札幌発 旅人通信 99年晩秋 第四号

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 11月という月は、北海道にとっては、微妙な季節感の月です。紅葉は最終段階の平野部へと下り、もはや終焉を待つばかりとなり、標高の高い山々は、次第に雪を抱きだす。かといって、平地では雪のちらつくことこそあれど、なかなか積もるまでには至らない。月が深まるにつれ、雪を見ることは多くなりはするものの、降っては融け、を繰り返し、日陰の残雪は次第に増えるものの、なかなか根雪になるには至らない。寒気が入れば荒れ模様にはなれど、高気圧が近付けばカラリと晴れ上がる。そんな、秋とも冬ともつかない、微妙な季節感の一か月なのです。
 そんな11月は、北海道がもっとも静かな月、でもあります。観光立国北海道に於いて、観光客の数が最も少ないのがこの月なのです。無理からぬ話で、紅葉前線は本州に下り、かといってスキー場のオープンにはまだ間がある。もちろん、大雪黒岳をはじめとして、標高の高いところにあるスキー場は、いかに早くオープンさせるかを、毎年競い合っているかのような状況ではありますが、まだ雪質も安定しないそんな時期に滑るのは、地元のスキー・ボードマニアに限られた話。道外からの客が本格的に訪れるようになるのは、師走も大詰めを迎える頃になってからの話です。

 さて、ここで、この秋の旅について報告しておきましょう。十月も半ば、もはや秋色濃厚になった北海道へ、いざ旅立ち…のはずだったのですが、この頃、宗谷岬の北の海上には、真冬並みに発達した低気圧が接近し、加えて上空には、11月下旬並みという寒気が入り…ここまで言えばおわかりでしょう。北海道の日本海沿岸は大荒れの天候となり、一気に北上を考えていた旅人は、ペースを落とし、空模様を見ながらの日本海オロロンライン北上となったのです。
 結局、羽幌で一晩様子を見たものの、翌日も風は強まるばかりか、雪までちらつき出す始末。宗谷地方は大荒れの天候との情報を聞き、北上を断念し、内陸へ向けて東進を開始。しかし、霧立峠付近も雪で、道路もうっすらと雪化粧の状態。溝の残り2ミリの夏タイヤでの峠越えは、かなりの冷や汗もの…立ち寄った朱鞠内湖周辺も、早くも一面の雪景色。秋色探訪のはずが、一足も二足も早い冬の出で立ちとの対面とは…名寄へ下りると積雪こそないものの、雪は断続的に降っており、夕刻、北上を開始、美深に至ると、いよいよ雪は本降りとなり、国道も雪化粧…夏タイヤでの走行は生命の危機を感じるに至り、車をジャッキアップ、チェーンを装着。峠越えの場面ならいざしらず、平野部にて、思いもよらない冬道ドライブとなったのでした。
 翌日、天候は回復に向かい、チェーンを外してオホーツク沿岸へ。こちらは、雪の降った気配もなく、カラリと晴れた天候。一口に北海道と言っても、地域、地形による天候差は、とてつもなく大きいのです。
 網走からは藻琴峠を越えて屈斜路湖へ至り、紅葉の湖畔で、白鳥を見ながら無料露天風呂に入った後、摩周湖へ。“霧の摩周湖”とも言いますが、旅人が訪れる時は、必ずと言っていいくらい晴れ渡っています。誰か私に、霧の摩周湖を見せてくれ!と叫びたい気分にもなります。
 しかし、摩周湖で霧こそ出なかったものの、天候が続かないのが今回の旅の定めのようで、摩周から根釧原野に下りた日は、晴れのち曇りの天候。開陽台ではおほろげに国後の島影を認められたものの、標津の海岸に至った頃には、海上は靄に包まれていて…
 薫別市街より東の内陸へ向かい、渓谷沿いにある“秘湯”薫別温泉に足を運ぶものの、到着を目前に非情の雨。脱衣所も何もない、岩のくぼみに溜っただけの温泉に入るには、これは辛いものが…しかし、渓谷の紅葉は素晴らしく、遥々足を運んだ甲斐はあったというもの。車で間近まで行かれる“秘湯”としては、間違いなくトップレベルの野天温泉でした。
 知床峠を越え、清里町の新しい温泉に浸った翌日も、天候は下り坂で、一旦札幌に戻り、天候の回復を待つこと数日。今度は、進路を南に向け、京極から羊蹄山麓、そして噴火湾沿いへと進路を取り、大沼へ。駒ヶ岳の紅葉はまさに絶頂の頃合いで、道北、道東ではほとんど出番のなかったMTBが、いよいよ活躍する時が来たのです。
 国道やJRからも見ることができ、特段の景勝地とはこれまで思っていなかった大沼ですが、実際に自転車で走ってみると、決して侮ることのできないところとの認識を新たにしました。一元的視野のみでその場所の魅力を語ることが、いかに危険で独善的であるということを思い知らされました。
 翌日は晴天の渡島半島を一回りし、恵山では無料の露天温泉にも入りました。しかし、どうにも天候が続かないのが今回の旅で、一日明けての檜山半島ではどんよりとした曇り空。結局、雲石峠から太平洋岸に抜け、虎杖浜に寄り道の後、札幌へ戻ったのでした。
 三度天候の回復を待ち、再度道北へ。晴れ間は覗くものの、利尻富士の姿はおぼろげにしか見えないまま、稚内へ。宗谷岬を回ってオホーツク沿岸へ進み、枝幸の温泉へ。翌日は快晴で、サロマ湖でホタテを味わい、網走へ。しかし、翌日は曇りのち雨で、秋とはいえ、これほど天気が続かない年が果たしてあったろうか、と言いたくなる気分。早々と藻琴山温泉へ逃げ込み、ここで一泊。すると、翌日は見事に晴れ渡るのだから、まさしく、女心と秋の空、というやつか…
 総じて、紅葉は、どこもいま一つ、といった色付きだったように思えるこの秋でした。猛暑の年の紅葉はよくない、ということが北海道のではよく言われますが、今年も例外ではなかったようです。しかし、大沼畔と駒ヶ岳だけは、例外だったようです。特に、駒ヶ岳中腹から麓にかけての赤と黄のコントラストは、これまでに目にしたことのある全国各地の紅葉と比較しても、飛び抜けた美しさだったように思えます。一口に紅葉といっても、場所、そして微地形によって、同じ場所、或いは同じ年でも、大きく違ってしまうようです。そんなことを強く感じた、この秋の旅だったように思います。
 ほかにも、思うことはありましたが、それについては「グルメ情報」にて触れたいと思います。以上、北海道&旅人ナウ、でした。



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 連載 岬をめぐる道

 第四回 “最北限”の岬をたずねて

 日本最北端の岬は、いまさら言うまでもなく、稚内の宗谷岬である。だが、その一方で、“日本最北限”を標榜している岬があることは、一般にはあまり知られていないのではないだろうか。
 その“最北限”の地は、日本最北の離島、礼文島にある。島の北側は、船泊湾を挟み、二つの岬が宗谷海峡に突き出しているが、そのうち西側に突き出した岬が、“最北限”須古屯(すことん)岬である。
 礼文島に渡るには、稚内からフェリーに乗ることになる。かつては、小樽からの航路もあったが、廃止となって久しい。ほかに、稚内空港からの航空路線もあるが、海路の倍以上の運賃であり、しかも小型プロペラ機による運用なのでキャパも少なく、あまり一般的とは言えまい。
 稚内から礼文島の表玄関、香深港までは、1時間55分の船旅である。私が初めて礼文に渡った昭和五十年代末、当時の在来船で2時間15分を要していたのが、新造船(第十宗谷丸)で2時間10分となり、そのことが大いにクローズアップされていたことを懐かしく思い出す。数年後、さらなる“新造船”(第十一宗谷丸)が就航し、所用2時間05分となったが、後に現在就航している“ニュー宗谷型”が誕生し、現在の所要時間となったのである。距離にして100k/mに満たない航路で、このスピードアップは驚異的である。
 “ニュー宗谷型”就航にともない、礼文島の表玄関、香深港も変わった。喫水の浅かった旧港では荒天時の入港に問題が生じるということで、その南側に新港が設置され、香深港は面目を一新した。それから間もなく、島の北側にあり、夏季には定期航路が稚内から通い、入り江にあって風避けの港としても重宝されてきた船泊港は、旅客港としては廃止されてしまう。ゆえに、現在礼文島に渡る旅客の大多数は、稚内から香深港へ上陸することになる。
 その香深港一帯は、島の表玄関とは言いながらも、海からすぐのところまで山が迫り、平地には乏しいところである。そんな海岸伝いに道路が北へと伸びており、右手の海上には利尻富士、左手の断崖斜面にはエゾカンゾウやエゾスカシユリといった原生の花々を見ながら、寂しい集落を幾つか経て、やがて道は二股に別れる。道なりの本線、左へ進むと、通称“エリア峠”を経て久種湖畔に出て、やがて船泊の市街へと続く。右へ進めば、上泊集落を経て、島東北端に突き出た岬、金田ノ岬へ至る。台地状の岬の上には礼文空港がある。岬を周回すると船泊湾で、湾を挟んで対峙する岬と、その沖の海馬島の姿が見える。
 やがて船泊市街へと至り、さらに北西へ伸びる道こそ、いよいよ“最北限”への道である。右には湾を介して金田ノ岬、左には相変わらず、花々の咲き乱れる断崖が続く。そして、漁港のある白浜から、道は海岸を離れて丘に上りはじめる。やがて視界が開け、三方に海を見ると、間もなく岬の駐車場に至り、車道は途切れる。
 そこから歩道をしばらく歩くと、切り立った断崖上に、「日本最北限ノ地」の碑がある須古屯岬へと辿り着く。風の強いところで、風速10メーターや20メーターは普通であるという。正面には無人島の海馬島、左手には日本海の大海原、そして右手には宗谷海峡が広がっている。最北端の宗谷岬は、道路が周回状で行き止まりにはなっていない。その点、ここはその名の通り行き止まりなので、最北限の地だという。何だか、納得できるようなできないような理屈だが、晴れた日のこの岬から見る海の美しさは、宗谷岬の比ではないのは事実である。断崖の織りなす紺碧の海の美しさは、日本中を探しても、おいそれとは見つからないであろう。
 すぐ先に浮かぶ無人島の海馬島には、夏の間、白浜から漁船で渡ることができる。とはいっても、島には港はなく、粗末な岸壁、或いは岩場に船を着けなくてはならないから、少しでも波が高ければもう駄目である。海岸沿いに朽ちかけたかつての番屋が幾つかあり、台地状の島の中央部に灯台があるが、ほかは手つかずの自然だけがある島で、高山植物の宝庫でもある。漁船は、船泊の民宿「海童」「星観荘」ほかで取り次いでもらえる。運賃は往復で千四百円。さいはてのさいはて、北限のさらに北限へ、という人にはお勧めである。
 また、礼文島では、通称「愛とロマンの8時間コース」というのが、かつては島に三軒あった(現在は一軒)ユースホステルで主催され、そのスタート地となるのが、ここ須古屯岬でもある。島の西海岸は、国立公園地域ということで開発が規制されており、現在でも遊歩道があるのみである。かつては道なき道という険しい区間が多くあり、そういう個所を、参加した男女が手を取り合って越え、数多くの愛が芽生えたということから、“愛とロマン”の名がつけられたという。
 島の人によれば、現在の整備されたコースでは、8時間かかることは稀だといい、また、危険で手を取り合いながら越えるような個所もほとんどなくなったそうなので、やがて、この名も過去のものになるのかもしれない。しかし、島の自然の美しさ、これは、いつまでも変わらずにあり続けてほしいものである。(完)



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 連載 北の湯めぐり

 第四回 ニセコと羊蹄山麓の公営温泉

 東、北と続いたこのシリーズなので、今回は南に目を向けてみよう。とは言っても、一気に南下するのも勿体無いので、道央と道南の境界ともいうべき、ニセコ、羊蹄山麓にスポットを当ててみることにしよう。札幌から車で二時間前後で着くこの辺りも、北海道らしい山と大地の広がるところであり、なかなか侮れない一帯である。

 まず、スキーのメッカとして全国にも知られ、温泉も数多く湧いているニセコへ足を運ぼう。札幌からのアプローチは、小樽まで札樽自動車道を利用し、その先は国道5号というコースが一般的だが、国道230号で中山峠を越え、喜茂別から276号線、または留寿都から道道岩内洞爺線経由というコースもある。JR函館本線は、この区間は通常は普通列車のみの運行だが、スキーシーズンにはリゾート型気動車を使用した臨時列車が運行される。
 そんな、数多くある中から、イチ押しの公営温泉を紹介しよう。標高1、134mのチセヌプリの麓、湯本温泉は、噴気とともに湯が湧き出す大湯沼のほとりに位置し、数軒の宿があるだけの静かな環境下にある。その中の一軒が「国民宿舎雪秩父」(蘭越町営)で、かつてこの地を拠点に、皇族の秩父宮殿下がチセヌプリ登山を行ったことに由来する施設名だという。
 昭和41年に建てられたという建物は、ややくだびれていることは否めないが、いかにも山の宿、といった落ち着いた風情である。
 フロントのあるフロアーから階段を下りると浴室で、脱衣所の水道の蛇口が真っ黒く変色しているあたり、いかにも成分の強い温泉であることが窺える。 浴室には浴槽が二つあり、片方は白濁した湯、もう一方には澄んだ黄色をした湯が満たされている。現在の温泉分類では、いずれも単純硫黄泉(硫化水素型)に分類されるが、昔風にわかりやすく言えば、前者が硫黄泉、後者が鉄礦泉ということになる。しかし、この浴室は薄暗く、あまり気分のいいものではない。やはり、露天風呂へ足を進めるべきだろう。
 千平方メートルあるという露天風呂には、実に五種類の浴槽がある。まず、前方にニセコ連峰を模した岩を配した「ふれあいの湯」があり、硫黄泉の湯が満たされている。その先には、四角い「桧風呂」があり、こちらも硫黄泉の湯である。そこから階段を下りると、円形でジャグジーの「やすらぎの湯」があり、こちらは鉄礦泉の湯が泡立てられている。その隣は、浅い浴槽にぬるめの湯が満たされた「よぞらの湯」で、横になって夜空を見上げられるという趣向である。もちろん、日中の青空を見上げて入るのも最高である。そしてさらに下ったところに、もっとも大きな「大湯沼の湯」があり、丸型の浴槽に、中央の石塔から湯が注がれている。こちらもややぬるめで、長湯をするにはいい。傍らにはベンチも置かれ、柵越しに大湯沼を望むことができる。もちろん、チセヌプリをはじめとするニセコの山々も当然視界に入るのは言うまでもない。これらは、露天風呂の規模としては、道内の温泉でもトップクラスなのは疑いのないところだが、それでありながら、日帰り入浴は五百円という安さである。館内には無料の休憩室も完備され、また、食堂も日帰り客にも開放されている。
 これらを考えれば、千円前後の料金を取りながら、休憩室がなかったりもする周辺のホテルの日帰り入浴になど、とても馬鹿らしくて足を運ぶ気にはなれまい。ニセコでの日帰り入浴は、ここ雪秩父で決まり、である。のみならず、宿泊も一泊二食付き六千七百円と手頃で、夕食は、山の宿らしく、山菜をふんだんに使った料理が共される。朝食はバイキング形式で、好きなものを好きなだけ食べることができ、満足度は高い。雪の露天風呂も風流であろうが、冬場はスキー客で混雑するようなので、のんびりするには、スキーシーズンを外したほうが無難のようではある。

 続いて、羊蹄山麓に足を運ぼう。蝦夷富士と呼ばれ、男性的な山容で知られる羊蹄山は、ニセコが山々の連なりから成るのに対し、いわゆる“独立峰”である。特に東の方角から見た姿は、富士山と実によく似ている。 その山麓の、ニセコ側に位置する倶知安、ニセコ両町には以前から多くの温泉があるが、近年、東側の京極町、南側の真狩村にも、なかなか洒落た公営温泉が誕生した。まずは、京極町を訪ねてみよう。
 同町は、羊蹄山からの伏流水が吹き出す「ふきだし公園」が有名で、ここの水は、日本名水百選にも選ばれている。そのふきだし公園に隣接して近年オープンしたのが「京極温泉」で、館内に入ると、広々としたロビーがあり、その奥には、やはり広い休憩室がある。入浴料は五百円で、円形をした浴室も広々としている。泉質はナトリウムー塩化物・硫酸塩泉だが、温泉浴槽は一つで、ジェットバスやジャグジー、さらには露天風呂までもが“真湯”なのはどうしたことか、と思うが、それらには「名水」が使われているということなのだろう。真湯とはいえ、ミネラルをはじめとして多くの成分を含んでいるはずで、分析をすれば、単純泉相当程度の成分は含まれているかもしれない。サウナや打たせ湯もあり、施設内容は充実している。宿泊施設は持たないが、館内には売店や食堂もあり、ふきだし公園を訪ねた折には、立ち寄る価値のある温泉といえよう。

 次は、真狩村へと進もう。ユリ根の生産高日本一など、農業の村として知られる同村だが、観光的スポットには乏しく、全国的には、細川たかしの出身地として、知る人ぞ知る、といった知名度ではなかろうか。しかし、そんな村にも、近年、羊蹄山を間近に望む、素晴らしい温泉が誕生した。
 その「まっかり温泉」は市街地外れの高台に位置するログハウス調のこぢんまりとした建物で、入浴料は四百円である。吹き抜けとなった玄関の左手は休憩室、右手にはレストラン「まきば」があり、玄関先では、村で取れた野菜が販売されているのは、いかにも農村の温泉らしい。
 突き当たりが浴室で、脱衣所、浴室ともに小ぶりなのは、人口の少ない村所以であろう。しかし、内風呂、露天風呂のどちらからも、真正面に羊蹄山を見ることができることが最大の“売り”である。春の残雪、初夏の新緑、秋の紅葉、そして冬の雪景色…眺望温泉としては、道内のみならず、全国的にもトップレベルと断言できる。前述の京極温泉からも羊蹄山は見ることができるが、湯に浸りながらだと、かなり見上げる姿勢となってしまうので、やや苦しい感じである。その点、ここの温泉は高台に位置しているので、全くの自然体で羊蹄山が目に入るのである。
 浴室には、小ぶりながらサウナ、水風呂も用意され、内風呂にはジェットバスも設けられており、施設内容も充実している。泉質はナトリウムー塩化物・硫酸塩・炭酸水素塩泉で、やや黄色味を帯びた湯である。温泉施設は日帰り専用だが、隣接して自炊で宿泊できるコテージがあり、こちらの予約受け付けも温泉フロントで行っている。春から秋にかけては大変混雑するそうで、もし利用の計画を立てる方は、早めの予約を。詳しくは、電話0136−45−2717(温泉)まで。

 さて、ニセコ、羊蹄山麓の公営温泉巡り、いかがでしたか。いずれも、札幌からは車で片道二時間以内で到着でき、日帰りも十分可能なところばかりです。ただし、公共交通機関利用だと、いずれの施設へもかなりの回数の乗り換えを余儀なくされるので、日帰りではちょっと、という感じにはなってしまいます。もし、これらの温泉を訪ねたいが、足がない…とお悩みの方がおられましたら、筆者までご相談あれ…(完)




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 グルメ情報

 北海道名水巡りの旅

 今回は趣向を変え、“名水”にスポットをあててみることにする。“水”が果たしてグルメと呼ぶべきものかどうか、ややすれば疑問が残らなくもないが、本文中にも述べる通り「水道水が危険」な時代であり、水道事情の悪い国ならいざしらず、「水と安全はタダ」と言われるこの日本に於いても、ミネラルウォーターが当たり前のように店頭に並び、一大市場を形成している時世である。そんな時代、タダで手に入る“名水”は、或る意味で、グルメの極み、と言っていいのではないだろうか。そんな思いで、この項を綴らせてもらう。
 この秋の旅は、予期、意図をしたわけではないが、“名水巡り”の旅となった。まず、最初に遭遇したのは、網走管内小清水町にある展望施設「ハイランド小清水725」にある、“藻琴山の水”である。その名の通り、標高725メートルに位置する同施設は、藻琴山の八合目に位置し、オホーツク海から知床の山々、屈斜路湖に阿寒の山々までを見渡せる、道東の新名所である。その施設の傍らに水汲み場があり、蛇口をひねると、清涼な水が溢れ出す。展望施設内にはレストランがあるので、その施設のために設けられた簡易水道なのだろうが、おそらく滅菌は最低限度しか行われていないとみえ、くせやカドがなく、おいしい水である。網走市の水道水も、この藻琴山からパイプラインで引いているといい、事実、網走の水道水もおいしいと定評がある。
 ここの水でコーヒーをいれたところ、摩訶不思議、ほとんど酸味を感じず、苦みの引き立った味となるのである。同じ豆でも、水道水だとやや酸味を感じる味となるのだが、ここの水だと、繰り返し入れても、やはり酸味のほとんどない味となるのである。豆の特性にも因るだろうが、水を変えたことによってコーヒーの味が明らかに変わるというのは初体験で、酸味より苦みの強いコーヒーを好む私にとって、欠かせない水となりそうである。ただしこの展望施設は、11月から4月までは“冬眠”に入ってしまい、雪が積もれば、道路も閉鎖されてしまうのが残念ではある。次にここの水が汲めるのは、遥か来春のことである。
 続いて出会ったのは、“摩周湖の水”で、これは、同じ網走管内の清里町に、今年できだばかりの温泉施設「緑の湯」に設置されたウォータークーラーのものであった。冷水器を介してしまうと、正直水道水との区別がつかなかったのが残念である。同町には摩周湖の伏流水がつくったという「神の子池」があり、水そのものはまがい物であろうはずはないが、冷水器を通してしまったのは行き過ぎであろう。むしろ、緑駅前の公園の水をうまい、と思ったのだから、かえすがえすも残念である。
 次は道南へ向かい、京極町の「ふきだし公園」に立ち寄った。標高1、898メートルの羊蹄山は、火山性の透水性の高い地質で、山腹には渓流をつくらず、降水の大半を地下へと浸透させる。その伏流水は長い地下水脈を経て湧水として地上に至る。透水性の高い土壌からは多くの養分とミネラルを吸収し、長い水脈でそれは熟成される。ここの水は、まさに羊蹄山に育まれた名水である。 ここの水を一口飲んで、「甘い!」と驚愕の声を漏らした。もちろん、糖分のかもし出す甘さとは全く異質の、ほんのりと、口から喉に広がっていく甘さである。真水を飲んでこんな感覚にとらわれたのは、これが初めてである。念のため、少し時間を置いてもう一度飲んでみたが、全く同じ印象であった。普段口にしている水道水とは、いったいどのような水なのか、と考えずにはいられなかった。自然の水とは、人の味覚に、鋭くも優しく、“何か”を投げかけてくるものであったとは…
 その数日後、道南の鹿部町を通りかかった折、「鹿部湧水園」の看板が目に止まり、車をUターンさせた。国道から山側に入っていく道は私道のようで、新聞受けがあり、「ご苦労様です」の文字も見える。民間の施設であれば、或いは入場料を取られたりするのでは…といった思いは杞憂で、小さな社の傍らにある湧水口に到着した。地元函館ナンバーの車が数台止まっており、ポリタンクや焼酎の空きボトルを大量に持参し、水を汲んでいる。その傍らには、「飲料水の認可は受けていません」の文字も。いろいろと書かれているのに目を通すと、どうやら、個人が一般に開放している湧水ということで、鹿部町、そして森町の保健所から、何かと軋轢が加えられているらしい。
 特に印象的だったのは、「人間は、太古の昔から、自然水を飲んで生活してきました。それに比べれば、水道法は、制定されてたかが百年の歴史しかありません。しかも、その水道水が危険だと言われ、高いミネラルウォーターが売れています。危険な水道水に人が背を向け、自然水を求める。これは、ごく自然なことではないのでしょうか」とのくだりである。
 文章を丸写ししたわけではないので、正確ではない部分もあるとは思うが、大筋でこのようなことが書かれていたのは間違いない。さらには、「京極のふきだし公園というところでは、地上を流れる水を、多くの人々が汲んでいく姿がNHKで放送されていました」とのくだりもある。確かに、京極のふきだし公園の水は、湧出地点から、わずかではあるが地上を流れたところが水汲み場となっている。そのわずかな間に、雑菌や汚染物質が入り込むことがないと、言い切ることはできない。その点、ここの湧水は、まさにその場所から湧出しており、汚染の可能性は京極より格段に小さい。ところが、一方は国の定める名水百選に選ばれているゆえ、水汲みもいわば“公認”されているのに対し、個人所有地内の湧水は、「飲料水の認可は受けていません」と断りをした上で、あとは汲んで帰った人の個人的判断ゆだねるという格好で、役所の軋轢の中、細々と公開されている。役所仕事というものが、いかに血の通わないものであるかを、思い知らされる。
 ここの水は、京極のものより、さらに甘みが強いように感じた。各地の自然水ならびに水道水との、含有成分の比較表があり、それを見ると、京極のものより、さらにミネラル分を多く含有しているようである。
 京極が羊蹄山麓なら、ここは駒ヶ岳の麓。しかも、駒ヶ岳は、今をも噴煙を上げる活火山であり、いわば“生きている”山の土壌は、活動をしていない山のそれよりも多くの、養分、ミネラルを含有しているということであろうか。ともあれ、個人の篤志家の、自然な水を一人でも多くの人に、という思いが、血の通わぬ“役所仕事”によって途絶えてしまうことのないよう、応援していきたいものである。
 それからさらに数日を経て、道北へ向かう道すがら、かつては“陸の孤島”と呼ばれた留萌管内増毛町の雄冬の海岸で、「雄冬冷水処」というのを見つけた。あずまやの設けられたその場所の地下から、こんこんと湧き出す冷水で、「飲料水としては使用しないでください」の文字も。もちろん、そんなことを気にする筆者ではなく、当然飲料水用に汲み置く。京極や鹿部のものほど甘みは感じず、やや硬い味との印象である。
 この一帯は、山が海岸ギリギリにまで落ち込んでいる地形であり、ここの水も、標高1、198メートルの雄冬山、さらには1、491メートルの暑寒別岳からの伏流水なのであろう。山あるところに名水あり、である。

 ところ変わって、札幌の話を。札幌市は、水資源には極めて恵まれた都市で、水源から取水所、浄水所に至るまでの全てを、その市内でまかなっている。これは、人口百五十万を越える都市としては希有なことであり、事実、真夏でも手が痺れないばかりの冷たい水が蛇口からは注がれ、たいへんおいしい水だ、と札幌に住みはじめて以来、思い続けて来た。しかし、全道各地の自然水をこれだけ口にしてしまうと、たいへんおいしい水、のくだりに、「水道水としては」の一文を加えねばならないようである。
 そんな札幌の、しかも私の住んでいる白石区内にも、北海道名水百選に選ばれいる水が、実はある。本通14丁目にある白石神社境内の湧水で、散歩がてら、訪ねてみたいものである。
 これからの旅でも、有名無名の湧水、自然水を訪ねるという、新しい楽しみができたということは、大きな意義である。一方で、土壌汚染による地下水脈の汚染が広がっているという、看過できない状況もあるが、幸い北海道では、その手の話はほとんど聞こえてこない。これからの“水巡り”、あまり肩肘を張らず、マイ・ペースで続けられたら、と思う次第である。


 
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 旅人コラム

 寝台列車考(中編)

 国鉄の末期には、車両の新製見送られていたことはおわかり頂けたかと思うが、やがて国鉄の分割民営化が国会で決議され、旅客鉄道会社六社と、全国一元の貨物会社の準備会社が設立された頃から、寝台列車の新しい風が吹き出すことになるのである。
 国鉄の分割民営化の実施後間もなく、日本の鉄道史上極めて大きな新線開業が控えていたことが、その原動力となった。国鉄が消え、JRが発足となったのは昭和62年3月のことだが、その一年後の63年3月には、青函トンネルと瀬戸大橋開通という大イベントが控えていたのである。
 後者の瀬戸大橋線については、それまで高松発着だった四国内の主要特急が岡山発着となり、東京と宇野を結んでいた寝台特急“瀬戸”が高松まで乗り入れるということは、国鉄時代からの計画をほぼ踏襲する格好で、実施されるに至った。しかし、一方の青函トンネルについては、国鉄案では、盛岡〜青森間の特急“はつかり”数本が函館まで延長されるほかは、盛岡〜札幌間に一往復程度の寝台特急を運行するという、極めて消極的なものだった。
 しかし、JR東日本とJR北海道の準備会社は、青函トンネルを両社間の“目玉”と位置付け、上野と札幌を結ぶ、これまでの常識にとらわれない豪華寝台列車を運行することを決定したのである。その内容は、ホテル並みの設備、装備を備えた豪華個室寝台、のみらず、B寝台と同料金で利用できるベーシックな個室寝台、そして、予約制による食堂車に於ける本格的ディナー、さらにはフリースペースのロビーカー連結、誰でも利用できるシャワー設備の設置etc…国鉄末期の財政難下では思いもよらなかった思想が、ここで一気に花開くことになったのである。
 しかし、悲しいがな、準備会社設立から開業までに与えられた時間は、実に限られたものであった。とても、新型車両を設計、制作する時間的猶予はなく、在来車を改造することが手一杯だったのである。それとて、トンネル開業までに残された時間は僅かで、JR東日本の大宮工場、そしてJR北海道の苗穂工場では、夜を徹しての作業が続けられたのである。
 そして昭和63年3月13日、青函トンネル開業の日を迎え、上野〜札幌間に寝台特急“北斗星”がデビューする。定期列車二往復と季節列車一往復が設定され、定期列車はJR東日本とJR北海道が一編成づつを担当、個室や食堂車、ロビーカーのインテリアは、それぞれが趣向を凝らし差別化するというのも、これまでにない試みであった。季節列車の一往復はオールB寝台のベーシック編成であったが、これは、東日本、北海道の両旅客会社が、定期列車の一往復の車両改造に手一杯だったということの裏返しでもある。
 かくしてデビューした“北斗星”は、“超”人気を博し、瞬く間に日本を代表する寝台特急列車へと成長する。シャワーにトイレまで備えた一人用A個室「ロイヤル」、二段ベッドにAV装置を備えた二人用A個室「ツインデラックス」、そして一人当たりの寝台料金は開放式B寝台と同じであるB個室「ソロ」、同じく二人用の「デュエット」は、いずれも発売開始と同時に完売する“プラチナチケット”と化し、のみならず、開放式のB寝台までもが、おいそれとは手に入らない人気となった。「グランシャリオ」と名付けられた食堂車は、ディナータイムはフランス料理と会席膳の完全予約制、ディナータイム後はパブタイムとして、朝食は和洋メニューを用意し、いずれも予約なしでの利用できるように設定された。車掌による北斗星オリジナルグッズの販売も行われ、人気商品は早々と売切御礼になるなど、大人気を博した。
 これらの背景には、青函トンネル開通という、日本の鉄道史上極めて大きなエポックがあったにせよ、付加価値次第で、寝台列車の新たな在り方があることはここに証明されたのである。当初は季節列車だった一往復も、個室車ならびにロビーカーの改造が整った段階で、東日本と北海道の両社が一編成づつを担当するかたちで定期化され、上野〜札幌間三往復体制が整ったのである。
 これに負けてはいられないと、JR西日本も、大阪〜札幌間に“トワイライトエクスプレス”をデビューさせる。一車両の約半分を一室に充てた超豪華個室「スイート」、A個室「ロイヤル」、そしてB個室は、北斗星よりややゆとりを持たせた「ツイン」、「シングルツイン」の二タイプを用意し、B寝台も仕切り戸を持つ簡易コンパートメント構造とするなど、JR西日本の意気込みが伝わってくるかのような内容となった。大阪発12時代、札幌発14時代と、夜行列車の有効時間帯を完全に無視したダイヤ設定だが、特に大阪発では、日本海縦貫線での日没時の日本海を堪能してもらいたい、というダイヤ設定であるというのが心憎い。ロビーカーも、日本海側の窓を広く取り、かつ山側の席からも海が見えるよう、海側の席よりも一段高い位置に席が設けられた。「ダイナープレヤデス」と名付けられた食堂車は、デイタイムは喫茶として営業し、ディナーは予約制、朝食は車内にて予約するシステムが取られた。後に、予約不要のランチタイムも導入され、現在に至っている。
 当初は、パックツアー用の団体臨時列車の扱いでスタートし、寝台券は企画商品として旅行会社のみでの取り扱いだったが、後に時刻表にも掲載されるようになり、現在に至っている。ただし、運転時間が二十時間を越えるため、毎日運転するには所定三編成が必要となり、多客期には全編成をフル活用して毎日運転に対応しているが、予備車がないため、閑散期には週三回の不定期運行が続いている。
 “北斗星”“トワイライト”の成功で、在来の寝台特急にも、個室車が続々と連結される運びとなった。上野〜金沢間の“北陸”や、九州特急の“はやぶさ”“富士”“なは”“あかつき”には「ソロ」が、東北の“あけぼの”には「シングルデラックス」と「ソロ」、西日本へ向かう“瀬戸”と下関折り返しの“あさかぜ”には「シングルデラックス」、“出雲”の一往復には「シングルデラックス」「ツイン」「シングルツイン」が…といった具合である。そして、折からのバブル経済絶頂の頃でもある。“はやぶさ”“富士”に豪華寝台車を、といった話も聞かれた。しかし、そのバブルの崩壊で、景気は一気に冷え込んだことはいわずと知れ、そんな浮いた話もいつか沙汰闇となってしまった。それから後は、再び寝台特急には受難の時期がしばらく続くのである。
 平成6年12月、ついに伝統の九州特急に大鉈が振るわれた。東京と熊本、長崎を結んでいた“みずほ”が廃止、東京〜博多間のブルートレインの元祖“あさかぜ”が季節列車へと降格されたのである。“みずほ”は、そもそも区間の並行する“さくら”“はやぶさ”の補完列車的意味合いの強い、地味な存在であったが、博多行“あさかぜ”の季節臨降格は、かなり衝撃的であった。
 しかし、周囲の環境を考えれば、これも当然と言わざるを得ないものであった。定期列車時代最終期の“あさかぜ1号”のダイヤは、東京発19時代、博多着が翌朝10時代後半であった。ところが、羽田から福岡に向かう航空機は20時代まであり、翌朝も6時代から運行している。これでは、よほどの鉄道ファン以外、敢て夜行列車に乗らなくてはならない理由はない。そればかりか、この頃には新幹線“のぞみ”もデビューしており、朝6時の一番の“のぞみ”に乗れば、前夜に東京を出た“あさかぜ”と変わらぬ時間に博多に着けるのである。空路のみならず、“身内”のJRにまでもライバルを抱えては、“あさかぜ”は消え去る以外になかったのである。
 季節臨降格後の博多行“あさかぜ”は、かつての“列車ホテル”の面影を偲ぶには程遠い、オールモノクラス、A寝台も食堂車も連結されない編成で運行されることになったが、その季節列車さえ、いつの間にか“自然消滅”してしまった。
 他線区では、上越、羽越線経由で上野と秋田を結んでいた“出羽”、大阪〜新潟間の“つるぎ”が廃止され、時期的に前後する部分もあるが、上野から東北へ向かっていた伝統の夜行急行が廃止され、北海道と九州では、客車寝台列車として運行されてきた夜行急行が、同区間を走る特急に格上げされ、気動車、或いは電車での夜行特急となった。そんな中で明るい話題といえば、“あさかぜ”から捻出された車両で、東北特急の“はくつる”が電車から客車化されたことくらいであろうか。
 JR誕生から一時期、“北斗星”“トワイライト”で活気付いたかに思えた寝台列車も、この頃には意気消沈してしまったかの感があるが、その根底には、やはり、分割民営化後のJR各社の思惑が見え隠れしている。
 国鉄分割時の取り決めで、JRの運賃、料金配分は、あくまで実際に乗車した区間に応じ、該当の旅客会社に対し応分に配分されることとなっている。例えば、数社にまたがって運転される長距離夜行列車の場合、仮に停車駅がほとんどなく、ただ通過しているばかりの区間の会社に、高い比率で運賃、料金が配分されることになったりもする。逆の見方をすれば、末端区間を担当しているがゆえ、車両を運用管理している会社は、売り上げの大半を他社に持っていかれている、という現実がそこにはある。先に述べた“みずほ”の付属編成と、博多行“あさかぜ”の全編成を担当していたJR東日本が早々と手を引いた背景にも、そのことがあったことは疑う余地があるまい。
 そして、寝台車両の陳腐化というのも、大きな問題であろう。はじめにも述べたとおり、寝台車両の新制は昭和50年代前半を最後に行われていない状態が続き、かの“北斗星”“トワイライト”とて、改造車によるものであった。後に各社に登場した個室車も例外なく改造車であり、客室や便洗面所といったところは更新を受けていても、車体そのものは車歴四半世紀を迎えようとしているものだけに、走行時の安定性等は、続々と登場する新型の電車や気動車とは、大きくかけ離れたものになりつつあった。
(以下次号)



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 さて、今号はいかがでしたか。次号は、できれば年内に出したいと考えていますが、間もなく宅配の業務に従事し始めるので、果たしてどうなるか、といったところです。
 それでは、ごきげんよう…



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