新年を迎えたと思いきや、はや2月も半ば過ぎ。時が経つのは、実に早いものですね。
いよいよ、21世紀に突入したわけですが、ミレニアム、Y2Kと何かと騒がしかった一昨年から昨年にかけての年越しと比べると、昨年から今年にかけては、何だか静かな年越しだったように思いませんか?
まあ、そういう印象だったのは、私自身の年越しの過ごし方と関係しているのは間違いのないところで、30日までは仕事をし、大晦日は夕方までかかって部屋と車の大掃除をし、食料を買い込み、特上馬刺しや牛タンの陶板焼き、豚汁仕立ての雑煮、年越しそばなどをすすりつつ、これまで手を付けられずにいた年賀状を書くうち、呆気なく0時を迎えてしまったのでした。一昨年から昨年にかけては、大通公園でのカウントダウンイベントに参加し、大勢でカウントダウンしつつ新年を迎えたのと比べれば、まことに地味な年越しの瞬間だったのでした。しかしながら、世間のかなりの数の人が、大同小異の年越しだったようにも思え、世間の喧騒などと無縁の年越しというのが、あながち悪かったとは思えずにいるこの頃ではあります。
そんな事情で年賀状が遅れたことを、この場を借りておわびいたします。皆様は、どんな年越しだったのでしょうか?明けて元旦は、道内は大荒れの天候。とりあえず、どこかへ行こうかと考えていたものの、この日は見合わせ、2日朝、道東を目指して札幌を出発しました。札幌は穏やかな晴天だったものの、空知地方は吹雪混じりの雪模様、上川で晴れたものの、北見峠は再び雪模様。しかし、オホーツク海側は穏やかで積雪も少なく、網走管内の走りは快適なもの。しかし寒さは半端ではなく、やはり道東をなめてはいけません。この日は端野町の温泉「のんたの湯」に立ち寄り入浴し、網走の行きつけの焼肉店で飲食の後、車中泊。明け方の最低気温は氷点下10℃を下回ったらしく、車内の水も麦茶も凍っているという有り様。早々に、冬の洗礼を受けた旅の一晩目でした。
翌3日昼は、網走市内の某回転寿司店へ。回転寿司とて侮ることなかれ、ここは、ネタの良さで知られる、管内では知る人ぞ知る名店。ウニ、カニミソといった高級品からベーシックなネタまでたらふく食べ、満腹の後、道道網走川湯線を経て屈斜路湖畔へ。ここでの楽しみは、何と言っても湖岸の無料露天風呂。もちろん車中泊に備えて食糧持参で望み、和琴の露天風呂へ。ここで驚いたのは、バイクと自転車でやって来て、キャンプをしている輩がいたこと。いくら積雪そのものは少ない道東地方とはいえ、車での移動でも冷や冷やすること頻りのこの時季に、あまりと言えば無謀なのでは…というのが正直な印象でした。
4日は、屈斜路湖を後にし、阿寒横断道路を抜けて十勝へ。新得町のトムラウシ温泉の一軒宿、東大雪荘は、前号の湯めぐり紀行でも紹介しましたが、今回は宿泊をすることに。ほぼ満室と思われる盛況ぶりには驚きましたが、到着から出発まで、回数など忘れるほどに温泉に入りまくり、渓流沿いの真冬の露天風呂を、心ゆくまで楽しんだのでした。
そして札幌に戻って、6日夜、本州目指して青春18きっぷを使って列車の旅へ出発。長期間、広範囲にわたる旅ゆえ、ここでその全容に触れる余裕はありませんが、その一部は本文中、新春特別企画として取り上げましたので、どうぞご期待下さい。
第1回 薩南の温泉めぐり
九州は、北海道と肩を並べる温泉の宝庫であることは、どなたもご存知であろう。殊に南九州は、温泉の密度では全国屈指の一帯で、著名、無名を問うことなく無数と言うに値する数の温泉がそこここに湧いており、温泉めぐり旅をする者には嬉しい場所でもある。今回はそんな南九州、薩南地方の温泉を幾つか紹介しようと思う。
鹿児島の玄関口、西鹿児島駅から、指宿枕崎線に乗り込む。ひとしきり市街地を走った後、錦江湾沿いに出ると、対岸には大隅半島が伸び、来た方向を振り向けば桜島の姿がある。この角度からだと、噴煙を上げる南岳の姿がはっきりと望める。どこか日本離れした、雄大な風景に見入ることしきりである。
列車はやがて、天然砂蒸しで著名な指宿の市街地へと滑り込む。かつては、ハネムーンのメッカと言われたこともあったここ指宿だが、海外旅行が当たり前となった今、敢てここを新婚旅行の地に選ぶカップルが、果たして存在するのであろか。列車の乗客も高校生が大半で、観光客らしき姿は数組の老人グループのみである。仮にここをハネムーンで訪れるカップルがいたとしても、交通手段は当然車で、列車に乗るものなど皆無、ということであろうか。
指宿を出て大きく右カーブを切った列車は、カツオ漁の基地として知られる山川に停車する。指宿から乗った東南アジア系と思われる外国人数人が下車する。フィリピンかインドネシアあたりの漁船員であろうか。北海道の港町でロシア人を当たり前に見かけるように、九州の港町では、アジア系の船員の姿はどこでも見られるのかもしれない。中央とは別個の国際化は、全国で進行中のようである。
山川駅前には、「日本最南端の有人駅」の碑が立っている。かつては“有人”の文字がなく、このあと登場する西大山駅とが、二つの日本最南端駅を名乗っていた時期があった。時の国鉄山川駅は、「駅舎のある駅を最南端駅とするのが正しい」などと、屁理屈にもならない理屈でお茶を濁そうとして、識者の失笑を買ったりしたものだが、それも過去の笑い話となった。
山川から先は錦江湾に背を向け、進路を西に取る。沿線は畑作地帯となり、シラス台地特有の灰色っぽい土壌の畠が続く。行く手には「薩摩富士」の異名を持つ開聞岳の姿が見えてくる。小集落の駅大山を過ぎると、次が日本最南端駅西大山で、ここで下車する。片側ホーム一面のみ、駅舎はおろか待合室すらない無人駅で、周囲も一面の畠、民家は見当たらず、漬物工場が一軒あるのみという寂しいところである。しかし「日本最南端の駅 北緯31度11分」の碑と、目前にそびえ立つ開聞岳をバックに、気動車がエンジンの唸りとともに遠ざかって行く姿は、実に絵になる。この日はやや風があるものの、穏やかな晴天に恵まれ、ホームの柱に取り付けられた寒暖計は16℃を指している。ほんの数日前、一面の雪に閉ざされた北海道から旅立った身には、何とも穏やか過ぎる昼下がりである。
西大山から国道を1キロほど西へ歩くと、山川町から開聞町へと入る。薩摩川尻駅を手掛かりに左に折れ、畠の中を海岸を目指して進む。時季的な関係もあるのだろうが、そら豆やえんどう豆など、豆類の作物が目につく。国道から30分ほど歩くと、川尻の集落へ辿り着く。道端のおばちゃんたちが交わしている言葉は、ほとんど意味不明である。方言の難解さでは、東の津軽、西の薩摩とよく言われるが、この一帯はそんな中でも特に難解とされる頴娃(えい)弁であるから、聞き耳を立てたところでわかろう筈がない。日本と地続きの異国に迷い込んだような心持ちである。
そんな川尻集落の東外れ近くの海岸に、町営の国民宿舎「かいもん荘」が建っている。昭和30年代築という鉄筋三階建ての建物はややくたびれた印象は拭えないが、館内は清潔に保たれており、何よりも、眼前に開聞岳と東シナ海という絶好の立地が素晴らしい。
浴室は一階にあり、内風呂は洗い場と浴槽一つというシンプルなものだが、そこから石段を下りたところにある岩風呂の露天風呂が良い。椰子の木越しに見下ろす直下は海岸では波が砕け、右手に目を移せば開聞岳がそびえている。まさに南国ムード満点であり、日没時は海に沈み行く夕陽を見ながら、夜となれば、白く砕ける波頭と、月夜に浮かぶ開聞岳のシルエットを見上げながら、と、実に贅沢な温泉浴が満喫できる。それでいて宿泊は一泊二食付き六千八百五十円からと格安で、日帰り入浴も三百円という手頃さである。
お湯は三本の源泉から引かれており、単純泉一本と塩化物泉二本をミックスしている。塩化物泉の湯量が多いようで、浴槽は黄濁した色になっている。そんな見通しの効かない湯の中に、露天風呂では石の出っ張りがあったりするのには参るが、そんなことも忘れさせてくれるくらい眺めが良いのだから、それも許してしまうことにしよう。泊まりでも日帰りでも、存分に楽しめる、薩南のイチ押し温泉である。
再び指宿枕崎線に乗り、終点の枕崎を目指す。枕崎市は山川とならんでカツオ漁業の基地港とし知られる街だが、ここにも温泉があるので、立ち寄りたい。その「枕崎なぎさ温泉」は、市街地東外れの海岸を望む高台に位置しており、駅でいうと、枕崎と一つ手前の薩摩板敷の、ほぼ中間地点あたりにある。民営の日帰り温泉だが、付属して温水プールやゴルフ練習場もある。
入浴料は三百三十円と手頃でありながら、施設は極めて充実している。内風呂は大浴槽に電気風呂、打たせ湯、サウナを備え、檜浴槽の露天風呂からは、枕崎港と火の神岬、東シナ海を一望にでき、晴れていれば、沖合に浮かぶ竹島、硫黄島、黒島の島影、さらには、海に沈み行く夕陽までもが望める。お湯は単純泉だが、やや黄色みを帯びている。温浴効果はもとより、眺望が何よりも楽しみの温泉である。
さらには漁師町だけあり、朝6時から営業しているというのも嬉しい。館内には無料の休憩室と、ラーメン、ちゃんぽんを中心としたメニューの食堂もあり、一日を通して楽しめる施設である。
次は、指宿枕崎線を折り返し、鹿児島港から桜島へと歩を進めよう。この桜島航路は、朝夕は5分間隔、日中は10分から15分間隔、深夜から早朝にかけても30分間隔で運航されている24時間航路である。旅客運賃片道百五十円、所要時間は10分で、地元の人々は、国電や路線バスのような感覚で利用しているようだ。恐らくは日本中でも、もっとも気軽に利用されている航路ではないだろうか。
桜島港のすぐ脇まで、溶岩流が海岸に流れ込んでいる。と言うよりは、溶岩流を切り開いて港がつくられたということなのであろう。ここは、火山とともに生きる島なのである。ただし島と言っても、大正の大噴火により、現在は垂水側が大隅半島と地続きになっているが。
港から町営バスで北岸へ進むと、火山岩避けのコンクリートシェルターを随所で見かけるほか、ほぼ集落ごとに現れる避難港の存在に目が引かれる。噴火により道路が寸断された際、船により脱出するためのものだが、改めて火山の島であることを痛感する。
15分ほど走ると、「さくらじま白浜温泉センター」に着く。町営の日帰り温泉で、入浴料は三百円。大きく窓を取った明るい浴室は解放感があり、錦江湾を望むことができる。浴槽には黄濁したナトリウム泉のしょっぱい湯が溢れている。サウナ、露天風呂もあり、露天風呂には泥湯用の桜島の火山灰も用意されている。泥湯は美肌効果があるとされ、女性にはお勧めである。低料金ながら充実の設備内容である。
フロント前のロビーにはソファーのある休憩コーナーがあり、この他に和室の有料休憩室(半日五百二十円)もある。一部ガイドブックによれば食堂もあると書かれているが、現在は営業しておらず、また付近にも食事ができるような店はないので、その点には注意を。
また、港近くには、レインボー桜島、桜島荘の二軒の宿泊施設があり、それぞれ三百円、二百円と手軽な料金で日帰り温泉入浴が楽しめる。さらに鹿児島市街に戻っても、温泉街こそ形成されていないが、天然温泉の銭湯、温泉施設が市内随所にあり、その多くが朝から営業している。県庁所在都市でありながら、列車から降りたらその足で温泉へ、ということが可能なのは、全国でも鹿児島と鳥取くらいではないだろうか。南国薩摩は温泉天国。温泉好きは、避けては通れないないところである。(完)
枕崎のカツオ料理に舌鼓
薩摩半島の南、東シナ海を望む港町、枕崎。人口2万8千人の漁業の町は、全国でも屈指のカツオの水揚げを誇り、鰹節の町としても名高い。そんな町の郷土料理といえば、やはりカツオ料理である。
冷凍技術の発達により、カツオのタタキは、一年中どこでも味わえるものとなったが、本場はやはり一味違う。焼きたてで、まだ外側がパリパリしたものをニンニクとショウガを効かせたポン酢でいただくのは、水揚げ港ならではの味わいである。
もちろん、当地ならではの料理を味わぬままに立ち去るわけにはいくまい。目指すのは枕崎駅にほど近い「魚処なにわ」である。駅前広場から右方向に向かうと、程なく黄色い看板が目印の店へ辿り着く。
ここの名物はカツオの「ビンタ料理」である。ビンタとは、当地で頭(かしら)を指し、すなわちカツオのお頭料理のことである。マグロのカブト焼きは、三崎や焼津の郷土料理として知られているが、ここのビンタ料理は、カツオのお頭を味噌味で煮付けたものである。
中ぶりのカツオであれば、その頭は人の拳大程度であろうが、ここのビンタは、拳二つ分はあろうという大ぶりのものが出される。その大きさに圧倒されながら箸をつける。何しろ頭であるから、食べられる肉の部分は限られており、皮と格闘しながら食べられる部分を探すことにはなるが、やや固めの頭肉と味噌味のマッチングは最高で、酒ないし飯が進むこと請け合いである。かまの中にある心臓のことを、この地方では「ちんこ」と呼ぶそうだが、絶妙な歯応えの珍味である。
目玉のゼラチン質もまた良い。青魚はDHAを多量に含んでいるとされ、美味しいはかりでなく健康食でもあるというから、水揚げ港ならではの味わいに、大満悦である。
ここ「なにわ」では、このビンタの定食が千五百円で味わえる。ビンタのほか、タタキ、塩辛、ワタの湯引きの酢味噌あえ、腹皮の塩焼きなどが付き、とても千五百円とは思えぬ品数とボリュームである。特に腹皮の塩焼きは、脂ののった格別の味で、ビンタほどの派手さこそないが、当地ならではの味わいとして外すことはできまい。御当地ならではのカツオ尽くし料理、是非一度おためしあれ、である。(完)
第六回 静岡県、御前崎を訪ねる
「岬めぐりのバスは走る…」そんなフレーズの歌もあるが、私が御前崎を初めて訪ねたのは、今を去ることおよそ20年も前の、中学生時代のことである。車はもとより、単車さえも運転できる年齢には達しておらず、まさにこのフレーズ通り、バスに揺られての岬探訪であった。
この時の旅は、5月の連休を利用したもので、金谷、浜名湖のユースホステルに一泊づつして、三泊目を御前崎のユースホステルに記す計画だった。浜名湖からは東海道線で菊川に至り、そこから一時間強のバスに揺られての道程だった。
しかし、このルートのバスは、国道150号線の一本内陸を通る県道を経由するのだが、途中いかにも海岸にありがちの松林などを望むことはあっても、終点の御前崎車庫まで、ついぞ海を望むことのないままに至ってしまう。そこから歩いて数分のところにあるユースホステルも、台地状を成す岬の畠に囲まれた中にあり、海を見たのは、明くる朝になってからのことであった。
台地状の岬の突端には白亜の灯台がそびえ、眼前には駿河湾と遠州灘が広がっていた。沖合一帯は岩礁地帯で、ところどころで波が白く砕けていた。古くから海難の多発地帯として知られ、灯台の役目も絶大なものであるというのも頷けた。
駿河湾側には広い砂浜があり、夏には海水浴場として賑わうという。遠州灘側にも砂浜が続いており、こちらは波が荒く水深も急に深くなることから海水浴場にはなっていないが、夏を先取りしたサーファーの姿が多く見られた。一帯は、アカウミガメの産卵地としても知られているという。
海岸から台地上に上がると、野菜を栽培する砂地状の畠が広がり、一転してのどかな雰囲気となる。三方を海に囲まれ、その台地上はのどかな畠、という取り合わせはどことなく好感を覚え、それから高校生時代の数年間、横浜から足げよく通うことになる。
ルートとしては、東海道線で静岡へ至り、駅前から特急バス御前崎サンホテル行というのをよく利用した。静岡インターから吉田インターまで東名を走り、相良あたりからは駿河湾沿いに走るのがよかった。終点の御前崎サンホテルは、灯台の直下にあり、海外のリゾートホテル風の洒落た建物なのも心くすぐられた。そこから灯台へ続く階段を上り、台地上のユースホステルを目指す道も、短い旅の一幕として、なかなか心動かされるものであった。
そんな日々から数年が経過し、運転免許を所得し初めてのドライブに訪れたのも、この御前崎だった。清水駅でレンタカーを借り、三保、焼津を経て県最南端の岬へ。今思えばヒヤヒヤの連続だったようにも思うが、それも誰もが通る道程である。無事車を返却した後、村さ来で痛飲してから東海道線で帰途に就いたものである。しかしこの時以来、バスという公共交通に頼らずして岬に至れるようになったということは、自身にとって大きな転機であったことは疑いのないところである。
さらに月日は流れ、横浜での運送会社勤務時代、愛知や三重方面の仕事帰りの折、寄り道をして御前崎に立ち寄ったことが数回あったが、その後に北海道に渡ってからは、すっかりり遠いところになってしまった感があった。しかし数年前、北海道から愛車をフェリーに積んで新潟へ上陸、遥か鹿児島まで足を運んだ帰り道、久しぶりに御前崎を訪ねる機会に恵まれた。
浜松を過ぎた頃に日没を迎え、真っ暗な中の岬めぐりとなったが、数回にわたり自らの運転で訪ねているのだから、苦になる道程ではない。やがて150号線から海岸道路へ出ると、しばらくして灯台の光貌が視野に入った。この夜は、サンホテル前の駐車場に車を止め、車中泊。ホテル前とはいえ、そこは町営の無料駐車場。観光地然とした気取りなど全くない岬との再会に、嬉しいやらほっとするやら。若き日にここに心惹かれたのも、そんな気取りの無さゆえだったのかも、と思いを新たにする。
明くる朝、駐車場には地元の人々が集い、清掃奉仕を行っている。町営だからと町に任せっきりにはせず、住民の手できれいに、という姿勢はすばらしい。ハード面のみならずソフト面でも、やはりここはいいところだと思った。
日もだいぶ高くなった頃、遠州灘方向へ戻ってみる。断崖上に建つ国民宿舎近くには、潮騒の女神をモチーフしたという「潮騒の象」があり、その直下の町営駐車場でも清掃活動が。しかし、悲しいがな付近の海岸は、侵食により砂浜は姿を消し、岩礁を覗かせるだけの哀れな姿に。全国で進行中という海岸食の原因は、ダム建設による流砂の減少など様々な原因が取り沙太されてはいるものの、ここのように二十年そこそこでこれだけ急激に侵食が進むというのも何か腑に落ちないものが。アカウミガメの産卵地の面影や如何に…
しかし、ここの駐車場には、こんこんと湧き出す湧水が。海岸からわずか数メーターしか離れていないところに湧き出す真水。これが地球の持てる不思議とパワーなれば、ここに優美な海岸が復活することも、あながち夢ではないようにも思えてくる。そんなことを思いながら、久々に訪ねた岬をあとにしたのであった…(完)
(このシリーズは、不定期で掲載します)
第一回 札幌駅前から中心街を歩く(後編)
買い物客で賑わう駅前通をさらに南下すると、通称ススキノ交差点で南4条通と交差する。市電の終点にあたるすすきの停留所があり、ここより南側、おおよそ南7条通までが俗に「ススキノ」と称される一帯である。東京、歌舞伎町以北ではの歓楽街であり、夕刻ともなれば色とりどりのネオンサインの洪水となる。
しかし昼時にここを歩くと、夜の賑やかさとは裏腹に、行き交う人も疎らで、街頭に立つポン引きの姿ばかりが目立つ。その点が、昼夜を問わず人波が途絶えることのない東京や大阪の繁華街とは大きく異なる。都市規模の違いと言ってしまえばそれまでだが、冷静な目で見るともう一つ特徴的なことがある。それは、ほとんどと言って子供の姿を見かけないことである。
もちろん、街を歩けば、ビルの谷間に昔ながらの蔵を改造した料理店があったり、とてつもなく広い敷地の邸宅があったりと、昭和のはじめ頃、この街はこんな風情であった、と彷彿させるような建物はそこここに見られる。南6条西4丁目には、上層階が共同住宅となったススキノ市場があり、庶民の街といった風情も感じられる。しかし、そこから一歩離れてしまうと、“生活の匂い”が感じられない街であることは否定のしようがない。なぜ、こんなことになってしまったのであろう。
都市部のドーナツ化現象は、昭和五十年代以降加速度的に全国に広がり、ここ札幌でも、その影響は中央区都心部の夜間人口の激減、幼稚園、小中学校の児童、生徒の減少からも明らかである。最大の要因はそこにあることは否定のしようがないが、もう一つ、バブル時代の地上げによる街の空洞化という側面も見過ごしてはならないように思える。
南4条、5条あたりまでは、ビル街ということもあってさして目立ちはしないが、これが南6条以南まで足を進めると、実に多くの駐車場や空地が点在している。或いは、地上げ中途で放置されたままと思しき、廃ビルや廃アパートの姿もある。バブルに踊らされた結果、古くからの住民のかなりが立ち去り、その結果残されたのが今のススキノの街…そう考えれば、街中で子供の姿を見かけないのも、半ば当然と言えはしまいか。バブルドリームの後に残ったのは、生活感の感じられない、乾いたネオンサインだけの街…悲しいがな、それがススキノのという街の現在の姿である。
さらにススキノの風紀を著しく害しているのが、“ポーター”と呼ばれるポン引きの存在である。その総数百名とも百五十名とも言われるが、昼夜を問わず、ススキノを歩けば必ずといって連中に声を掛けられる。ススキノに通じた地元の人間なら、最初から無視するのだが、札幌外、特に道外から来た観光客や出張客は、つい話を聞いてしまい、結果“ぼったくり”の被害にあうことになる。
特に最近では、連中の手口も巧妙化しており、ひどい手合いになると、観光協会職員を騙るニセの名刺を渡し、まず信用させるという。そして、最初はラーメン横丁といった観光名所に案内し、そこから出てくるのを待ち受けていて、“プレイスポット”へと誘いをかけるというのだ。その手口はというと…
「今、ススキノではぼったくりの被害が大変多くて…私どもの推薦するこの店なら、飲み放題で×千円、明朗会計で安心です…」
といった誘い文句で店まで連れて行くと、そこでポーターはドロン。そして、言われた金額を支払って席に案内されると、ホステスが付くなり、
「さっき払ったのは入店料。スペシャルサービスを受けたかったら、あと一万円、二万円出せば、奥の部屋でサービスが受けられるコースもあるんだけど…」
といった具合で、次々に吹っかけられるという次第。スペシャルサービスがどのような内容なのかは筆者の知るところではないが、恐らくは優良風俗店でなら、大枚でお釣りの来る程度か、それ以下のものと思われる。
また、別の手口では、某タウン情報や某満足ニュースといった風俗情報誌を片手に、
「お客さん、お店はお決まりですか…」
と声を掛け、反応があったとみるや、
「今、電話で込み具合を確認しますから…」
と言って携帯から、さもその店に電話をしているような素振りをする。無論実際には、店へなど電話はしていないのであるが。そして、
「お客さん、その店は今込み合っていて、一時間以上待ち時間があるんですよ。よかったら、姉妹店の方へご案内します。そちらなら、すぐにご案内できますので…」
といった具合に、ぼったくり店に連れて行く。その後は、前のケースと同じ、といった感じである。
むろん、ポーター被害は、今に始まったことではない。遥か昔から、ススキノのポーターはしつこく、一度食らいついたらとことん放さない、とその道の通に
は知られていた。しかし、昭和60年代はじめ、官民一体となっての「ススキノクリーン」なる浄化運動が展開され、街頭からポーターの姿が消えた時期もあった。これには観光客はもとより、地元民からも大いに歓迎の声が上がったものだが、間もなく訪れたバブル経済で、金に糸目をつけぬ風潮が蔓延すると、いつしかポーター達も街頭に舞い戻っていた。そしてバブル崩壊。景気が急速に悪化すれば、ポーターも消えるものと思いきや、むしろバブル時代よりも数を増やす始末。これは、バブル崩壊で職にあぶれた層、特にススキノの飲食店関係の仕事に従事していた若年層が、そのままポーター化したことが原因のよう。然るに現在のススキノは、石を投げればポーターに当たる、というような現状になってしまったのである。
しかしここへ来て、地元や警察も、ようやくポーター対策に本腰を入れはじめた。地元商店会では、ポーターに対する注意書きの立て看板を随所に設置したほか、街頭宣伝カーでの呼びかけをはじめた。その内容は、
「客引きの連れて行く店は、全てぼったくり店です。街頭での客引きは、一切無視しましょう」
といった、思い切ったものである。また警察も、ぼったくり被害の届け出増加を受け、現状では金銭の支払いに際して威圧的な強要や、実際の暴力行為がなければ取り締まれない現行法から、東京都が一部繁華街を対象に実施し、効果を上げているとされる「ぼったくり防止条令」の制定に向け、本格的に取り組み出したという。
むろんこういった問題は、最終的には個々の心構えの問題が大きく、最も大事なのは、ポーターの誘いには一切乗らない、ということではある。しかし、観光都市であり商業都市である札幌は、外からやって来る人間を常に迎え入れているのだから、そういった謂わば“無知”な人間に付け込んでぼったくりを働くということは、許されまじき行為であり、法的な取り締まりも、導入されて然り、であろう。さらに、ススキノの数ある飲食店、風俗店の中で、ぼったくり店はほんの氷山の一角に過ぎない。わずかな数のそれらの店のために、ススキノ、ひいては札幌という街そのものが危険な所という悪印象を持たれてしまっては、市民としても忿懣やるかたない思いである。
しかし振り返れば、昭和60年代には実を結んだ浄化運動が、最近ではなぜ表立って行われなかったのであろうか。思い当たるとすれば、バブルの後遺症である。バブル期の地上げにより、ススキノ地区の古くからの住民のかなりの数が、ここを離れた。ゆえに住民の団結力が弱まった結果、本格的な浄化運動にまで盛り上がらないということではないのか。
バブルという時代は、街並みを変え、そればかりか住民の結束力までをも奪ってしまったのか。ポーターを無視しながら、駐車場や空地の目立つ南6、7条界隈まで歩くと、そんなことを思わずにはいられない。
だが最近になって、それまで駐車場や空地だったところに、マンション建設が始まったところもある。バブル崩壊から幾多の月日を経て、ようやくススキノは、新たな時代に向かって立ち上がりつつあるのか。しかし、それらマンションの新しい住民と、古くからの住民の融和が見られるとすれば、それはまだまだ先のことになりそうである。
札幌都心に近いがゆえ、バブルに大いに翻弄された街、ススキノ。華やかなネオンサインの裏に隠れがちな土地の人々の生活にも、時に目を向けてもらえれば幸いである。(完)
冒険と無謀の紙一重
北海道は本格的な冬、である。その冬であるにもかかわらず、今年は年明け、さらに2月になってからも道内を単車や自転車で旅している人間を見かけることがあり、驚愕の思いをさせられる。
彼らを、そのような旅へ駆り立てるものは何なのであろうか。察するに、本州とは大きく異なる寒冷積雪地の北海道の冬に単車や自転車を利用すれば、本格的な極地探検などと比べれば遥かに安上がりで、かつ、極地には及ばないながらも、雪と氷に閉ざされた土地での「冒険旅行」が、ややすれば手軽に楽しめるということではなかろうか。
しかし、極地などとは比ぶるべくもないが、北海道の冬は、本州の暖地とは比較にならないくらいに厳しいものである。一歩間違えば、冒険がとんだ無謀行為に早変わりしかねない。実際のところ彼らが、その危険性をどれだけ認識しているのか、甚だ疑問である。北に暮らす者として、敢て苦言を呈させてもらうとしよう。
まず、気候変化の急激さが上げられようか。それまで晴れや曇りだった天候が、微地形の変化により、突然雪になったり、突風により地吹雪になったりすることがままある。特に厄介なのが地吹雪で、これは積もった雪が下から舞い上げられるため、瞬間的に視界ゼロメーターに陥ることもままあるものである。天候そのものの変化の場合、ある程度予兆めいたものがあったりもするが、地吹雪に関しては、空が晴れていようと曇っていようと突然のように発生することがあり、予兆をとらえるのは限りなく難しい。筆者自身、数年前、日本海沿岸の国道232号線を運転中、羽幌から初山別にかけて、突如視界数メーターという状況に陥り、時速20キロにも満たない速度での走行を余儀なくされ、おおいに肝を冷やしたことがあった。いくら速度を落としていようと、方向感覚を失って対向車線にはみ出せば大事故につながりかねないし、或いは対向車がこちらにはみ出してきてもアウトである。それでも走行ができるような状態ならまだましで、今月のはじめ、やはり道北の国道232号線や40号線で、猛地吹雪のため車十数台が身動きできなくなり、開発局の除雪車に救出され、最寄りの公民館などに避難するという騒ぎがあった。これらの国道や、周辺の道道数本が、その後数日間にわたって通行止めになったという大荒れの天候だったのだが、走り慣れた地元の運転者さえもが立ち往生するという状況下に、仮に土地勘ゼロの単車や自転車が巻き込まれていたらどうなっていたことか。想像するだに恐ろしい。いや、車だって、缶詰状態が長続きすれば、燃料が切れて暖を取ることができなくなり、閉じ込められた人間が凍死する事態にさえなりかねない。或いはエンジンを掛けたまま車内にいれば安全かというと、そうも言い切れず、雪で排気管が塞がれて一酸化炭素が車内に充満し、中毒死するという危険もある。ゆえに除雪車を使った救出作業まで行われるのであり、つくづく北海道の冬の厳しさが感じられるニュースではあった。
地吹雪に関しては、昨年、こんな事例もあった。道東の弟子屈町の道道で、摩周湖に向かっていた観光バスが、地吹雪の中作業中だった除雪車と衝突、運転手が死亡、乗客十数名が負傷したという事故である。現場は数キロに及ぶ直線道路で、運転手はこの道を通い慣れており、視界が効かないことを省みず相当の速度で走行した結果、除雪車の発見が遅れ、衝突に至ったというものだった。 この事例を裏返せば、観光バスを運転するようなプロドライバーでさえ、走り慣れた道では、視界不良であれ、記憶と勘に頼った運転をしている者がいるという事実が浮かび上がる。そんな場所に、方向感覚を失って右往左往する単車や自転車がいたとしたら…身の毛もよだつ思いである。
以上の事例は、ほぼ平野部と呼べる場所での話であるが、これが峠越えの道ともなれば、その峻烈さは筆後に尽きる。石北峠、日勝峠や知床峠といった北海道の代表的な峠は、標高およそ700メーターから800メーターに位置しているが、高緯度に位置する北海道では、それらの峠付近の気候は、本州の3、000メーター級の山岳に匹敵するという。事実、10月の声を聞けばいつ雪が降ってもおかしくはないし、雪によるチェーン規制や、最悪通行止めといった事態もおいおい発生する。秋の深まった頃、峠を目指す自転車を見かけたりすると、そういった注意を促したりもするのだが、平地までもが雪に覆われてからその姿を見かけても、ただ呆れるばかりで二の句もないのが正直なところだ。それはもはや、冒険の次元を遥かに超越した“無謀”の世界である。
筆者は、秋から翌春にかけて道内で遠出をする際、冬用のスタッドレス・タイヤに履き替えている期間も含め、タイヤチェーンを必ず持参する。圧雪アイスバーンの峠越えとなれば、どんな高性能タイヤであっても、チェーン装着による安心感には及ばないことを、経験上知っているからである。仮にどんなに天候がよかろうと、単車でそんな道を越えることなど限りなく不可能に近いだろうし、自転車に至っては無理と断言してよかろう。無知ゆえに恐怖よりも冒険心が先立つのはいたしかたないとしても、冬の北海道がどういうところかということを、何としても認識してもらいたいものである。
北海道の人々が、冬に対してどう構えているか、顕著に現れているのが、らず地方都市部で行われている小学校の集団登下校である。地方に行けば行くほど、通学距離が長くなることとも関係していようが、最大の目的は、天候の急変により、体力のない下級生が遭難することのないようにとの配慮である。また、旭川など道北地方の公立小学校では、朝の最低気温が氷点下20℃を下回ると、登校時間を一時間遅らせるという。少しでも気温が上がってからの登校を、という配慮である。暖地の人々には俄には信じられないかもしれないが、これらは全て事実であり、北海道の実態なのである。
さらに、これらはかなりレアなケースではあろうが、自宅から数百メーターしか離れていない居酒屋で飲食して自宅へ戻ろうとした人が、店を出た途端に猛吹雪に見舞われ、翌朝、遺体で発見されたという話や、自宅の敷地内にある納屋に物を取りにいった人が、そのまま戻らず、雪の中で遺体となって発見されたというような話もある。こんな話を聞かされもなお、あなたは、“無謀なる冒険”をしたいですか?
確かに何事もなく済めば、それはそれでよしかもしれないが、いざ事が起これば、それはその土地の人々に大迷惑を及ぼすことにもなる。今からおよそ十年ほど前、知床半島のウトロで、こんな“事件”があった。接岸していた流氷上にテントを張って野営していた札幌の学生三人組が、晩のうちに、流氷帯ごと風で沖に流されてしまったのである。幸い彼らは無線機を持っており、SOS通信を傍受したウトロのアマチュア無線家により警察に通報され、はじめは漁船による救出が試みられたが流氷に行く手を阻まれて断念し、最終的には海上保安庁のヘリにより救出されるという騒ぎにまで発展した。たまたまこの時、筆者はウトロに滞在していたのであるが、警察、漁業関係者、そして海上保安庁までが出動し、知らせを聞いてテレビ局までが駆けつける始末で、町中が上へ下への大騒ぎであった。三人組は関係機関でこってりと油をしぼられた後に放免となったらしいが、それに一日振り回された地元の人々はいい迷惑だったろう。このうち二人が道外の出身で、流氷の危うさを認識していないがゆえにこのような“暴挙”をやってのけたらしいが、もし無線機を持っていなかったら、或いは、無線を誰も聞き止めないままに無線機のバッテリーが上がっていたら、彼らはオホーツク海の藻屑と消えていたかもしれない。この一件は、全国版のニュースでも取り上げられたから、記憶している方もいるものと思われるが。
人ごとばかりではない。筆者自身も、年明け早々、十勝某所で、車のバッテリーが突然上がるというアクシデントに見舞われもした。前日まで全く異常なかったものが突然なので面食らい、寒さのせいかとも思ったが、これはバッテリーの不良ということでクレームでカタがついたからよかった。しかし、2月になって再び、十勝某所で氷点下30℃近くまで冷え込んだ朝、エンジンの起動不能という事態になった。バッテリーは交換したばかりで問題ないはずであるから、オイルを冬用の粘度の低いものに変えていなかったことが原因と思われた。事実、昼近くまで待ってようやく起動することができたのだが、このところ数年間の暖冬傾向にかまけて、オイルを冬用にすることなど頭から消し飛んでいたツケである。改めて、北海道の冬をなめてはいけないと、認識を新たにしたこの冬である。ともあれ、車での移動でさえ、時に肝を冷やすのが冬の北海道である。そんなところを単車や自転車で移動しようなど、まさに正気の沙汰ではない。冬には冬の流儀あり。呉々も“無謀”な企ては謹んでいただきたいものである。(完)
昨年暮れに発表された気象庁の長期予報によれば、北海道を含む北日本は、積雪は少なく、暖冬傾向…のはずが、蓋を開けてみれば、積雪は平年並み、気温は例年になく低く、実に冬らしい冬となったようで…これには、気象庁も面目丸潰れといったところでしょうか。
オホーツク沿岸では、1月上旬に早くも流氷が接岸、その一部は、根室海峡を越えて太平洋岸まで押し寄せ、道東太平洋岸の港でも、漁船が一時出漁できなくなるといった事態も。さらに流氷の影響ではないものの、留萌港や室蘭港でも低温のために港内が結氷し、フェリーの発着などに影響がてるといった状態。そして内陸部では、日本最北の不凍湖とされる支笏湖が、実に二十年数年ぶりに全面結氷。近くの洞爺湖でも、一部の湖面が結氷したとの報道が。そしてこのほど発表された三カ月予報は、春の訪れは遅く、雪解けもまた然り、といった内容。先々の天候予想など、それこそ「雲をつかむような話」なのかもしれませんが、今度ばかりは概ねいい線いきそうに思えます。
1月に出かけた本州方面でも、山陰、北陸地方で大雪。北陸地方に至っては、鉄道が無ダイヤ状態となっており、敦賀から先が北上不可能で、太平洋岸に戻らざるを得ませんでした。
しかし、局地的なドカ雪は別にしても、このところ続いていた暖冬傾向がおかしかったといえばおかしかったのであり、冬とはこういうもので然り、と考える
のが正しいとも思えます。それにしても、この冬の北海道は、寒い…次号は、暖かくなる頃にお届けできたら、と思います。寒い寒いと言いながらも、もう冬も半ばは過ぎました。少しづつ春めいてくるのを待つ、そんな季節へと、北海道は移ろいつつあるようです…