ご無沙汰いたしました!札幌発旅人通信です!(何だか、テレビかラジオ番組のオープニングみたいになってしまったな…)
長かった冬も終わり、北海道は一足飛びに春から夏を迎えようとしてます。桜前線が足早に道内を駆け抜けたと思いきや、いつしか新緑が日々鮮やかさを増す季節になりました。本州各地が梅雨に入りつつあるニュースを尻目に、北海道は、一年で最も清々しい時季を迎えました。
前の号でも触れた通り、この冬は例年になく寒い冬だったのですが、積雪は平年並みで、4月早々には札幌で残雪ゼロが宣言されるなど、春の訪れは順調でした。そして4月末、例年より早目の桜の開花。さっそく道内花見の旅、と洒落込みたい季節でしたが、その頃からおよそ一か月、仕事尽くしの日々となったため、今年の道内での花見は叶いませんでした。その前の4月上旬、本州を旅して満開の桜をあちこちで見れたので、それ以上の花見などまかりならん、ということだったのしょうか。
5月の終わり、ようやく道内の旅に出ることができ、すでに桜の季節は終わっている中、東藻琴で満開の芝桜を愛でることができました。5月の北海道は、雨が少なく、日照時間が長かったこともあり、芝桜もあと一週間遅かったら…といタイミングでした。
そして6月、北海道は春から一足飛びに初夏の季節ですが、5月と比べてやや天候不順のようで、オホーツク海低気圧の居座ったしばらく前は、4月下旬並みの低温となり、羊蹄山では冠雪が記録されるなど、冬に逆戻りしたような日もありました。しかし樹々の青さも日々色濃くなり、やがて本格的な夏を迎えることになりそうです。
では、今回の旅人通信、ベーシックな定番連載で進めていきたいと思います。
第九回 天塩川沿いのいで湯を訪ねて
石狩川に次ぐ流域面積を誇る北海道第二の川、天塩川。道北の盆地を縫って日本海に注ぐまでのその流域は、日本中の河川に於いて最も長い距離を河口からダム、堰に遮られることなく遡れるということでも明らかなように、北海道原始の姿を今なお多くとどめている。
そんな道北の母なる川、天塩川の沿岸にも、いくつかの温泉が湧いている。そんな中から今回は、中流域にある施設を三軒、ピックアップしてみることにしよう。旭川から国道40号線を北上すること小一時間、綿羊のサフォーク種の飼育で知られる士別市へと入る。綿羊以外では、大手自動車会社の冬季用テストコースがあることでご存知の方もおられると思う。一般的に盆地では積雪量は少ないものとされるが、ここではそれは当てはまらない。空知と留萌を隔てる標高千メーター前後の山地を越えて吹き込む日本海からの季節風は、この盆地に於いても多量の雪をもたらす。そこへ盆地ならではの厳しい冷え込みが加わるのだから、この地の冬は、日本中でも類を見ないような峻烈な気候となる。具体例を上げれば、すぐ北隣にある幌加内町は、氷点下41.2℃という、日本での観測史上最低気温を記録したことで知られている。自動車メーカーのテストコースが設けられるのもそんな気象条件ならではのことであるが、そこに暮らす人々の切なさ、やるせなさを、思わずにはいられない。
その士別市街から北へ向かうことおよそ20分、隣の風連町との境に近いところの山懐に「日向(ひなた)温泉」がある。日向の名は、山形県出身の貴族院議員日向三右エ問がこの地の天塩川左岸一帯を明治33年に払い下げを受け、「日向農場」をつくったことに由来している。後の明治末期に天塩川畔湧出する鉱泉が発見され、温泉場が開かれたのがルーツだという。
昭和に入り、ボーリングの結果十分な湯量が確保されて引湯利用が可能となり、河畔からはやや離れた現在地に温泉施設が建設され、現在に至っている。日向森林公園に近く、日向スキー場に隣接する立地でもあり、また初夏には芝桜の名所として、地元では親しまれている。
その施設はというと、正直くたびれた印象は拭えず、最近のお洒落な公営温泉と比べると、およそ垢抜けしているとは言い難いが、地元の人々からは愛好されており、温泉前に入る路線バスは、かなりの賑わい様である。
浴室は浴槽一つとシンプルだが、小さいながらサウナもある。かなり古びた泉質分析表によれば硫化水素泉とあり、やや白く濁った感じの湯である。
日帰り料金は三百円、宿泊も一泊二食付き四千八百円といずれも手頃ながら、日帰り客には無料の休憩室も用意されている。食事では、旬の山菜を使用した日向鍋や、サフォークの刺身やタタキも用意されているそうで、それらも一度、味わってみたいところである。
宿泊客の顔ぶれはというと、湯治の団体がいる一方で、一般の宿泊は、土木工事関係の人々が大半である。市街地からは離れ、交通の便が良いとは言い難いところだけに、こうした状況になってしまうのであろう。見方を変えれば、北海道の公共事業依存体質が垣間見えるとも言えようか。しかし、手頃な料金での宿泊ができる施設であり、観光コースから一歩逸れ、こういう静かな一軒宿で過ごす旅というのも、悪くなかろう。道央から道北への中継地として、チェックしておいて損はない一軒である。40号線を北上し、名寄市をへてさらに北へ進むと、やがて美深市街へと入る。美深町の名は、かつて「日本一の赤字線、美幸線」の始発駅だったと、記憶しておられる方も多かろう。
美幸線は、美深と北見枝幸(興浜北線、昭和60年7月廃止)を結ぶ路線として計画されたが、実際は美深〜仁宇布間の21.2キロが開業したにとどまり、沿線は超過疎地であり、国鉄再建法案(昭和55年施行)により第一次廃止対象の指定を受けた。しかし、時の美深町長・長谷部秀見氏は同線の存続に腐心し、自ら東京に出向き、街頭で美幸線の乗車券を販売し、「日本一の赤字線に乗って、秘境“びふか松山湿原”を訪ねてみませんか」と、それまで無名だった仁宇布から5キロほどのところにある高層湿原を矢面に立てて観光キャンペーンを行ったり、また、嫁不足に悩む町内の農家の若者と、都会の女性を引き合わせる「美幸線お見合い列車」を企画したりと、増収のために涙ぐましい努力を行った。しかし、そもそもの過疎という本質的赤字要因を埋めるには到底至らず、昭和60年9月、美幸線は廃止となった。仁宇布と北見枝幸を結ぶ延長区間は、日本鉄道公団により工事が進められており、道床工事の九割が完成していたというが、国鉄再建法案施行と同時に工事は中止され、道北の内陸とオホーツク沿岸を結ぶ計画だった鉄路は、未完のまま幻と終わった。
「未完成のまま、赤字だからと廃止するなど、とんでもない。当初計画どおり、開業させてから論ずべきことでしょう」
という長谷部氏の持論は、北見枝幸までの興浜北線までもが廃止となるに至り、ついに実ることはなかったのである。
美深市街を過ぎておよそ9キロほど進むと、道の駅びふかがあり、そこを右に逸れた天塩川べりに「びふか温泉」がある。平屋の温泉棟は、ひときわ高いとんがり帽子屋根の塔が目を引く。正式には“美深町林業保養センター”といい、いかにも山に囲まれた林業のマチらしい名である。
昭和55年の開業当時は“温泉”を名乗りながら本物の温泉ではなく、物議の対象になりもしたというが、平成2年にボーリングにより温泉掘削に成功し、建物も全面改築して現在に至るという。
フロントからロビーへ進むと、大水槽に飼育されたチョウザメに目を見張る。旧ソ連から購入したものというが、なぜ、美深でチョウザメなのか。実は、昭和初期までは天塩川にもチョウザメが生息していた。それを踏まえ、水産庁が昭和58年、ここ美深の天塩川河跡の三日月湖にソ連産のチョウザメを放流、増殖実験を始めたことに由来するという。
ここのレストランでは、チョウザメ肉の薫製とキャビアを常時提供しているほか、予約では特別料理を提供している。行く行くは、町の特産としてチョウザメ肉とキャビアを全国に出荷する構想もあるそうで、「和製キャビア」が全国に出回る日が来ることを期待したい。
温泉は、ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉を浴用加熱しており、半円形の大浴槽とジェットバスを備えた小浴槽があるほか、サウナも設けられている。浴槽側の壁面は天井まで取った窓で明るいが、上段はステンドグラス風、下段は細かい格子模様の入った薄色ガラスで、外の眺望が効かないのは残念である。
日帰り入浴は三百円と安価で、無料の休憩室もある。宿泊も一泊二食付き五千八百円からとこちらも安い。露天風呂はなく、かつ浴室から外の景色を眺めることもできないなど、解放感に欠けることは残念であるが、立ち寄り湯としてチェックしておいて損はない施設である。週末ともなれば、名寄、士別はもとより旭川方面からも多くの日帰り客が訪れ、休憩室やロビーは、大層な賑わいを見せている。観光色の薄い道北内陸地方では一般向けの宿泊施設が限られているということもあり、宿泊利用の価値も高い施設と言えそうである。国道40号線をさらに北上し、小さな峠を越えると音威子府村に入る。美深同様林業の町として知られるところだが、町村境にほど近い咲来地区に、村営の「天塩川温泉」がある。トーテムポールと共に設けられた案内板に従って左折すると、間もなく宗谷本線の踏切があり、すぐ右には片側ホームに待合室だけという質素な出で立ちの「天塩川温泉」駅がある。ここは国鉄時代には仮乗降場で、全国版の時刻表には不掲載、道内版の時刻表のみでその存在を知ることができた。
仮乗降場とは、各地の鉄道管理局(現在のJRだと、支社ないし支店に相当)の権限で、地元からの請願によって設置された停留所(無人駅の総称)という位置付けで、営業距離は設けられていなかった。国鉄時代の北海道には、このような仮乗降場が百ヶ所以上もあった。
こう書くと、何かと問題の多かった旧国鉄も、権限の地方委譲は進んでいたのか、と取られる向きもあろうが、それは必ずしも当てはまらないように思う。以下は筆者の推論だが、広大な北海道の地方線区に於いて駅ないし停留所設置の請願があった場合、それを国鉄本社に陳情したとしても、実現までにはかなりの時間を要する。また国鉄本社としても、一日の利用者数がせいぜい数十人規模にとどまるような停留所設置の請願に際し、わざわざ北海道の辺地にまで、現地調査の職員を派遣したりしていてはたまったものではない。そこで、
「停留所設置の権限は(管理局に)与えるから、あとはそちらでやりなさい。ただし、あくまで“仮”の停留所だから、営業距離はナシですよ」
ということで、実際の利用者は、手前ないし先の駅から(まで)の運賃を支払うものとして認知されたようである。裏を返せば、正規の駅としての需用が見込まれないところになど、国鉄本社は必要以上には関与しない、という姿勢の現れだったとも受け取れる。
これら仮乗降場もJR移行時に正規の駅に昇格し、営業キロも設けられて現在に至っているが、その後の利用客の減少により、廃止に追い込まれたところもある。JR発足から十年以上を経た今、このことを記憶する人も、もはや少なくなってしまった。
さて、温泉の正式名称は“住民保養センター天塩川温泉”といい、踏切を越えてT字路を左折し、天塩川を橋で越えたところに位置する。鉄筋二階建てで派手さはないが、洒落た感じの外見である。
源泉は数キロ離れた山中で自噴する含硫黄―ナトリウム・塩化物・炭酸水素塩泉(浴用加熱)で、ほのかな硫黄臭を伴う。飲めば便秘、糖尿、肝臓病などに効くといい、脱衣所とその外には、飲用冷泉の蛇口も設けられている。
浴室には、二つに別れてジェットバスと気泡浴のある大浴槽、そして屋外に通じるドアを出ると、岩風呂の露天風呂がある。お勧めは何といってもこの露天風呂で、山々に抱かれて悠然と流れる天塩川を望むことができる。絶景という言葉は当てはまらないが、見入るほどに風景と一体化してしまうような心和む雄大な眺めであり、「天塩川温泉」の名に恥じない。ただ残念ながら、この露天風呂は冬季間休止(概ね12月から翌年4月半ば)となってしまう。厳冬期には氷点下20℃を下回ることも日常の厳寒の地では、浴用加熱の湯で露天風呂を切り盛りすることまでは適わぬということである。したがってここは、春から秋までが訪ね頃ということになろうか。
館内には無料の休憩室があるほか、レストランも日帰り客にも開放されていて、それでありながら日帰り入浴は二百円という安さである。本州の温泉場で、脱衣所と浴室のみの共同浴場でこの入浴料というところなら複数記憶にあるが、これだけ緒設備が整い、しかも無料貴重品ロッカーがあり、洗い場には石鹸まで備えられているのだから、“超”破格という以外にない。費用対効果ならぬ“費用対内容”という言葉があるなら、それに於いては全国屈指の低料金温泉と言えること疑いなしである。
宿泊も、一泊二食付き五千五百円からと格安だが、先に紹介した日向温泉同様、春から秋にかけては土木工事関係の中長期の宿泊が多く、週末のみならず平日でも満室のことがままある。宿泊を考える方は、早目の予約が必須である。冒頭にも述べたが、今なお原始の姿を色濃く残し、道北の大地を悠然と流れる川が天塩川である。河原を形成する前段階の氾濫原を従えて流れるその姿は、「北海道らしい」川を実感させてくれる。そんな自然な姿を色濃くとどめながらも、国道40号線と宗谷本線が寄り添い、旅する者にも存分にその姿を堪能させてくれるこの「川」をめぐる旅というのも、ありきたりの観光に飽きた向きには是非勧めたい。そんな旅の立ち寄りや宿泊には、これらの温泉が最適なのは言うに及ばず…(完)
虎杖浜・にじます料理の店
北海道は言わずと知れた海の幸の宝庫であり、魚と言えば海のもの、と考えがちであるが、淡水魚の存在も忘れてはなるまい。湖沼で獲れるヒメマスやイトウ、川魚のヤマメ、イワナ、にじますなど、陸の魚も侮れない味わいがある。今回はそんな中から比較的ポピュラーながら、定番ならではの魅力に溢れたにじます料理の店を紹介しようと思う。
道南の太平洋岸に位置する白老町は、虎杖浜温泉と、ポロト湖畔のアイヌ民族資料館(全国唯一)が全国的にはそこそこ知られるくらいで、観光色には乏しい町でもある。カニとタラコの原料となるスケソウダラの水揚げ港として知られているほか、旭化成と大昭和製紙の工場があり、付近には工業団地も造成されており、工業の町、というイメージが道内では先行している。
虎杖浜温泉は、町域では最も西寄りに位置している。一般に言う温泉地のような温泉街は形成されておらず、国道沿いと、そこからやや入った山間ないし海岸部に温泉ホテルや旅館が点在しているが、それよりもカニを売る店の大看板がやたらに目立つといった状態で、「温泉街」としてのまとまりにはおよそ欠けているというのが正直な印象である。さらに西へ進めばすぐ登別市へと入り、有名な登別温泉へも間近のところである。そのため、温泉地としての虎杖浜は、登別というビッグネームにかき消されてしまっている印象が強いが、数種の源泉を持ち、カニをはじめとした水産資源には恵まれた立地でもあり、温泉地としてはそこそこの魅力はあるようにも思える。いかんせん温泉資源が“超”が付く位豊富な南北海道地区であるゆえ、かような地味な扱いに甘んじているようなもので、これが例えば北関東の太平洋岸のような温泉資源に恵まれないところであれば、近隣に轟く著名温泉となっているのではなかろうか。
さて温泉の話は置いておき、肝心のにじますの話へと進むとしよう。国道36号線沿い市街の西外れに、「にじます料理」の暖簾を掲げた山本養鱒場の支店がある。店の屋号よりも、「にじます」を正面に掲げているのが、この店のこだわりを暗に語っているようにも思える。
この店の品書きは、にじますの刺身、塩焼き、フライの三品をメインに、それらの一品ないし二品を組み合わせた定食のみとシンプルなものである。通常にじますといえば、体長十数センチのものが一般的だろうが、ここのものは生育期間が違うとみえ、体長三、四十センチと思しき、降海形の鱒と思えるような立派なものが調理されて卓上に現れる。刺身や塩焼きは海にいる種のサーモンと思しきボリュームであるし、フライもまた然りである。
刺身は、独特の甘みがあり、大ぶりながら決して大味ではなく、箸が進む。塩焼きはベーシックながらも王道を行く味わいであり、フライもジューシーで捨て難い。さらには各定食にはアラ汁がつくのだが、これが鍋で出されてボリュームがある上に、アラのほかに各種の野菜やキノコ、豆腐なども入っており、これだけでもご飯がすすむこと請け合いである。
筆者は以前、新潟県の小出駅前にある食堂で、よくにじます料理を食したのだが、そこのにじますは、体長十センチ強程度の、いかにも川魚サイズのものであった。それに比べ、山本養鱒場のそれは、何とも大ぶりである。養殖現場のものの考え方からして、北海道的スケールということであろうか。
サケ、マスの孵化放流事業は全道的に行われているが、川魚の養殖となると、比較的気候の温暖な道南地方に限られてくる。それを思えば、この虎杖浜のにじます料理、道南ならではの味と言えそうである。札幌から敢て泊まりがけで出かけるほどの場所でもないので、温泉で一浴し、ここ山本で昼食ないし夕食、というパターンが、これからも繰り返されそうである。(完)
第二回 “我が町”東札幌をめぐって(前編)
筆者の住居があるのが、白石区東札幌である。白石区は市内では東寄りに位置し、北端部は隣の江別市と境界を接し、そこから南西にかけては豊平川に沿って東区、中央区と接し、南東方向では豊平区、そして東端で厚別区と接する区である。
そんな中での東札幌は、区域では西寄りに位置し、中央区と接する菊水の東隣、南東では豊平区と軒を接する位置にあり、道道札幌夕張線、通称南郷通を軸にして北側は白石中央地区、南側は豊平との区境を成す東北通に挟まれた長方形を成す町域を形成している。その北東端に近いところに地下鉄東西線東札幌駅があり、反対の南西端近くには同白石駅がある。つまり地下鉄の二駅間にまたがった市街、という表現ができようか。
そして、特筆すべきほどのことではないが、札幌市全域に於いて、札幌市以下に札幌の名が付く地名は、ここ東札幌が唯一である。これは、中央、北、東の三区中心部地域が全て条丁目のみの住所で表示されていることが最大の要因ではあるが、やや意外なことではある。
そんな東札幌だが、かつては国鉄駅のある町でもあった。室蘭本線の沼ノ端(苫小牧より一駅東)から分岐した千歳線は、千歳、恵庭を経て、上野幌で札幌市内に入って市街地方向へ左カーブを切り、大谷地、月寒(つきさっぷ)、東札幌の三駅を経て、豊平川を渡る手前で函館本線と合流し、苗穂へと至っていた。しかしこの旧線は単線であったうえ、急カーブ区間が介在し、輸送力増強のネックとなっていた。そこで上野幌からほぼ北方向へ進行した後に緩やかに左カーブし、白石駅手前、新札幌貨物駅(現札幌貨物ターミナル駅)付近で函館本線と合流する現行の新線が建設され、昭和48年9月に付け替えられ、現在に至っている。新線に設けられた新札幌の駅名は、現札幌貨物ターミナル駅より譲渡されたものである。また現在でも千歳線の起点が白石ではなく苗穂なのは、このような歴史的経緯に因るものである。
これにより旧線の上野幌〜月寒間、東札幌〜苗穂間は廃止され、月寒、東札幌の両駅は貨物駅として白石からの連絡線を介して函館本線の支線として残されたが、月寒は昭和51年10月、東札幌は昭和61年11月にそれぞれ廃止され、貨物駅の機能は札幌貨物ターミナル駅に集約されている。
筆者は、昭和61年から翌年にかけて、札幌で生活したことがある。その時は東札幌の南東寄りに位置する豊平区美園に住んでいたのだが、当然東札幌貨物駅の存在は知っており、広大な敷地と、道道札夕線を跨いでいた機廻し線の踏切が印象に残っている。もちろん貨物線と主要道道の力関係は明白で、遮断機ではなく信号機が設置され、青信号である限り車両は一時停止の必要のない踏切であったが、何度か機廻しのための赤信号と遭遇したことがあり、“駅”の存在を認識させられたことを記憶している。むろんすでに貨物駅としての機能の大半は札幌貨物ターミナル駅に移転していた頃であり、敷地の広さと張り巡らされた線路の割には構内の貨車の数は少なく、間もなく新聞の記事にて、東札幌貨物駅が廃止されたことを知ったのであった。
同駅の廃止直後、自転車にて付近を訪ねたことを記憶している。札夕線踏切のレールはまだ健在だったが、道路両側の線路部分には柵が設けられ、信号機にはカバーが掛けられていて、「鉄路が役目を終えた」ことをヒシヒシと感じた。広大な敷地の西側にある旧駅舎にも行ってみたが、すでに建物は無人で、駅名を表すものは何もなかった。駅舎が、旅客営業廃止後も貨物駅の詰め所として機能していたことは間違いないが、駅名標がいつの段階で外されたのかは、定かではなかった。
その駅前へ至る道筋も、すでに旅客駅としての使命を十年以上前に終えたことを物語るかのように、数軒の個人商店が散見されるだけで、かつての“駅前”としての賑わいを感じ取ることはできなかったと記憶している。
その東札幌から上野幌にかけての旧線跡は、サイクリングロードとして整備されている。しかし、十年強前まで機廻し線として生き残っていた札夕線から南側しばらくの区間は、現在も民間の運送会社や倉庫の敷地に挟まれるかたちになっており、当然レールはないが、いかにも線路跡といった表情のまま細長い空地となっている。一部には枕木を流用したと思しき柵も見られ、「廃線跡」の表情を色濃く残している。
一方肝心の東札幌駅跡はというと、札幌市によるハイテクパーク構想などが持ち上がったこともあったが、バブル崩壊で市の財政事情も芳しくないと見え、長く空地のまま放置され、臨時の雪捨て場に利用されるくらいが関の山であった。しかし今年に入ってようやく再開発事業が着手され、南北に細長い跡地の中央付近で、仮称「市民情報センター」の建設が始まった。平成15年完成予定の再開発事業では、北側の国道12号線寄りが公園、中央部が産業振興施設、そして南側の札夕線側エリアは商業、業務ゾーンとなる計画だという。駅の廃止から20年近くを経て、果たしてどんな“街”が誕生するのであろうか。
筆者の住むアパートは、東札幌1条1丁目に位置している。前述の通り豊平との区境を成す東北通に近く、かつて国鉄駅があった関係かどうかは定かではないが、周辺は住宅より倉庫や軽工場が目立つところでもある。アパートのすぐ西隣は現在は広大な月極駐車場だが、以前はここも製材会社の工場であった。現在、工場はどこかへ移転したらしく、林産会社名を掲げたプレハブ事務所が敷地の隅に建っている。かように住宅の疎らなところで駐車場経営が成り立つのかと思いきや、どうも「パーク&ライド」的利用者が多いということに思い至る。
「パーク&ライド」とは、都心への車両乗り入れを避け、郊外の駅前などに設けられた駐車場に車を停め、そこからは電車やバスで都心へ通勤する方法のことで、札幌市でも、郊外の地下鉄駅前にそのための駐車場を設置し、これの普及に取り組んでいる。ただ、そういった公営の駐車場は満車のところが多く、駅やバス停に近い民間駐車場でも、そういった利用者に門戸を広げるところが増えている。ここ東札幌1条1丁目からは、地下鉄へも中央バス停へも5分ほどの好立地であり、日中の駐車台数が夜間のそれを遥かに上回ることからも、「パーク&ライド」的利用をしている客が多いことは明白である。
豊平区寄りの南側が1条、都心寄りの西側が1丁目で始まる東札幌の条丁目は、北の白石中央寄りが6条、東の札幌環状線寄りが6丁目で終わる。札夕線こと南郷通が2条と3条を隔てており、東西線東札幌駅はその2丁目に位置している。通りの両側に出入口が一ケ所づつという、地下鉄駅としては最もシンプルな部類の駅である。駅前にバスが全く乗り入れていないことも、その簡素さを際立たせている感がある。
駅前、というよりは駅の真上にはダイエーがあり、駅を中心に、商店街とまではいかないが、ちょっとした商圏が形成されている。信金、クリーニング店、薬局、美容室、弁当店、そして数軒の飲食店に、コンビニ…あるべきものは一応一通りある、といった感じである。ここから大通までは約3キロ、乗車時間わずか5分で、都心へのアクセスも良く、何かと利便性は高いところである。
多額の有利子債を抱えて経営再建中のダイエーは、市内でも店舗の閉鎖が相次いだが、専門店街も充実しているここ東札幌店は元気で、千台近くを収容する駐車場も、土日となれば停め場所に苦労するほどの混雑を見せる。しかし、駅前にそれだけの駐車場を擁し、それをタダで客にばかり提供していたのでは損と、月極での有料契約事業に乗り出した。つまり「パーク&ライド」の利用者を獲得しようと、月極客に限っての早朝から夜間までの利用に門戸を開いたのである。どの程度の契約者がいるのかは定かではないが、マイカーの都心乗り入れ抑制の時流に乗った、なかなか強かな戦略ではある。
ここのダイエー店舗は、高層マンションに隣接してはいるが、店舗部分は二階建てで、郊外店形の造りである。現在では周囲は完全に市街地化しているが、出店した頃は、まだ多くの空地の残る郊外の様相を色濃く残していたのではないだろうか。そういえば、昭和61年頃を思い起こせば、南郷通を挟んで建つマンション二棟はまだなく、木造平屋建てのジンギスカン店がぽつんとあったことを思い出す。十年強前、すでに市街地化は完了していたように思うが、まだまだ高層建築は少なかったのである。(以下次号、後編へ続く)
道路特定財源と北海道の道路整備
このほど発足した小泉内閣が政策の柱として掲げる「構造改革」の一つに、道路特定財源の使途見直し(一般財源化)が上げられている。 道路特定財源とは、自動車重量税やガソリン税、軽油取引税など、主に自動車ユーザーが納める税金を道路整備とその関連事業にのみ使途を限って充当しているものだが、景気低迷で税収が全般に落ち込んでいる折であり、これを道路整備以外にも使途を広げるべきではないか、ということが骨子である。
確かに日本地図を見れば、北海道から九州、沖縄に至るまで、国道は無論のこと、高速道路がほぼ隈無くと言っていいほど整備され、このことがこれまで議論されなかったことが不思議にさえ思えるほどである。そこには、選挙基盤の土建業者票を何としても手放すまいと奮闘する族議員や、既得権益にしがみつこうとする官僚の姿が見え隠れする思いである。また一部自治体からは、
「地方における道路整備はまだ不十分で、特定財源見直しには賛成しかねる」
といった陳情が政府に為されたりもしているという。こればかりは、道路整備の地方格差が存在することは事実なので、頭から非難することは危険なのだが、世論はこの見直しに概ね好意的であり、いまさら見直しなしということは、世論が容認しまい。
さて、わが北海道はと言うと、その道路特定財源の恩恵を、恐らくはこれまで全国の自治体では最も受けて来たと断じて相違はなかろう。戦災を受けた都市が限られていたことや、津軽海峡を隔てるという地の利の悪さから、戦後の道路や都市基盤の整備が内地に比べて遅れを取っていたこともあり、昭和40年代以降は、極めてハイペースでの道路整備が続けられた。生活、産業の軸となる幹線国道の整備はこの期間に一巡したように思えるが、昭和50年代以降は、寒冷積雪地ならではの問題である冬季間の道路不通を解消すべく峠越え道路の改良に重点が置かれ、工事が続けられたようである。これらの財源は当然道路特定財源であり、全道の国道沿いの至るところに、
「この道路は、ガソリン税、自動車重量税でつくります」
といった看板が見られる。
本州から旅行にやって来た人が、それらの看板と、随所で遭遇する道路工事現場を目の当たりにして、
「なるほど、本州にいると分けがわからなったガソリン税や自動車税の行方は、
みんな北海道だったんだ」
と話したという逸話は、確かに頷ける一面はある。以下では、北海道の道路整備がいかに急ピッチで進められたかを、検証してみたいと思う。
手元にある1980年代刊の道路地図によれば、国道393号線毛無峠(小樽市、赤井川村間)同392号釧勝峠(浦幌、白糠町間)、同273号三国峠(上川、上士幌町間)と浮島峠(上川、滝上町間)、同334号知床峠(斜里、羅臼町間)、同333号ルクシ峠(佐呂間、端野町間)、同275号美深峠(幌加内、美深町間)の峠道7区間と、国道231号の増毛町内、国道336号の浦幌、豊頃町間の計9路線が未除雪による冬季通行止区間となっている。国道に限ってのこの数字であり、道道、市町村道に至ってはさらに多くの路線があったであろうことは明らかだが、それらを取り上げる紙幅もなければ、一般にはほとんど馴染みのない道路や区間を羅列しても意味がないことは明らかなので、ここでは国道を下敷きに話を進めたい。
それから十年強が経過した今、上記9区間のうち、冬季の通行止が続いているのは334号線の知床峠ただ一つで、ほかは全て通年の通行が確保されるようになった。緯度の関係で、標高千メーターでも本州の三千メーター級の山岳地並みの峻烈な気象条件となる北海道であるから、一冬を通して除雪を行い、交通を確保するというのは並みのことではない。もちろん、除雪機械の進歩あっての現体制ではあろうが、それと同時に道路改良なくしてはあり得ないものでもある。
これらの中で、筆者にとって特に感慨深いのは、三国峠と美深峠の二区間である。昭和60年代の三国峠は、頂上付近にはダート区間がかなりあり、沢伝いの細い道を大きくカーブしながら上った記憶がある。それが、今や十勝側頂上付近には長大な橋梁が架けられ、何ともすんなりと頂上に至ってしまう。もはや、かつての悪路を彷彿とさせるものは皆無に等しくなってしまった。
美深峠は、深い森林に囲まれた人造湖、朱鞠内湖近くを経て、幌加内町から美深町に至る峠だが、沿道は超のつく過疎地であり、かつては6月から10月までの間だけ通行可能、実に一年のうちの半分以上が通行止という区間であり、ある初夏に訪れた時の通過車両は20〜30分に一台程度と、実に閑散としたものだった。それが今や、冬季間も通行できるようになったが、冬はもとより、春から秋にかけても交通量は相変わらず少なく、果たして、通年開通させる必要があったのかどうか、疑問を抱かざる得ないところでもある。
このほかでは、毛無峠はヤマハが開発したキロロリゾートへのアクセス道路として欠かせぬ存在となった。釧勝峠は、工事予定線だった国道274号線が新追加国道となり、392号線からそちらへ編入され、冬季の閉鎖はなくなった。美深峠同様人跡疎らなところで、この道路の通年開通も疑問である。浮島峠とルクシ峠はトンネルによる新ルートへの付け替えにより、冬季間も快適な通行ができるようになった。全長3,332mの浮島トンネルは、39号線の層雲峡トンネル開通まで、国道トンネルとしては全国最長を誇った。
231号線の増毛町歩古丹〜大別苅間は、海岸沿いの断崖区間を行く難所だったが、トンネルを中心とした新ルートが完成し、冬でも通行可能となった。336号線の浦幌、豊頃町間は十勝川を渡し船で連絡するという、離島間以外では全国でも最後まで残った国道の渡船区間であり、川が結氷する期間は渡船の運休による通行止という、全国でも極めて稀な区間であったが、十勝河口橋の完成によりそれも昔話となった。
以上に述べたのは改良による冬季不通の解消区間だが、これだけにとどまらず在来国道の改良、改修工事は全道いたるところで進められており、十年前とでは見違えるほど立派な道路となっている路線、区間は枚挙に暇がなく、さらには未開通だった国道236号線の野塚峠(浦河、広尾町間)や、積丹半島を一周する国道229号線も平成に入って完成している。これらの道路整備は、一部にはその効果に疑問ありの区間があるにせよ、道民の生活向上に大きく貢献したことは疑いがない。道民にとっては、道路特定財源様々である。
高速道路も、平成に入ってからだけでも、道央道が南は長万部、北は和寒まで伸び、深川留萌道が深川JCT〜秩父別間、道東道が千歳恵庭JCT〜夕張間と十勝清水〜池田間、日高道が苫小牧東〜厚真間で開通し、さらに工事中の区間も含めると、その延長は膨大な距離に及ぶ。それらの中には、峠越え区間があり、高規格な自動車専用道路の開通が嘱望される区間もある。しかし一方で、並行する国道の道路形状も比較的よく、交通量も飽和状態には程遠いようなところで建設が進められている路線もあり、地元からでさえ
「税金の無駄遣い」
「キツネやタヌキしか通らないような道路に多額の税金を注ぎ込んで、その尻拭いは誰がするのか」
という手厳しい指摘もある。こうなると、道路特定財源見直しもまた必要なり、との認識に至らざるを得ない。
高速道路に限った話ではない。北海道の農村地帯に行くと、必ずといっていいほど、大規模な「農道」の存在を目にする。幹線筋には国道や道道が整備されているにもかかわらず、それらと遜色ない立派な道が、無人の畑地や牧草地や山林を貫いている。さすがに国道ほどまめな改修工事は行われないらしく、中には路面などが相当に傷んだ路線も散見されるが、新規に整備されたり、大規模な改修を受けたりした路線では、国道より走りやすかったりもする。こういった農道の多くは、地元では抜け道的な使い方で認知されていることが多いが、本来の目的である農耕用車両とそれらを合わせても、一日の交通量は微々たるものであり、やはり「道路特定財源の無駄遣い」と指摘されてもいたしかたなさそうである。
さて、以上が北海道の話だが、これが本州や四国、九州に行くと、場所によっては道路整備の立ち遅れを実感することが往々にしてある。具体的な県名を挙げることは差し控えるが、四国九州の山間部や、中国地方日本海側の一部でそれは顕著である。国道とは名ばかりの、車両通行帯もないような道路がそこここにあったりする。バイパスの建設が進められているところもあるが、全面開通は果たしていつなのか、といったお寒い状況が大半で、二昔前か三昔前にタイムスリップしたような気分になること頻りである。筆者がそういった地方を車で旅した回数は限られているが、そうした中でかような区間と度々遭遇するのであるから、北海道と比較し、いかに道路整備が立ち遅れているかが察せられる。
結論だが、道路特定財源の見直しに当たっては、そのような地域格差をできるだけ縮小することを前提に財源の配布を行うことを第一とし、未整備が目立つところには従来通りかそれ以上に予算を振り、すでに整備が一巡したと思われる、例えば北海道のようなところへの予算は減らし、その減額分を他の目的に回すといった手法を取ってはどうだろうか。減らされるところに縁の族議員からの抵抗はあろうが、これなら、道路未整備を訴える地方自治体にも依存はなかろう。ただしそれを際限なく認めるとなると、五月雨的に道路未整備を陳情する自治体が出てくるとも限らず、公正な目での精査が大切になることは言うまでもないが。
長かった冬が終わり、北海道はまさにドライブシーズンたけなわである。整備の行き届いた快適な道を走れるのは、道路特定財源のおかげでもあるが、その快適さを享受する権利は北海道民のみならず、納税者全般に公平であるべきである。財源の使途見直しとともに、できる限りの全国での公平な道路整備が行われるよう、願ってやまない。(完)
さて、もう間もなく“夏”がやって来ますね。私にとっては、夏は北海道移住を果たした季節であり、その夏(1994年、平成6年)から数えて、早くもこれで八度目の夏。そう考えると、北海道に移ってからだけで、そんな回数もの夏があったのか、と思ってしまいます。
なにぶん過ぎた日々を振り返るのは性分に合わないので、いつの夏がどんなであったかなど、正確には記憶していませんが、夏の度に迎えることになる誕生日(7月29日)で、ついに三十代も後半に突入ということだけは、否定のしようがない事実。とは言うものの年齢を一つ重ねたからといって、何かが大きく変わるわけではなし…(そんなことを、十代の頃から唱え続けている気がしなくもないのですが)次回は、そんな北海道の夏が終わりつつある頃に、お届けできたらと思っていますが、何分執筆、そして就労ともにかなり気まぐれな状態であり、確約はしかねるところでもあり…それでは、また!