札幌発旅人通信 2000年新春 第五号

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 ミレニアム、なる新語が誕生し、Y2Kが取り沙太され、良くも悪くも盛り上がった?年末から、いよいよ20世紀最終の年、2000年へ。Y2K問題では、一部で心配されたようなライフラインストップといったような大問題は発生せず、マスコミに煽られて食料や水、乾電池などを大量に買い込んでいた人々は、大いに肩透かしを食らったといったところでしょうか。
 筆者は、根が楽天家ゆえ、「そんな大問題など、起こるはずがない…」と端から決めてかかっており、特別に食料を買い込むこともせず、強いて挙げれば、現金を普段より多めに財布に入れていた程度でしょうか。これとて、年明けの三が日は銀行のATMが休みになるゆえ、毎年のことでもあり、つまり、特別なことは全くといってしないままに、新しい年を迎えたといって差し支えないでしょう。
 その、年越しの瞬間を、皆さんはどちらで迎えられたのでしょう?筆者は、この十年来、年越しは道東のユースホステルで過ごしていたのですが、その施設が一昨年ユースホステルをやめたということもあり、そこでの年越しは昨年限りとし、今回の年越しは、地元札幌にて過ごすことに決めました。
 とはいっても、札幌のユースホステルに泊まりに行ったわけではなく、大通公園で催されたカウントダウンイベントに参加したのです。「カウントダウンホワイトイルミネーション2000」と銘打たれたそのイベントは、札幌ではすっかり名物となった、冬の間、大通公園と駅前通りの樹々を電飾で飾る“さっぽろホワイトイルミネーション”の実行委員会、そしてAIR−GことFM北海道と、その大株主の北海道新聞社が主催するもので、開始から十年弱、札幌の年末年始の一大イベントに成長しつつあるものでもあります。
 このところ出番のなかったMTBを車庫から出し、久々のまとまった雪を踏み締め、都心へと進むこと約20分、大通公園へ。西二丁目会場の特設ステージには、午後10時から、 AIR−GでおなじみのDJによるトークが始まり、過去のカウントダウンの映像や、この一年間、 AIR−Gと縁のあったアーチストからのメッセージビデオが放映されたり、また、会場の傍らでは、ホットチョコレートやお雑煮のサービスコーナー、ゲームコーナーも設けられるなど、FMファン、音楽ファンのみならずとも楽しめる内容で進行。筆者もしっかり、お雑煮をごちになりました…降り頻っていた雪も、この頃には小康状態となり、イベントの盛り上がりに合わせているかのような感じでもありました。
 午後11時代になると、地元で活動するゴスペルグループがステージに上がり、生歌で盛り上がり、会場を取り巻く人々も、西二丁目の会場だけでは収まり切らず、通りを挟んで三丁目にまで膨らむ状態に。そしていよいよ0時1分前になると、ホワイトイルミネーションの灯が消され、目前のテレビ塔の電光時計も、秒単位のカウントダウン体制へ。そしていよいよ10秒前、カウントダウンの声は高まり、電光表示は「00」へ。こういう新年の迎え方も、なかなか悪くないな、と思える年明けでした。
 帰り道には、南二条東三丁目にある北海道神宮屯宮に初詣。振る舞われていた甘酒で身体を温めた後、自宅に帰り着きテレビをつけると、「Y2K問題で、特に大きな混乱なし」との報道が。筆者としては当然予想していた結果だけに、「それ、みたことか…」というのが正直な感想。しかし、昨年起こった、JR四国で発券された回数券タイプの切符で、有効期限の年号が誤って表記されたというような問題は、今年に限らず、今後数年間に渡って起こり続けるように思います。そういった小さな問題に対し、いかにして対応して行くかが、真の2000年問題、であるように思います。

 さて、この年末も、宅配業務に従事していた筆者ですが、そちらの方は特段の事故、トラブルもなく無事終了し、この年始は、久々に列車に乗って旅に出ようと思っています。手始めに、1月4日の快速“ミッドナイト”で札幌を離れ、その後は、青春18きっぷを使い、気の向くままにあちらこちらを旅したいと思っています。その顛末子細は、次号以降で触れられれば、と思っています。どうぞお楽しみに…



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 連載 岬を巡る道

 第五回 本州最北端 大間崎

 本州最北端に位置する下北半島の突端、大間崎は、北海道に一番近い本州の地でもある。北海道側の汐首岬までは、およそ19キロ。当然のことながら、本州の最果てから、古くから多くの漁民が海峡を越え、かつての“蝦夷地”に漁場を求め、移り住んだ。
 そればかりではない。近年、青森側では三内丸山遺跡が、北海道側でも八雲町で大規模な縄文遺跡が発見され、太古の時代から、津軽海峡を挟んで“青函文化圏”が存在したのでは、という学説が熱を帯びている。その真異はさておき、本州の果ては北海道への入口であったことは疑いがなく、現在も、函館と大間との間にはフェリーが運航されている。下北北部の人々は、買い物や通院に、バスや電車に乗るような感覚で、フェリーを使って函館に渡る。下北の人々にとっては、青森よりも函館の方が遥かに身近なのである。
 私にとっての大間崎は、まぎれもなく、北海道から本州への旅立ちの場所であった。初めて大間崎を訪れたのは、昭和61年のことである。横浜の高校を卒業後、札幌でフリーアルバイターをしていた私は、秋の訪れとともに、本州へと旅立った。その時、北海道から本州上陸の地として選んだのが、本州最北端の大間崎だったのである。
 当時、函館〜大間間に就航していた船は、いかにも古びた感じの、排水量二千トンクラスのフェリーであった。当時の津軽海峡の主役、青函連絡船が五千トン近い船だったことを思えば、その半分以下の排水量で、ローカル航路に相応しい船だったといえばその通りである。
 あいにく津軽海峡の天候は雨模様で、函館から2時間弱、ようやく雨に煙る彼方に、本州最北端、大間崎の陸地が見えてきた。その第一印象は、 「北海道と、何も変わんねべや…」
 というものだった。人が寄りつくのを拒むような断崖、風に揺れる笹の葉、軒を寄せ会うように“逼塞”する民家…任意のどの一片を切り取っても、北海道のどこかの岬と、何の違いがあろうか…
 しかし、上陸して歩き始めると、その印象は少し変わった。港から岬へ至る道が、とにかく真っすぐではないのである。「大間崎」の案内板は随所にあるのだが、何でこんなにも、と言いたくなるくらい、道は紆余曲折を余儀なくされる。北海道の岬だったら、こんなことはまずあり得ない。道を真っ直ぐに伸ばそうと思えば、いくらでも可能と思えるのに、そうはなっていない。それが、本州の岬であることを、私に語りかけるようであった。
 市街地を外れると、真っ直ぐには伸びていない道沿いに、疎らに民家が建っている。いかにも寒々とした印象を受ける。ふと、“極地”という言葉が脳裏をかすめる。
 「ここは、本州の“極地”なのか…」
 漠然とだが、極地ゆえの空寒さと思えば、妙に納得のいくわが印象である。道すがら、原チャリに“四人乗り”した母子とすれ違う。幼い子をおんぶとだっこし、少し年かさの子を後ろに跨がらせている。しかも当の母親はノーヘルである。都会では考えもつかないことだが、ふと、どこかの離島で似たような光景を見たような気がした。本州の“極地”では、離島同様の感覚がまかり通るようでもある。
 岬に辿り着く頃、再び雨模様となった。「本州最北の地」の碑の近くには海を見下ろすレストハウスがあり、雨やどりに駆け込むが、すぐ沖に浮かぶ大黒島も霞んでいる。雨はおさまる気配がなく、意を決し、雨の中を南に向かってヒッチハイクを開始した。そんな、大間崎初上陸の日であった。
 次にこの地を訪れたのは、平成3年の晩秋のことであった。当時、横浜の運送会社に勤務していた私は、札幌と釧路での配達の仕事を終え、本州へ戻る過程で、函館から大間へ渡ったのである。苫小牧から八戸、或いは仙台へ渡れば楽であることは承知していたが、敢て私は、最短航路を選択した。仕事での北海道行きとはいえ、旅人の心も健在だったのである。
 船は、やはり二千トン級とはいえ、小綺麗な新造船に置き換えられていた。天候も、前の時とはうって変わり穏やかな晴天であった。大間港に着き、港から走り出すと、道路案内に「むつ、東京」の文字があった。確かにここから東京までは地続きであるが、果たして、この港から東京を目指すドライバーが、年間果たしてどれだけいるのであろうか。この時の私は、数少ないであろうその一人であったのだが…
 三度目は、平成9年の春のことである。すでに北海道で暮らすようになっていて、車にて、函館からの上陸であった。夕刻の到着だったせいもあろうが、最初に訪れた時の“極地”の印象が、まざまざと甦ったことが忘れ難い。この時は、大間海峡保養センターで温泉に入り、初めて本州最北の岬にて車中泊をした。そして、ここを振り出しに、本州から四国、九州までをも旅して歩いたのである。 そして四度目は、初めて、本州側から岬に至った。平成10年秋のことで、折からの雨にうたれての北帰行となった。野辺地から陸奥湾を左に見て進み、むつ市へ。下北半島では大きな街で、大手のスーパーなどもあるが、寄り道することなく北進する。道は半島の山を越え、やがて太平洋岸へ。海も荒れており、水平線も定かではない。波頭が道路に打ち上げるところもあり、厳しいドライブであ
る。
 夕刻、辿り着いた岬からは、北海道の姿は見えなかった。風も強く、長い時間、岬に立つことはままならなかった。温泉に入った後、岬近くの駐車場に車を進めた。
 その頃、雨は上がっており、生暖かい風が吹いていた。何となく、岬へと足が向く。すると、大黒島の向こうには、くっきりと、北海道の街灯りが浮かび上がっているではないか…疎らな灯りを東に辿ると、ひときわ明るいところは、函館の街であろう。ぼんやりとだが、函館山のシルエットも浮かんでいる。見上げれば、空には星が浮かび、ほんの数時間を置いただけで、ここまで天気が劇的に変わろうとは…旅のフィナーレに、相応しい演出であった。
 翌朝は素晴らしい晴天で、海上も穏やかであった。本州最果ての港を離れたフェリーは、眩い陽射しを受けて進み、やがて函館山の沖に至る。かつて、青函連絡船で見慣れていたはずの景色だが、最後の連絡船の旅からはや十年が経過しようとしており、新鮮な印象であった。しかし、そんな余韻に浸る間もなく、1時間40分の船旅は呆気なく終わり、函館港へ…入港間際、青森へ向かう高速フェリー“ゆにこん”の船離れした加速に呆気に取られたのが、旅の終わりの一幕であった。(完)

 「岬を巡る道」の連載は今回で終了し、今後は、全国の岬を巡るシリーズとして、不定期に掲載していきたいと思っています。これからも、応援よろしくお願いいたします。




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 連載 北の湯めぐり

 第五回 札幌市内の温泉めぐり

 これまで、道内各所の温泉施設を紹介してきたが、今回はわが街、札幌の温泉にスポットを当ててみることにしよう。
 札幌の温泉といえば、定山渓温泉があまりに有名だが、そこまで足を伸ばさなくとも、市内中心部や近郊にも、数多くの温泉があることには驚かされる。県庁所在地都市で、街の中心部に温泉があるところとしては、鳥取市や鹿児島市が知られているが、札幌も負けてはいない“温泉都市”なのである。
 まず、市内中心部、ススキノにある温泉施設を二つ。一つめは、南7条西3丁目にあるジャスマックプラザホテルに付属する「鴨々川温泉 湯香郷(とうかきょう)」である。ここは、今から十余年前、ビルの基礎工事中に温泉が湧出、オフィスビルになる予定だったものを急遽温泉リゾート施設へと計画変更し、誕生したという経緯がある。日帰り入浴は二千五百円だが、14時までは二千円で入れるほか、夏季、日中の最高気温が25℃を越える夏日となれば五百円引き、30℃を越える真夏日となれば千円引きというユニークな割引がある。
 二つ目は、ほぼススキノの中心部といっていい南6条西5丁目にある「サウナ北欧クラブ」で、こちらはカプセルホテル併設の温泉施設である。サウナやカプセルというと男性専用の施設も多いが、こちらはレディースサウナ、カプセルも完備し、女性の一人旅にも好適である。入浴は二千五百円、カプセル+入浴は四千九百円となっており、営業は二十四時間である。
 そして、この二つにほど近い、南9条西2丁目に近年オープンしたのが、温泉付きシティホテル「アートホテルズ札幌」で、こちらの日帰り料金は千八百円。泉質は、三カ所ともナトリウムー塩化物泉である。
 そういう高級なところはどうも…という向きには、南9条西8丁目の住宅街にある「山鼻温泉 屯田湯」をお勧めしよう。ここは、古くから銭湯として営業してきたところだが、数年前にボーリングにより温泉の湧出に成功し、温泉の銭湯として営業している。サウナなどはないマチの銭湯だが、お湯は黄濁したナトリウム泉で、下町という場所柄もあり、いつも賑わっている。すぐ近くに組事務所があり、見事な紋々を背負った兄さん方と居合わせることがあるのはご愛敬であ
る。
 市内中心部の変わり種温泉としては、ショッピング、アミューズメントの新名所、サッポロファクトリー内にある「サッポロスプリングズ」が挙げられよう。ここは、水着で遊ぶ都市型アクアアミューズメント施設で、認可の関係で温泉としての営業ではないものの、“札幌麦酒工場温泉”という源泉認定も受けいる。料金は二時間千三百円からとなっており、時には、札幌都心部で温泉プール、と洒落込むのも粋かもしれない。
 続いて周辺部へ目を向けると、厚別区の国道12号線沿い、野幌森林公園近くに「森林公園温泉」がある。ここも、もともと銭湯として営業していたのだが、あちらこちらに温泉が誕生するので、裏庭を掘ればここでも温泉が出るのでは、と試したところ、本当に温泉が出た、という嘘のような経緯を持つ。銭湯から温泉浴場へと変更するのは手続きが煩雑なため、現在でも銭湯のままで営業しており、手軽な料金で温泉を楽しめるのが嬉しい。お湯はコーヒーのように真っ黒いナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉で、浴室にはサウナもあるほか、ロビーには売店と休憩コーナーもあり、銭湯らしからぬ充実ぶりである。
 そして、白石区の外れ、川北には、近年、「さっぽろ温泉」なる温泉が誕生した。当初は内風呂だけの施設だったが、後に露天風呂を持つ施設に拡張され、現在に至っている。入浴料は八百円。交通の便は悪いところで、車でないとおいそれとは行かれない場所であるが、車社会の北海道では、そのことが特段のネックにはならないようで、知名度も徐々にではあるが向上中である。
 豊平区西岡にも、最近、瀟洒な温泉施設が誕生した。「天然温泉 緑の湯」といい、住宅街にそびえ立つ鉄筋三階建ての建物が目を引く。入浴料は八百円で、ドリンク類がセットされた入浴コースもある。お湯はナトリウムー塩化物泉で、場所柄、露天風呂は申し訳程度に空が見え、前方はガラス窓と目隠しに覆われており、やや解放感に欠けるのは残念だが、サウナや休憩室、レストランも完備し、アメニティーは高い。ユニークなのは、千円でカットをしてくれる「カットオンリー」なる床屋があることで、顔剃り等はないものの、手頃な価格で散髪ができるのが特筆されよう。
 最後に、西区八軒の温泉銭湯を紹介しよう。「佳月湯」というそこは、家族風呂も備えた住宅街の銭湯だが、そのお湯はアルカリ性単純泉の天然泉。やや薄茶色をし、肌にぬめりを感じるお湯は、十勝のモール泉に似た感じである。小さいながらサウナもあり、地元の人以外にはほとんど知られていない“穴場”温泉と言えそうである。筆者がここを知ったのも、仕事で近くに行った折り、偶然通りかかって知ったというものであった。

 さて、デラックス施設から銭湯まで、はたまた温泉プールもありと、幅広く取り上げた札幌の温泉めぐり、いかがでしたか?このほかにも、まだまだ市内には温泉がありますが、それはいずれ、第二段、第三段としてお届けしたいと思います。お楽しみに…



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 グルメ情報

 牡蠣の食べ歩き

 前号では、食べ物から脱線して水の話となってしまったが、今回はお約束の食めぐりに話を戻そう。秋から冬にかけての旬の食べ物は数多いが、その中の“王者”といえば、やはり牡蠣であろう。私が無類の牡蠣好きであるということもあるが、生で食べるのみならず、フライや炒め物、カレーやシチューといった煮込み料理にまで、幅広く応用のきくオールマイティプレイヤーでもある。
 全国的には、宮城と広島が産地として有名だが、旅をして歩いていると、およそどこの海域でも採れるものであることがわかる。新潟で食べたものは、かなり大ぶりのものだったし、伊豆の漁港では殻付きのものが売られており、海岸に面した食堂の牡蠣フライも美味かった。そればかりか、グアム島でも、やや小ぶりではあるが、殻付きの生牡蠣をたらふく食らったものである。だが、敢て言わせてもらえば、牡蠣は北海道産が一番である。
 なぜなら、北海道産のものは、身がしまっていて味が濃い。何故か、と問われれば即答には窮するが、やはり冷たい海域で育つゆえなのかと思う。実際、サロマ湖で養殖される牡蠣は、種貝を宮城県から購入しているというが、その味は、明らかに宮城産のものを凌駕している。このことは、わが舌が自信をもって明言できよう。
 そんな牡蠣を食すにあたって、もっともお薦めしたい食べ方は、焼き牡蠣である。殻付きを直火で焼き、表面が軽く乾いたらOKである。殻を剥き、レモンを絞って食べるだけである。料理とも呼べない、実に単純なものだが、その味わいは格別である。焼くことによって出る独特の甘みが、口いっぱいに広がる。焼き過ぎてはこのジュースが逃げてしまうので、その見極めのタイミングが大事である。
 殻付きのものが手に入らない時は、剥き身のものを耐熱皿に入れてトースターで焼くか、ホタテなどの貝殻に乗せてグリルで焼くという手段もある。しかし、やはり殻付きを焼くのが一番ではあるが…
 そんな、焼き牡蠣を楽しめる店を、何軒か紹介しよう。まずは北海道でも、牡蠣といえば厚岸である。その、国道44号線から少し市街地寄りに入ったところにあるのが、道の駅「厚岸味覚ターミナル“コンキリエ”」で、その二階には、海産物の直売所と、炭焼きコーナーがある。各種の海産物や焼き肉類を購入し、その場で炭焼きにして楽しめるというもので、お薦めはなんといっても地物の牡蠣である。高台に位置しているので、厚岸湾を一望にできるビューポイントでもあり、道東のドライブでは立ち寄りたいスポットである。
 同じ厚岸で、JR厚岸駅前にある食堂「縄のれん」もお薦めである。ここは海産物販売の店も兼業しており、やはり地物の牡蠣が味わえる。生牡蠣、酢牡蠣、焼き牡蠣は言うまでもないが、大ぶりの牡蠣がのった牡蠣ラーメンは特に薦めたい。鉄道で旅をする人には是非薦めたい一軒である。
 ところかわって道南に足を運ぼう。道内では、厚岸やサロマ湖が牡蠣の産地としては著名だが、近年、噴火湾沿岸や、檜山管内の日本海側の町村でも牡蠣の養殖に力を入れており、道南の牡蠣も次第に知名度を上げつつある。そんな中で、島牧町の国道229号線にある道の駅「よってけ!島牧」にも、厚岸同様に海産物などを焼いて食べられるコーナーがある。日本海に面した風光明媚な立地で、近くにはやはり海岸に面した「島牧いさり火温泉」もあり、温泉&グルメが楽しめるエリアでもある。
 私の場合、サロマ湖畔、浜佐呂間の商店で、無選別の殻付きのものを購入することが多い。何しろ無選別だから、殻が二つ三つくっついていたりすることもあるが、味には変わりがないのでご愛敬である。一袋千円前後で、二十個ないし三十個近く入っているのだから、実に安いものである。当然生もいいが、やはり焼くのがいい。ただし、火で炙ると殻の小さな破片が飛び散るので、事後の掃除は面倒であるが…
 また、北海道の場合、本州に比べ、牡蠣のシーズンが長いのが特筆されよう。一般的には、秋から春先までが牡蠣のシーズンだが、北海道の産地では、盛夏の一時期以外、ほぼ通年牡蠣が味わえる。さすがに、旬を過ぎれば市場には出回らないが、主たる産地に足を運べば、時季以外でも味わうことが可能である。これも、気候清涼な北海道ならでは、と言えようか…(完)

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 旅人コラム

 寝台列車考(後編)

 

そんな、寝台列車の停滞感を、久々に吹き飛ばしてくれたのは、平成10年7月、寝台電車としては実に三十年ぶりに登場した、“サンライズ”こと285系電車であった。JR西日本とJR東海が共同開発したという新しい寝台電車は、JR西日本が車両を担当している“瀬戸”と“出雲”のうち一往復を置き換える前提で計画、設計されたため、直流方式の電車とされた。国鉄時代であれば、他線区への乗り入れ、転出を考慮し、交直両用電車として設計されたであろうが、時代は変わり、実際の走行線区の事情のみを考慮した車両が誕生することになった。これは、分割民営化の落とし子といえよう。
 車内設備は、個室指向の高まりを受け、寝台はA個室「シングルデラックス」を筆頭に、B個室「シングルツイン」、「シングル」、「ソロ」と全て個室化された一方、寝台券不要、特急料金だけで利用できる「ノビノビ座席」が用意されたことが特筆される。背景には、これまでにも一部の寝台特急に組み込まれた「レガートシート」なる座席車、また一部の夜行急行や快速に連結された「カーペットカー」が好評だったことが挙げられよう。このサンライズのノビノビ座席は、カーペットカーを二階建て構造にしたもの、と言えば分かりやすかろうか、一人分の区画が完全に仕切られた上、カーテンもあり、開放式B寝台に近い、いや、下手をすればそれを凌ぐ?とも思える居住性が確保されている。当然ながらこの座席の人気は高く、一カ月前の発売開始と同時に売れ切れるという。フリースペースのミニサロンもあるほか、シャワーは「シングルデラックス」利用客には無料のものが用意されているほか、誰でも利用できる有料のものもある。遅くに出発し早くに到着する運転時間帯のため、食堂車の設備はない。 この“サンライズ”型への置き換えにともない、列車名称も“サンライズ瀬戸”“サンライズ出雲”となり、両列車は東京〜岡山間を併結運転されることになった。また“サンライズ出雲”は出雲2、3号時代の山陰本線経由から、山陽線、伯備線回りに経路が変更された。新型車両導入の一方で、二本の列車を集約するというリストラが実施されているということも、見落としてはならない点であろう。
 そしていよいよ、冒頭に述べた“カシオペア”の誕生へと続くのである。その子細には改めては触れないが、“サンライズ”“カシオペア”の登場で、JR発足から十年を経て、ようやく寝台車の新しい在り方を模索する動きが出てきたということであり、これは大いに歓迎すべきことであろう。
 その一方で、既存の夜行寝台列車は、厳しい現実に晒されているのも事実である。少し遡り、新幹線開業絡みでは、秋田新幹線では上野〜青森間の“あけぼの”が羽越線経由に変更され、同区間を走っていた“鳥海”が廃止された。長野新幹線では、上野〜金沢間の急行“能登”が、長野経由から新潟経由に変更されている。平成9年12月には、“はやぶさ”“富士”の運転区間短縮があり、“はやぶさ”は日本最長距離列車の座を、“トワイライトエクスプレス”に明け渡した。
 “カシオペア”の運行開始後の“北斗星”は、一往復が季節運転化されたが、閑散期には、個室車以外の利用率が大きく落ち込んで久しいことが見え隠れする。その一方で、二両の四人用コンパートメント車を含め、全寝台が個室化されたJR北海道担当の“北斗星1、2号”は高い利用率を維持しているといい、やはり、開放式B寝台はもはや時代遅れ、と言わざるを得ないのではなかろうか。
 また、先のJR西日本のダイヤ改正では、大阪と山陰を結ぶ夜行急行“だいせん”が、客車から気動車へと置き換えられた。そして去る12月のダイヤ改正により、九州特急の“さくら”と“はやぶさ”が東京〜鳥栖間を一本化され、“さくら”の佐世保行編成は廃止され、それぞれ長崎、熊本行として分割併合運転されることとなった。
 先にも述べたとおり、寝台車両の老朽、陳腐化の問題はもはや避けては通れぬところまで来ており、車両を所有している旅客会社にとっては、新車を制作するか、運転をやめるか、の二者択一を迫られていると言っていいだろう。しかし、“サンライズ”、“カシオペア”の示した方向性をさらに追及することにより、次世代の寝台車像は、かなり具体的に見え出したといっていいのではないだろうか。まず撤退ありき、という考え方ではなく、いかにユーザーに受け入れられる車両空間を供するべきか、そこから考えるべきと痛切に願う。
 寝台列車斜陽が唱えられる一方で、元気のいい寝台列車がないわけではない。“瀬戸”“出雲(1往復)”の“サンライズ”化は、そもそもの高い乗車率に後押しされてのものである。新幹線の直通しない四国、山陰地方へは、直通寝台列車の需要も高いということである。そして、完全に新幹線並行区間を走る、東京〜下関間に一往復残った“あさかぜ”も、実は人気夜行列車の一つである。
 その理由は、運転時間帯にあり、下りの東京発19時はいささか早い感がなきにしもあらずだが、定時退社ができたなら、ビジネスマンにとって特別早すぎるということはない。或いは、東京発時刻に間に合わなくとも、静岡、浜松、或いは名古屋まで、新幹線で追いかけて乗り込むことが可能である。そして翌朝は、岡山県西部から山口県東部にかけてが、早朝着の絶好の時間帯となるのである。航空機、新幹線の終発と大差ないか、或いはそれより遅い時刻に出発し、翌朝は確実に両者より早い到着ができるのであるから、ビジネスマンには大人気なのである。
 上りだと、18時55分発の柳井あたりからが“有効時間帯”となり、広島発20時、岡山発22時19分といったあたりは、まさに出張帰りのため、と言いたくなるような時刻設定である。翌朝は横浜が6時59分、東京が7時28分の到着で、まさに“ビジネスエクスプレス”である。本家、博多まで行っていた“あさかぜ(旧1、4号)”が廃止となった一方で、もともとは「補完列車」的存在だった下関折り返しの列車が、運行時間帯の妙で人気を誇っているのだから、時間帯も、夜行列車の“武器”になることの証明である。“サンライズ”の、首都圏対岡山県内の区間利用が多いというのも、また、運転距離が短く、深夜発早朝着となる上野〜金沢間の“北陸”が堅調というのも、同様の理由によるものであろう。
 ほかには、夜行バス対策などで誕生した、乗車券と指定券だけで乗れる夜行快速列車が元気そのものである。札幌〜函館間の“ミッドナイト”、新宿〜村上間の“ムーンライトえちご”、そして、伝統の東海道夜行から生まれ変わった“ムーンライトながら”などは人気列車として定着し、関西から九州、四国、山陰へ向かう季節運転の“ムーンライト”シリーズも、すっかり季節の顔となった感がある。
 まとめとしては、画一的に寝台列車を運転していれば客が来た時代は、とうに終わっているのである。デラックスあり、一方で廉価ありと、ユーザーの要求にきめ細かく応える夜行列車づくりこそが、これからの課題であると同時に、復権への道程であると筆者は考える。そして、ビジネス利用の見込める区間では、運転時間帯が大きくものをいうことも、既存の一部の列車が見事に証明している。今後は、発想を逆にし、利用が見込まれる時間設定の列車を走らす、といった工夫も求められよう。

 筆者は、このところ道内を車で旅することが大半で、夜行列車に乗る機会は、以前と比べて減ってしまったことは否めない。しかし、鉄道の旅は好きであるし、これからも続けたいと思っている。ことに夜行列車は、旅情という点ではその頂点にあるといってよかろう。
 夜行列車の最大の魅力は、夜、眠りの間に、出発地とは異なる空間に自らを運んでくれることにあろう。横浜在住時代、よく利用した“北斗星”では、ネオンと、ひっきりなしにすれ違う通勤電車に見送られて東京を離れ、一夜が明けると、目に飛び込んで来るのは、朝日に輝く函館山だったり、白樺林の向こうに広がる小沼と駒ヶ岳だったりする。その度、たった一夜にして、何とも自分は異なる空間まで運ばれたものか、と感動を覚えずにはいられなかった。航空機にて瞬く間に移動してしまっては、味わうことのできない感動である。むろん、これが上野行北斗星の場合、逆にしゅんとなってしまうのだが…
 距離の移動が大きければいい、と限ったことでもない。急行“利尻”に乗り、ネオンに見送られて札幌を離れ、一夜が明ければ、サロベツ原野の地平線と、そこに浮かぶ利尻の稜線…或いは、快速“ミッドナイト”で函館が近付き、地平のかなたにぼんやりと函館山が見えてくる…新宿の殺伐としたネオン街を旅立った“ムーンライトえちご”で、明け方に目を覚ますと、そこは雪の越後平野…
 車での旅は、そもすれば移動に終始しがちで、しかも、一人旅ならハンドルを握るのは間違いなく自分で、眠る時には移動からは完全に切り離される。それゆえに、夜行列車への羨望が高まっているのかもしれないが。
 そんな、筆者の夜行列車、寝台列車への思い、そして将来への展望を、寝台列車の歴史を軸に綴りました。長文となったゆえ、三回に分けて掲載させていただきました。
 それでは、夜行列車の未来に、幸あれ…(完)



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 新春号ということで、もっと早くにお届けしたかったのですが、年明けからの旅を終えて間もなく、宅配の仕事を手伝いに行くことになってしまったゆえ、脱稿が遅れてしまったことをおわびします。
 次号からは、新企画もスタートさせたいと思っています。今年も、どうぞよろしくお願いいたします…



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