の話をした後で恐縮なのですが、この夏は、テレビの「進ぬ!電波少年」の影響か、札幌でもヒッチハイクをする旅行者の姿を繰り返し見かけたことが印象的です。テレビの影響のみならず、景気の低迷が長期におよび、それだけ切実な状況での旅行しか許されない若者が世間に溢れ出した、という解釈も可能なように思えます。しかし、そのうちの数例は、ヒッチハイクの本質を理解していないな…と呆れてしまうものでした。
まず、最初に見かけたのは、北一条通りこと国道12号線の、ほぼ札幌中心部とも言える時計台近くで「旭川方面」の紙を掲げていた若者。その時の筆者は、中央ペリカンセンターのある桑園に出勤すべく、つまりは旭川とは逆方向に向かって走っていたので、どうすることもできなかったのですが、もう30分もすれば朝のラッシュが始まり、それ以降も、大半はごく近在に所用の車が行き交う都心部で、果たしてヒッチハイクが成功したのかどうか…
さらには、やはり都心部から程近い、国道36号線の豊平橋を越えたところのローソン前で「苫小牧方面」と掲げていた若者も。この時筆者は、急ぎの所用で自宅へ戻る(豊平橋から自宅までは約5分)途中であり、もしそうでなかったならば、
「こんな街中でヒッチしたって、下手すりゃ一日棒に振るぞ…」
と説教しつつ、ある程度街外れまで乗せてやったところなのですが…
常識のある方なら、敢て声高に叫ばなくともわかると思いますが、市街地の中での通過車両の行き先は、それこそ千差万別。ましてや、車が数珠つなぎで走行しているとなれば、おいそれと止まることもままならないもの。そんなところでヒッチをしても、タクシーが止まるのが関の山。札幌のような大きな街からのヒッチハイクは、鉄道やバスを利用し、ある程度郊外まで出るのが必須条件なのです。
その点、宅配の仕事中、南30条(中央区の最南端、南区との境)の国道230号線で見かけた三人組は、そこまで歩いて来たのか、或いはバスを利用したのかはわかりませんが、場所的にはなかなか好適な場所でのヒッチハイクをしていると思いました。ただ、三人となれば、おいそれと乗せてくれる車はなかなかないと思え、彼らにもそれなりの試練が待ち受けていたことでしょう。もし、宅配の仕事が暇な日であれば、一人を助手席、二人を荷台に乗せ、市街の完全に途切れる簾舞(みすまい)あたりまで、送ってやってもよかったのですが…
かく言う筆者は、ヒッチハイクの達人であります。十余年前の北海道移住の時も、そしてそれから横浜へ戻る時も、当然のようにヒッチハイクでの移動でしたし、その間には札幌から鹿児島までのヒッチハイクもしました。のみならず最近でも、平成9年の夏、九州別府を振り出しに、久住高原を経て熊本県の宮地に至る一泊二日のヒッチハイクを敢行しており、まだまだヒッチハイカー現役です。むろん、北海道内では、車での移動を放棄してまでヒッチハイクをする気はありませんが、これが道外へ出たときにはその限りではなくなります。全てをヒッチハイクでの移動に委ねる、そんな旅も、たまには悪くないかもしれませんね…
さて、秋を迎えて、宅配の仕事もとりあえずオフに。秋の道内への旅へ、いよいよ出かけることになりそうです。それについては、次号で報告させていただきたいと思っています。請うご期待。
以上、旅人&北海道ナウ、でした。
第三回 能取岬
網走市の北西、オホーツク海に突き出した岬、それが能取岬である。ある年の1月下旬、流氷接近の便りを聞き、網走へと足を運んだ。
網走市街から、海岸に沿って北へ進路を取る。間もなく網走水族館に至るが、流氷観光のシーズンにはまだ早く、人影は皆無であった。さらに先に進むも、行き交う車は疎らなまま、道はやがて海岸を離れ、林間のアップダウンを繰り返す。この網走地方は、全道的にも積雪はあまり多くないところだが、林間の道路は当然のように凍結路面で、自ずから慎重な運転を要求される。
そんなアップダウンの繰り返しの末、長い下り坂の向こうに、水平線が見えてきた。そして、林が途切れるや否や、道路上の雪はなくなる。それだけ、風が強く、雪は地に根おろすことができないのである。
緩やかな上りの先は、岬へと一直線へ下る道となる。激しい風に、細雪が舞う。オホーツク海は白波を立て、青い広がりを見せているが、目を凝らせば、確かに水平線近くには、白いものがうっすらと見えている。むろん、それがこの波打ち際にまで押し寄せるには、まだしばらくの時間がかかろう。しかし、このオホーツクが一面の氷に閉ざされる本当の冬は、もうすぐそこにまで迫っていることを実感する。
台地状の岬の突端近くにまで車を進め、車外に降り立つ。しかし、その風の強烈さといったら何としたことか!風に煽られ、岬の断崖から飛ばされるのでは、と思うくらいの凄じい風である。とても1分と外にはいられず、車の中へ退散する。そんな風ゆえに、岬一帯に積雪はまったくない。冬のこの岬は、まさに“風の道”である。
月が変われば、この岬一帯は“オホーツクのっとりランド”となり、スノーモービルやパラセーリングといった、冬の娯楽が楽しめる観光スポットとなる。しかし、今はまだ観光客の姿はなく、そればかりか、誰をも寄せつけぬばかりの、激しい風雪が支配する世界である。
岬に背を向け、走り去る道すがら思った。穏やかな季節にここを再訪したなら、果たしてどのような印象を受けるのであろうか。北の岬の印象は、季節、そして天候によって、大きく違ってしまうもののようである。(完)
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第三回 道北の公営温泉めぐり
温泉天国、とまで呼ばれ、有名、無名を問わず数多くの温泉の湧く北海道。しかし、この連載開始の時にも述べたが、それらは全道に均等に分布しているわけではなく、南と東に大きく偏った分布図となっており、ことに道北地方は、長く温泉空白地帯と呼ばれてきた。
しかし、近年のボーリング技術の飛躍的進歩により、道北の市町村にも、次々に温泉が誕生しつつある。のみならず、全国的な知名度は低くとも、道内では古くから知られていた鉱泉がいくつかあったり、資源開発の際に湧出した温泉もあるなど、温泉通には、なかなか侮ることのできない地帯である。今回は、そんな温泉たちを巡ってみるとしよう。
北海道北部の日本海岸に沿って走る国道232号線は、日本海オロロンライン、の愛称を持つ。その沿道、札幌と稚内の中間地点よりやや北に位置する初山別村には、村営の「岬センター」なる温泉がある。昭和27年、仲山さんという漁師が「岬温泉」の名で営業を始めたのがルーツとされ、海岸近くに湧く冷泉の存在は、地元では古くから知られていたという。
現在の建物は昭和50年代後半に建てられたもので、鉄筋二階建て、宿泊室も備えるほか、コミュニティセンターとしての機能も持ち合わせている。浴室には、真湯の大浴槽と、茶褐色をした温泉浴槽とがある。泉質は単純緑ばん泉で、温浴効果が高い。日帰り入浴は、三百十円という安さで楽しめる。宿泊も一泊二食付き六千円と手頃で、近くの岬漁港で上がった新鮮な魚貝料理が楽しめる。予約で、ふぐちり鍋やたこしゃぶも味わうことができるそうで、ドライブ旅行の中継地に、ここを選択してみるのも一考である。
さらに北へ進路を取り、遠別町まで進むと、国道上に「旭温泉」の大きな看板が登場する。国道を逸れて山側へ6キロほど進むと、道の途切れるところに、町営の「旭温泉」がある。木造二階建ての建物は年期が入っており、お世辞にも立派とはいえないが、リニューアルを受けており、清潔感は保たれている。その名の通り行き止まりに位置するので、ここへやってくる客以外の車が行き交うこともなく、実に静かである。海岸からわずか6キロ入っただけなのに、とてつもない山奥に来たような気にさせられるところでもある。浴室は、岬センター同様に真湯の大きめの浴槽に、黄褐色の小さめの温泉浴槽という組み合わせ。狭いながらサウナもあり、窓から外のパークゴルフ場の芝の緑、そして山の樹々の青さを見ながらの入浴は、なかなかいいものである。温泉はナトリウムー塩化物泉で、ややしょっぱい。この温泉は、昭和47年、地下資源の試掘中に天然ガスとともに湧出したというもので、現在でも、温泉から分離した天然ガスを用いて浴用加熱をしているというユニークな温泉である。宿泊は、一泊二食付きで五千円と破格でありながら、夕食は山海の幸をふんだんに使った料理が供され、満足度は相当に高い。その食堂は日帰り客も利用できるほか、休憩室や、マージャンやジンギスカンが楽しめる和室もあり、四百円という日帰り料金も手頃であり、ドライブでの昼食時に立ち寄るのもいいかもしれない。
さらに北へ進むと、稚内に温泉が出るまでは、日本最北の温泉として知られていた豊富温泉がある。最北の温泉の座こそ明け渡せど、温泉街としては、いまだここが日本最北である。むろん、温泉街とはいっても、それは原野の中にこつ然と現れ、数軒のホテル、旅館と飲食店が立ち並ぶ程度で、著名温泉地のような賑わいには縁遠い。しかし、そんな裏寂れたムードが、日本最果ての温泉街らしいと言えなくもない。その風情は、個人的には結構好きである。
ここには、豊富町営の「ふれあいセンター」という公営温泉がある。日帰り専用の施設で、入浴料は四百円。休憩室、売店、食堂などを備えているが、浴室は大浴槽一つのみ、サウナや露天風呂、石鹸やシャンプーの備えもなく、ロッカーも有料など、近年の公営温泉と比較すれば、かなり不満は残る。しかし、ここの特色は、大正15年に石油試掘中に湧出したという、北海道の温泉では古い部類に入る歴史と、それゆえに、石油分を含む、ほう酸油性食塩泉という泉質にあるといえる。事実、浴室内には、石油の匂いが立ちこめ、茶褐色の湯に浮かぶ湯の花は、まぎれもなく石油のカスである。温浴効果はもとより、美肌効果も絶大であるらしい。男の私には関係のない話ではあるが、女性にはおすすめの温泉といえるかもしれない。
そして、いよいよ最北端の稚内市へ。ここの西海岸、富士見地区には、昭和五十年代、天然ガスの試掘中に温泉が出て、日本最北の温泉「稚内市民温泉保養センター」が誕生した。宿泊施設の「深雪荘」を併設し、無料の大休憩室を設けるなど、後の公営温泉の基準を先取りした感のある施設だったが、平成9年に隣接地に新築移転するかたちで「稚内温泉童夢」に生まれ変わった。新しい施設は、日帰り専用で宿泊施設は持たないが、館内には、稚内の味を手頃な値段で味わえるセルフ形式の軽食コーナーや、和室の休憩室、カラオケや、リクライニングチェアーで休める小休憩室などを備えている。浴室には、大浴槽のほかにバイブラバス、薬湯、打たせ湯、ミストサウナに乾式サウナなどを備え、露天風呂からは、晴れた日には利尻、礼文の島影、そして日本海に沈む夕陽を望むことができる。洗い場には隣との間に仕切りが設けられ、シャンプーとボディソープも備えられている。旧施設では四百円だった入浴料が、新施設では六百円にアップしたが、それを補うに十分な設備内容の充実ぶりで、最果てに新・名湯誕生と言えそうである。
お湯はナトリウムー強塩化物・炭酸水素塩泉で、源泉のままでは成分が強すぎるため、三倍に薄めて使用しているという。それでもなお、浴室内には石油系の匂いが立ちこめ、お湯はぬめる感じであり、口に含むとしょっぱい。三倍にしてそうなのだから、源泉のままではあまりに肌に強烈なのであろう。鉄筋二階建てのこの建物は、港町稚内をイメージしたという舟形をしており、また、二階の廊下部分は、施設名にもなった、稚内港北防波堤、通称稚内ドームを型どっている。前述のとおりここは宿泊施設は持たないが、富士見地区には公共の宿や民宿が数軒あり、いずれもここからは徒歩数分である。取り立てて何もない稚内の街に泊まるよりは、と思う方には、こちらでの宿泊がお薦めである。
今回紹介したこれらの温泉のほかにも、隠れた名湯、そして新たに誕生した新温泉が道北地区には数多くあり、いずれ道北の温泉第二弾、第三弾として紹介したいと思っている。それでは、また・・・(完)
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第三回 秋刀魚を料理する
北海道の秋の味覚…といえば、思い浮かぶものはキリがない。カボチャ、ジャガイモ、タマネギといった農産物、海の幸でも、こちらでは「アキアジ」と呼ばれる鮭や、牡蠣など、秋が旬の魚は、羅列しはじめたらキリがないのではなかろうか。
そんな中で、やはり秋の味覚の筆頭に挙げたいのは、やはり秋刀魚、さんまに尽きるのではなかろうか。
この秋は、猛暑の影響で近海の海水温の高い状態が続いたため、魚群の南下が遅れ、出始めの頃は魚体の小さいものが目立ち、価格もやや高めだったが、ここへ来て、魚体も大振りのものが主力となり、価格も下がってきた。ここは一つ、そんな秋刀魚料理に自ら挑んでみるとしようか。
まず、店頭での品定めだが、パックものは避け、一尾いくらでバットに入れられているものがベターである。魚体の中心よりやや後ろを掴んでみて、魚体がピン、と立つものが鮮度がよく、逆にぐんにゃりとしなるものは鮮度が落ちているものである。刺身にするには無論のこと、焼き物や煮物にするのにも、鮮度はいいに越したことがない。
さて、いよいよ料理開始である。まずは秋刀魚の王道、塩焼きである。出来れば、丸のまま焼きたいところだが、家庭用のグリルではさすがにしんどいので、半分に切る。この時のポイントは、ワタが流れ出ないよう、肛門の部分から頭に向かって約三十度の鋭角で切断することである。
焼く前の三十分ほど室温に馴染ませ、塩は焼く直前に振る。塩は荒塩を手で振るのがいい。そして、十分に余熱したグリルに入れ、強火の遠火で焼く。焼き過ぎては脂が抜けてしまうので、軽く焼き色が付いたくらいで返し、反対側も軽く焼き色が付いたらOKである。焼きたてに大根おろしを添え、レモンを搾ってあつあつをいただこう。パリッとした皮の食感と、口の中に広がる脂と、ふんわりとした身の歯触り…ほろ苦いワタもまたよし。冷凍ものでは決して味わえない、これぞ北海道の秋、というべき味わいである。
そして、この季節ならではの味わい、刺身にも挑まねばなるまい。先ずは頭を落とし、腹を割いてワタをはずし、三枚におろす。骨の部分は当然捨て、両側の身の部分は、骨抜きを使って中骨を抜く。それから皮をはがし、薄めの氷塩水に浸した後、水切りをする。その後は、細かくたたき風に切ってもいいし、大ぶりに切ってもいい。薬味は、ベーシックにワサビ、或いは生姜でもいける。変わったところでは、みじん切りにした玉葱というのも、北海道らしい味わいである。いずれにせよ、脂の何とも言えない甘みは、本鮪の大トロを彷彿させる味わいである。いや、下手をすれば、大トロ以上の味わいかもしれない。それでいて、価格は大トロの数分?いや数十分の一?なのだから、この味を知ったら、おいそれと大トロなど食する気にはなれなくなること請け合いである。
その他の料理法としては、鮮度の落ちたものなら、煮付けでもいけるし、塩を振ってカタクリ粉をまぶし、立田揚げにしてもまたいける。また、ぶつ切りにして白菜、葱、人参などの野菜とともに味噌汁にするのもいい。味噌の代わりに塩仕立てにし、三平汁風にするのもよかろう。王道の塩焼き、旬ならではの刺身のみならず、様々な料理法で舌鼓を打たせてくれる秋刀魚こそ、秋の味覚のチャンピオンであろう。
水揚げの本場、釧路や根室では、秋刀魚料理の専門店も多いと聞く。札幌でも、秋刀魚料理を供する店は数多く耳にするが、筆者は前述のように自前で料理して楽しんでしまっており、それらの店に関する情報は殆ど持ち合わせていないのが実情である。もし、料理店についての情報がどうしても必要ならば、可能な限り調査はしてみるので、その時にはご一報を。或いは、旬のうちに我が家まで、おいであそばせ…(完)
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寝台列車考(前編)
冒頭のコーナーでも述べたが、この夏、上野〜札幌間に新型寝台特急「カシオペア」がデビューした。一人での利用を度外視した全室二人用個室という編成で、最もデラックスな“カシオペアスイート”での上野〜札幌間の一人当たりの利用料金は七万一千三百五十円と、北斗星のB寝台利用の二万三千五百二十円の、ほぼ三倍の額である。編成中最もベーシックな“カシオペアツイン”だと四万七千七十円で、これだと北斗星B寝台の約二倍、A寝台ツインデラックスと同額となっている。このように高額な料金設定にもかかわらず、運転開始以来ほぼ満室での運行が続いているという。冒頭でも述べた通り、これは、運転時間帯や料金を度外視しても、列車の旅を楽しみたいという層が根深く存在していた証拠でもあり、斜陽が叫ばれて久しい寝台列車の、新しい在り方を示したともいえよう。この「カシオペア」、現在は一編成しかなく、当面は隔日運行で、車両の増備についてJR東日本では、冬場の旅客動向を見た上で検討すると言っている。ぜひとも編成が増備され、定期列車として定着することを願ってやまない。
さて、戦後の寝台特急列車の歴史を手繰れば、そのはしりは、昭和31年に東京〜博多間を結んだ「あさかぜ」の登場に遡る。戦後の輸送混乱から脱し、長距離の急行列車が次々に復活する中、昼行列車での運行時間帯に不便のあった北九州地区からの要望に応えるかたちで、東京と博多を夜行で結ぶ夜行寝台特急列車として誕生したものであった。しかし、その客車は、いわゆる“雑客車”と呼ばれる様々な形式の客車を寄せ集めたものであり、冷房のない車両もあり、デッキの扉は手動で運転中も開閉自在など、居住性、そして安全面でも問題のあるものであった。
そこで国鉄は、昭和33年、列車の先端から最後部までを“固定編成”として他形式との併結を考えないという、全く新しい形の寝台客車、20系をデビューさせた。編成の一端にディーゼル発電機を搭載した電源車を持ち、必要な電気は全てそこから供電され、空調完備、窓は全て固定式、食堂車も従来の石炭レンジから電気レンジ使用となり、デッキ扉も自動でこそないが、乗務員室からの操作で電気錠がかかるようになり、日本に於ける“ブルートレイン”の基本形が、ここに誕生したのである。
「あさかぜ」は“列車ホテル”と呼ばれ、一人用、二人用の個室から開放式B寝台、座席車までと幅広い設備の車両を連結(後に座席車ははずされるが)し、大変な人気となる。航空機輸送がまだ一般に浸透していない時代だけに、優等寝台車や食堂車には政治家、芸能人、スポーツ選手などそうそうたる面々が集い、おおいに賑わったという。
しかし、昭和40年代に入ると、航空輸送網が全国くまなく整備されることになり、一方の国鉄は、赤字の累積と労使関係の悪化が表面化し、相次いで値上げが行われた結果、価格面でも航空機との競争力を失い、急速な夜行列車離れが進行することになる。一方で、設備面での陳腐化が目立ち出した20系の後継として、昭和42年には初の電車寝台車となる581系が、昭和47年には新型客車の14系が登場し、いずれもB寝台の幅を20系の52cmから70cmに広げるなど、体質改善ははかられたものの、個室寝台車の制作は見送られ、夜行列車斜陽の影は確実に躙り寄っていたのである。
14系の改良型である24系客車では、その二次型というべき25形が昭和五十年代に登場する。B寝台を三段から二段式とし、また、A寝台車には新造の個室車が連結されたが、則廊下式の細長い個室は“独房”とあだ名され、あまり評判のよいものではなかった。そしてその頃になると、新幹線が博多まで到達し、同時に国鉄の赤字はいよいよどうしようもないまでの状態となり、車両の新製は極力見送られることとなる。つまりこの後、国鉄の分割民営化、JRの誕生に至るまで、寝台車の新製は行われないことになるのである。
その後の国鉄時代に於ける寝台車の改善といえば、20系が定期列車の運用から外れ、14系と24系については、順次三段式寝台を二段式に改造し、居住性を高めるといった程度のものであった。この改造が行われた背景には、居住性改善が最前提ではあったにせよ、利用の落ち込みにより、定員を減らすことには抵抗がなくなっていたという側面も見逃せまい。そんな中で数少ない明るい話題といえば、東京〜長崎間の「さくら」に四人用個室“カルテット”が、そして東京〜博多間の「あさかぜ」には二人用個室の“デュエット”が登場し、東京〜西鹿児島間の「はやぶさ」には、フリースペースのロビーカーが連結されるようになったことであろうか。このロビーカーは好評であったため、東京〜宮崎間の「富士」にも連結されるようになった。これら個室、そしてフリースペース車両は、後の「北斗星」「トワイライト」の成功につながるものである。
(以下、次号)
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さて、秋たけなわの旅人通信、いかがだったでしょうか。筆者は今日より、道内の旅へと出かけます。次号では、旅の報告、そして、連載陣にもより力を入れて、お届けしたいと思っています。
では、それまでごきげんよう…
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