札幌発旅人通信 2001年秋 第11号

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 早いもので、北海道では今まさに、秋と冬が同居しているような季節となってしまいました。もはや紅葉は平野部でも完全に終わり、とは言ってもまだ根雪になるには一頻りの時間があり、雪が舞うこともあれば、カラリと晴れ上がる日もまたある、という微妙な季節感と表現すべきでしょうか。
 振り返れば、「酷暑」だった本州以南と比べ、何ともぱっとしなかった北海道の夏・・・7月は、雨やどんよりとした曇りの日が多く、いわゆる"えぞ梅雨"状態。むしろ、6月末の方が夏日続きで、いったい夏はどこへ行ってしまったのやら、といった感じでした。
 8月も半ば、本来であれば、北海道では秋風の吹き始める頃になって、ようやく夏らしい陽気が戻りました、札幌でもこの夏初めての真夏日か、と期待された日もありましたがが、あと一歩のところで夏日(29.1℃)止まり。気象記録的には26年ぶりに、札幌は真夏日なしのまま終わってしまいました。
 その後は、季節は秋へと真っ進ぐら。今年は初雪も早く、9月半ば過ぎには大雪、羊蹄山で冠雪を記録。10月を迎えると、紅葉は加速度的山から麓へと下り、11月半ばを過ぎた今、冒頭に述べたような感じとなっています。春から秋へと至るまでの北の季節感は、かくもはかないまでに足早なものなのです。
 それでは旅人通信、今号もお楽しみ下さい・・・

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 連載 北の湯めぐり

 第十回 釧路、根室管内の温泉を訪ねて

 

 道東地方内陸部は数多くの温泉で知られているが、太平洋沿岸は一転して温泉空白地帯で、著名温泉は皆無に等しい。しかし近年のボーリング技術の進歩により、各所に新しい温泉が誕生している。そして北方領土を望む海峡の町には、全国的にはあまり知られていないながらも、少なくはない数の温泉がある。今回は、それらの温泉を巡ってみることにしようか。

 道東太平洋岸を代表する街といえば、釧路であろう。かつては北洋漁業の前線基地として賑わい、また道内で生産される木材チップの集積地として、製紙工業の街としても栄えてきた。しかし、漁業の二百カイリ規制以後、北洋漁業は衰退の一途をたどり、製紙業も安価な輸入物に押されて低迷。近年では、東京との間の旅客フェリー航路も撤退し、このところ、あまり明るい話題は聞かれない釧路ではある。そんな中で、市内に待望の温泉が出たのは、市民には嬉しいニュースだったに違いない。
 その「山花温泉リフレ」は市域で言えば西端に近い山花地区にあり、釧路空港に近く、隣接する阿寒町に跨る釧路市動物園のすぐ近くに位置している。このため帯広方面から車を進める場合、市街地に入ってしまっては大変な遠回りとなる。国道38号線からは大楽毛(おたのしけ)で240号線に左折し、釧路空港手前で鶴居村方面へ右折し、釧路市動物園を目標に進むといい。立地としては、釧路市内とはいえ完全に郊外であり、釧路市と結びつけて考えるより、釧路郊外の温泉、と思うのが無難なところか。農水省提唱の「リフレッシュビレッジ構想」全国第一号施設、釧路市農村年交流センターの中核施設であり、「釧路型薬膳料理」を前面に打ち出した宿泊兼日帰り温泉施設である。
 日帰り入浴料金は六百円で、吹き抜けで広々としたロビーから浴室へと向かうと、これまた広々とした休憩室があり、ここには軽食コーナーも併設されている。浴室もまた広々としているのだが、特徴的なのはその強烈な匂いである。泉質はナトリウム・カルシウム−塩化物強塩泉で、ナトリウム系の泉質の湯は、ややすれば薬のような匂いのものがままあるが、ここの湯はさらに強烈で、あたかもプールの消毒に使われるカルキそのものといった匂いが浴室中に満ちている。脱衣所から浴室へ通じる扉を入った途端、小学校時代よく通った実家近くの市営プールを思い出してしまったほどである。
 イコール、それだけ成分が濃い湯であるということで、効能は大いに期待されるところであり、特に女性には、美肌効果抜群と言えそうである。但しそれゆえに湯中りもしやすいと考えられるので、過度の長湯には注意したいところである。浴室設備は、露天風呂にサウナ、打たせ湯など一般に考え得る一通りの設備を備え、ボディソープとシャンプーも備えられ、六百円の日帰り料金もあながち高いとは言えない。但し内陸の阿寒や釧路湿原方面へ足を進めれば、ここより廉価な日帰り温泉施設が数多くあるので、果たしてこの料金設定が妥当かどうかは、安易には断じ兼ねるのが正直なところではある。
 宿泊は一泊二食付きで八千二百円からとなっている。先にも述べたように釧路市街地からは隔てられた場所であり、鉄道を利用した旅行には向かないが、空港には近い立地であり、釧路空港への発着便利用の際には利用価値がありそうである。

 釧路市から国道44号線をさらに東へと進む。丘陵地帯の原生林を縫って進み、厚岸で鮮やかな太平洋を見るものの、再び丘陵地帯へと入り、やがて釧路管内最東端に位置する浜中町へと至る。浜中町は、ラムサール条約登録湿原の霧多布湿原を始めとする湿原と、そこに群生する数多くの湿生植物群で知られる町で、町域の大半が湿原と原生林、そして放牧地という、北海道らしいと言ってしまえばそれまでだが、豊かな自然に恵まれたところである。
 国道は内陸部を通っていて特段目を見張るような景勝区間はないが、厚岸からほぼ海岸伝いに伸びている道道別海厚岸線は素晴らしい景勝道路である。断崖をなす海岸に突き出す大小の岬を縫うように、時に雄大な太平洋と沖に浮かぶ小島を見て、そして時には原生林の中を、アップダウンを繰り返して進む。この一帯の太平洋岸は、夏は濃霧に閉ざされることが多いが、秋から翌春にかけては晴天の日が多く、特に冬場、薄っすらと積もった雪と紺碧の太平洋のコントラストは、見事と言うほかない。
 町の玄関口とも言うべきJR浜中駅から道道別海厚岸線を海に向かい、海岸にぶつかったところからは左に浜中湾、右には霧多布湿原を見て南下する。左前方に見えていた霧多布岬の先端は断崖状を成しているが、その手前の平坦な部分に、浜中の中心街、霧多布市街が広がっている。霧多布大橋を渡って街に入ると、メインストリートにはこざっぱりとした商店街が形成され、海岸には水産加工工場が建ち並んでいる。北海道さいはてに近い小さな岬とはにわかには思えぬ、なかなかの賑わいようである。
 その霧多布市街から南へ小さな湾を描くように突き出しているのがアゼチ岬で、その付け根にあたる湯沸山の一角に、町営日帰り温泉施設「浜中町ふれあい交流・保養センター ゆうゆ」がある。高台に位置しているのでその眺望の素晴らしさは素晴らしく、眼下には真っ青な海と広大な湿原が展開する。五百円の入浴料を支払って館内へ入ると、ロビー、そしてそこからやや下がったリラクゼーションスペースにも大きなガラス窓が取られ、さらに一段高くなった大広間からも、海と湿原の雄大な眺望が楽しめるようになっている。
 浴室からも勿論、同様の眺望が楽しめる。お勧めは何といっても露天風呂で、潮風を受けて入る一時は至福ものである。泉質はナトリウム−塩化物泉で、34.4℃のものを浴用加熱して使用している。やや黄色みを帯びだ湯だが、塩化物泉なのに全くしょっぱさはない。タイプの異なる二つの浴室が用意され、一方にはドライサウナ、もう一方にはミストサウナがあり、男女別を交替で使用しているとのこと。近年はこのスタイルの温泉が多くなりつつある。.
 漁村に位置しているだけに、客層の中心は日焼けした漁師のおっさんが中心で、浴室や休憩室で交わされる会話は、漁の話が中心である。また、漁師町特有の"浜ことば"が多く、時に何を話しているのか理解できないこともしばしばである。その土地ならではの話やことばが聞けるのも、温泉の楽しみの一つである。なお、休憩スペースは前述の通り充実しているのだが、館内に食事処はないので、手ぶらで訪れると身を持て余しかねないので要注意である。

 浜中からさらに東へと進路を取ると、日本最東端の町、根室市へと入る。だが残念ながら、根室市には天然温泉がない。そこで厚床から国道44号線を逸れ、北へと向かう243号線へと進み、別海町へと進路を取ることにしよう。
 別海町は、四国の香川県よりやや広い面積を有しながら、そこに住む人口はわずか一万六千人という、人口密度の低さ日本一の町として知られている。それに対して、飼育されている牛の頭数は十一万匹と、人口のおよそ七倍にも達し、酪農王国北海道を地で行くような町といっていいだろう。
 その別海町には数箇所の温泉があるが、まずは海岸から十数キロ内陸に位置する別海本市街近くにある町営温泉「別海町交流センター 郊楽苑」へ足を運ぼう。市街地を抜けた西外れの高台に位置する宿泊施設もある温泉で、レンガの外壁と、三角屋根の塔が目を引く、なかなかお洒落な外観の建物である。
 玄関を入ると右手にフロントがあり、その前のロビーは吹き抜けとなっていて開放感がある。その一角には塔に設置されたカメラで根釧原野を360度見渡せるモニターがあり、季節ごとの雄大な展望が楽しめるようになっている。ロビー右奥が一段高くなった休憩室で、軽食コーナーも併設されている。その奥に男女別の浴室があり、浴槽にはコーヒーのような色の湯が満たされている。泉質はナトリウム−塩化物泉とのことだが、ここの湯も浜中同様、しょっぱさは全く感じない。内湯にはジェットバスやサウナも設けられているが、お勧めは岩風呂の露天風呂で、天気がよければ、別海の市街越しに地平線、さらにはその彼方の国後島の姿までも見ることができる。水平線ならぬ地平線越しの国後の姿というのもまたオツなもので、内陸部高台の露天風呂ならではの眺望である。
 宿泊は一泊二食付き七千五百円から、日帰り入浴は大人五百円だが、館内にあるレストランの七百円の定食と入浴料がセットで千円となる「会食セット」がある。この定食は鮭フライを玉子とじにした鮭の黄金煮をメインとしたもので、付け合せにそばかスパゲッティを選べる。食事時の日帰り入浴なら、このセットが断然お得である。

 別海市街から進路を東へ取ると、やがて国後島を間近に望む根室海峡へと突き当たる。海岸沿いに北上すると、やがて右手には樹木の立ち枯れたトドワラ、ナラワラで知られる野付半島が近付いてくる。海流により砂が堆積して出来た半島で、山のようなものは一切なく、見事なまでにまっ平らな半島である。半島に抱かれた野付湾は水産資源の宝庫で、特に昔ながらの帆掛け舟によるエビ漁は、初夏の風物ともなっている。
 それら漁業の基地である港町尾岱沼には、小規模ながら温泉街が形成されている。とはいっても、数軒の旅館、民宿と、わずかな飲食店が点在しているだけではあるが。
 その一角に、温泉公衆浴場「浜の湯」がある。平屋の小さな建物で、扉を開けると番台ならぬカウンターがあり、そこで入浴料三百六十円を支払うと、そのすぐ前が休憩室、そしてまたすぐ前が浴室という、実にシンプルな施設である。休憩室はさながら地元の人たちのサロンで、お年寄りたちの元気な声が響きわたっている。
 脱衣所から浴室へ進むと、二つの浴槽があり、片方にはやや黄色みがかったナトリウム−塩化物泉が、もう片方には茶褐色をしたアルカリ性単純泉の湯が満ちている。しかし、内風呂は薄暗さも手伝って、いかにも場末の銭湯、といった雰囲気で、あまり気分のいい湯ではない。
 しかし露天風呂は広々とした空が望めて、一転開放感がある。場所柄景色は望めないものの、熱めのナトリウム泉とぬるめの単純泉を交互に入れば、かなりの長湯が楽しめる。立ち寄り湯として、チェックしておいて損はない施設である。

 内陸部と比較し、温泉地のイメージは希薄な道東太平洋岸であるが、探せば案外いい温泉があるものである。定番の温泉を尋ねるのも良いが、まだ知らぬ温泉を尋ねての旅もまた楽しいもので、温泉巡りの旅は、まだまだ続きそうである。(完)


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 鮭の"子"を味わう

 秋を代表する魚の一つ、鮭。一般に鮭は、「捨てるところのない魚」と評されるが、そんな中でも味わいの代表と言えるのは、やはりイクラであろうか。産卵を間近に控えたこの時期のメスは、大きく熟した筋子を抱卵しており、それをバラ子にして漬けたものがイクラである。
 と同時に、オスの白子も、なかなか味わい深いものである。今日はそんな鮭の"子"を味わってみることにしよう。
 まずは、イクラを漬けることから始めよう。昨年などは、鮭が全道的に大変な不漁だったため、生筋子が大変な高値となり、おいそれと買う気にはなれなかったりもしたのだが、今年は一転大豊漁で、極めて手頃な価格で店頭に並んでいるので、安心して買うことができる。選ぶ際のポイントは、粒が大粒であるに越したことはないが、何よりもその一粒一粒に張りと弾力があるものを選ぶということである。これにかなわないものは、鮮度が落ちているということである。
 持ち帰った筋子をほぐすには、餅などを焼く焼き網を使う。薄めの塩水を張ったボールの上に網を置き、筋子の上から指の腹で撫で付ける要領でほぐしていく。そんなやり方では肝心の子が潰れてしまうのでは? と思われる向きも多かろうが、鮮度のよい筋子であれば、そんな心配は全く無用。逆に言えば、この段階で潰れてしまうような筋子は、鮮度が落ちていて問題外、ということである。
 もし焼き網がない場合は、テニスやバドミントンのラケットでも代用できるとか。筆者はこれらを使ったことはないが、これは道内の昼のワイド番組の料理コーナーで紹介されていたものなので、怪しげな情報源によるものではないことを申し添えておこう。
 ほぐしたイクラは、塩水の中で軽くかき混ぜて洗い、ざるに取って水気を切り、漬け込む。味付けは、個々の店や家庭で多様であるが、筆者は醤油と酒のみのシンプルなものが好みである。強いて言えば、醤油は昆布醤油が好ましい。あとは適宜の酒を足して、一晩寝かせれば出来上がりである。漬け込み過ぎると皮が硬くなるので、一夜漬けの後は再度ざるにあけてたれを捨て、軽く酒を振って完成である。後は鮮度の落ちないうちに食べてしまうのみである。
 味わいの王道は、やはりイクラ丼だろう。テレビの旅行番組などでは、よくご飯が見えないスーパーイクラ丼といったものが紹介されたりしているが、闇雲にイクラが多ければいいというものではない。肝心のイクラが少なすぎれば物足りないことは言うまでもないが、かといって多すぎても、持て余してしまうから不思議なものである。多すぎず、少なすぎずのイクラの量というのが、何を隠そう最大のポイントである。
 さらには、丼上がご飯とイクラだけでは寂しい。彩りと味のアクセントとして、キュウリの千切りは欠かせない。これを丼の縁に並べ、ご飯が一通り隠れる位のイクラを乗せ、刻み海苔を散らし、ワサビを添える・・・これでご飯が北海道産のほしのゆめ新米なら、もはや言うことはなし。寿司屋や料理屋でなら千円台後半から二千円超はするであろう本格イクラ丼が、手間さえ惜しまなければ自宅で数百円の材料費のみで楽しめるのであるから、まさに「味覚の秋」である。
 なお、おせち料理につきものの筋子は、ほぐさないままの筋子を塩漬けにしたものである。これは保存食的な色合いが強く、敢えて食べたくなる代物ではない。やはり、旬の生イクラ醤油漬けに勝るものはない。
 続いて白子を料理するとしよう。こちらは、値段的には重量あたりで筋子の三分の一ないし四分の一程度で、高級食材といった位置付けではない。しかし本州以南では、鮭の水揚げ地以外では店頭で目にすることは稀で、産地ならではの希少食材と言える。当然北海道では、秋になればごく普通に店頭で見かける食材である。
 白子料理の王道は、何と言っても鍋である。老舗の石狩鍋の専門店では、鮭の身は一切使わず、白子のみを使ったものが石狩鍋と言い切るところもあるという。確かに身は煮込むとパサパサになってしまうが、白子は煮込むほどに味がしみて、淡白さの中に汁の旨みをとじ込めたふくよかな味となることは間違いない。
 石狩鍋以外でも、三平汁風に塩仕立ての鍋でもいけるし、ごく普通に味噌汁の具にしてもいい。こう書くと、鍋系の料理ばかりが守備範囲のようだが、塩を振って焼いてもいいし、天ぷらやから揚げにしてもまたいける。揚げ出しにしてもまた絶妙な味だし、鮮度のよいものなら、さっとゆがいて酢のものにもできる。かように応用範囲では、筋子をはるかに凌駕するのが白子なのである。
 今や、季節を問わず輸入物や養殖ものの鮭が店頭に並び、これがまた結構美味かったりするので困りものなのだが、やはり"子"が味わえるのは、旬ならではである。鮭漁の続くあとしばらくの間で、果たしてどれだけのイクラと白子を食すことになるのであろうか・・・(完)

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 連載 サッポロ・タウンハイク

 第二回 “我が町”東札幌をめぐって(後編)

 南郷通を東へ進むと、商店や飲食店が、密集まではしていなくとも、途切れることはない、といった間隔で両側にある。東札幌病院を過ぎると3丁目と4丁目の間で米里行啓通が交差するが、その3条4丁目角には北海道銀行東札幌支店があり、4条4丁目には東札幌図書館、すぐ向かいの3丁目には東札幌交番、5条4丁目には東札幌郵便局と、東札幌駅と白石駅のほぼ中間に位置するこの一帯が、何だが東札幌の中心街のようでもあり、郵便局周辺には飲食店も点在している。また、2条4丁目と5条4丁目には、それぞれ銭湯もある。しかし、それとて繁華街という体には程遠く、南郷通一帯の方が賑わっている。飲食店があるのは、6条3丁目に東札幌団地があることと関係がありそうである。ちなみに筆者が平成6年に札幌での生活での生活を始めた際、当初居を定めたのがこの5条4丁目であった。その翌年に現住の1条1丁目に移り、今に至っている。
 南郷通に戻って東進を再開すると、間もなく右手に東札幌会館が現れ、並びには食品スーパーとカラオケボックス、向かいにはスナック系の店が入った飲食店ビル、ラーメン店や焼肉店、100円ショップなどがあり、その先の5丁目交差点の向こう側にも、焼き鳥屋など数軒の飲食店がある。考えようによってはこの辺りこそが東札幌の中心街か、とも思えるが、やはりいま一つまとまりに欠いている。
 3条5丁目には、洋菓子店の「きのとや」がある。市内はもとより、道内でも名の通った洋菓子店で、客足が途絶えることがほとんどない。桃、端午の節句やクリスマス時期は、駐車場が狭いこともあって南郷通が渋滞するので、車では近くを通らないようにしている。甘いものが好きではない筆者とこの店の関係は、その程度のものである。
 そこから北に入った4条5丁目には日章中学校と東札幌小学校とが軒を連ねている。選挙があると、その何方もが投票所となるのだが、うっかり違う方へ行って恥をかいたことがある。しかし、筆者のみならず、同じ間違いをしている人が数人いたから、安堵の思いであった。自分が通った学校、或いは自分の子供の通う学校であれば間違えることはあるまいが、そのどちらにも該当せず、しかも余所からやって来た人間なのだから、大目に見てもらうことにしよう。
 その先の南郷通は地形の関係で丁目境がずれ、北側は3条5丁目が続いているうちに南側は2条6丁目となり、飲食店の密度が濃くなる。すでに白石駅の商圏であり、望月寒川(もつきさむがわ)を渡ると白石駅へと辿り着く。東札幌がバスの乗り入れない駅だったのに対し、こちらは駅上にターミナルハイツがあり、上階はマンション、二階はテナントスペース、そして一階が市営バスターミナルとなっており、区内はもとより豊平、清田、厚別の各方面へのバスが忙しく発着する。東側で南郷通と交差する片側三車線の道路が札幌環状線で、東札幌の町域はここまでとなる。
 ちなみに、JR函館本線にも白石駅があるが、ここからは2キロ以上離れている。どちらも通勤通学客の利用が大半を占め、観光客が混同して困ったという苦情もほとんど聞かないが、不親切なことに違いはない。地元では、頭に「地下鉄」「JR」を付けて区別しているが。
 南郷通のターミナル向かいには元は地場系で、現在はイオングループのスーパー、札幌フードセンターや、ドラッグストアー、ロイヤルホストなどがある。その一帯は十年前と変わらないが、その一歩北側の裏手は、かなり変化した。かつては見渡す限りと言っていい位、広大なパチンコ店の駐車場が広がっていたのだが、十年間ですっかり建物が簇生し、遥か向こうまで見渡せたのが嘘のようになってしまった。
 環状線南側の向かいは、広大な道新駐車場で、これは十年以上変わっていない。やはりパーク&ライドの利用が多いのであろうか。その隣には"ナイトショップ"を標榜するスーパー、パルがある。現在では、コンビニのみならず、一般のスーパーでも夜遅くまで営業するところが増えたが、昭和60年代、夜11時まで営業する形態のスーパーは少なく、ダイエー東札幌店のごときは、大店法の絡みもあったのだろうが、何と6時半に閉店していた。ゆえに、ナイトショップを店名に冠したのも当時では頷けたが、24時間スーパーが札幌市内にも登場した今、"ナイトショップ"は外しても良いのではないかとも思う。件のダイエーも現在は9時までやっているし、斜め向かいのフードセンターも、かつては10時まで、現在は11時まで営業し、コンビニを含めて、激しく凌ぎを削っている。
 そんな地下鉄白石駅の繁華街はというと、これもまたここまで歩いてきた途中同様、これといったまとまりには欠いている。先に述べた東札幌2条6丁目一帯には飲食店が建ち並んではいるが、向かいの3条5丁目にはローソンと駐車場しかなく、あとは環状線の向かい、南郷通1丁目エリアということになる。白石区の中心街が、区役所に近い本郷通商店街一帯ということもあり、そこから都心に寄った東札幌は、そこそこの商圏こそ形成されども、繁華街としてのまとまりには欠ける、といったところが結論であろうか。
 しかし、裏を返せば、繁華街的な喧騒にさいなまれることはないながらも、必要な商業、飲食施設は殆どといって揃っているのだから、たいへん生活のしやすい街、と言える。都心からの距離も近過ぎず遠過ぎずで程良い。札幌市内、住んでみたい街、あるいは住みやすい街ランキング、なんてものがあったら、きっと東札幌は、上位にランキングされるに違いない。(と、筆者は思うのだが…)
 白石駅からは、かつての国鉄千歳線跡、白石サイクリングロードを辿ってみることにしよう。環状線を南に下ると、頭上に架けられた「環状夢の橋」が現れる。十年前は信号による平面交差だったが、付近の信号機とは不連動で、押しボタンを押せば青になるという歩行者用信号では、車両通行量の増加に対応しきれなかったのであろう。
 サイクリングロードの南側、1条6丁目には、SLを模した遊具のある「まくらぎ公園」がある。そのあたりの町内会名も「まくらぎ町内会」である。かつて走っていた鉄道への哀愁を持つ人が多いのであろうか。ロードには並木が植樹され、所々に休憩所も設けられている。自転車で行き交う人はもとより、ジョギングや犬の散歩をする人も多い。かつての鉄道が残した、人々のちょっとした憩いの場である。
 現在では、周辺は完全に宅地化されているが、線路付け替えの行われた昭和48年頃は、まだ土地には余裕があったようにも思われ、複線化の用地確保も不可能ではなかったように思える。しかし、それ以上に急曲線の緩和という命題、さらには交通量が増加する主要道路との立体交差化が必須だったわけで、やはり現行ルートへの付け替えが最善であり、かつやむを得ない選択でもあったようである。
 住宅地としての東札幌の特徴は、どことなく"平均的"な家屋が大半を占めていることであろうか。あからさまに、ウチは金があるんだ、的な豪邸というのがあまりない。敷地の広さからして、かなりの資産家、と思われる家がないわけではないが、そんな家にしても、必要以上に金をかけているとは思えない建物が大半なのである。その対で、昭和30年代以前から建っているような、バラックともつかぬようなスラム化した建物というのも、殆ど見受けられない。マンション、アパートも、分譲の高級マンションもあるが数は多くはなく、ファミリー向け賃貸あり、単身者向け賃貸ありで、要するに何でもあり、である。掴みどころない街、とも言えるが、住み心地は悪くはない。金持ちがやたらと多い街なら、筆者のような貧乏人は肩身が狭いし、かといってスラム化したようなところに住むのも御免である。そういう意味でもここはやはり"平均点的な街“と言えそうである。
 米里行啓通を"東札幌トンネル"でくぐると2丁目に入り、ゴールも間近である。右カーブの左手には明治乳業とコカ・コーラの工場、右手にはセメント工場があり、セメント工場側の柵は、枕木を流用したものである。すでにかつての国鉄駅跡に近い工場、倉庫地帯に入っており、宅地化されたこれまでの区間より、鉄道跡の匂いがより強い。さらにカーブを続けた先で1丁目とぶつかり、ここで初めて、一般道路との平面交差となる。冒頭で述べたように1丁目側の区間の一部は昭和61年まで機廻し線として使われており、すでにレールは取り払われていた2丁目寄りの区間も、当時はサイクリングロードとしては未整備だったため、このような姿になったものである。
 ここから自宅アパートまではすぐで、これで東札幌散歩は終了である。何気なく暮らしている我が町も、歴史を紐解きながら歩くと、様々な発見があるものではある…(完)
 


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 旅人コラム

 旅と電話について考える

 

 何をいまさら、と言われそうだが、ここのところ、旅先の車中や駅などで、ごく当たり前のように携帯電話を使用する人間を見かける。一昔前なら、ビジネスマンが所持している以外、さほど目立つ存在ではなかったように思うが、今や学生はもとより、高校生までもがごく当たり前のように使用しているのだから、時代は変わったものである。
 例えば朝の通学時間帯の列車に乗り合わせたのが月曜日で、乗り合わせた高校生集団のうち誰か一人が週末に新機種の携帯に買い換えたりしていたら、車内は大変な騒ぎで、しばらくは手から手へとそれがリレーされる"品評会"と相成る。放課後の時間帯であれば、その日ないし週末の約束をする着・発信が聞かれない瞬間はない、といっても過言ではないほど、着信音と会話がそこここで展開される。鉄道会社の促す車内での携帯電話使用お断りの放送など、全くどこ吹く風、である。
 しかし携帯電話など、映画"007シリーズ"の主人公が使っているのを(正確には、自動車電話だったと思うが)、全くの絵空事として見るのが関の山だった我が高校生時代(昭和五十年代後半)を思い起こせば、正直それから二十年足らずで、こんな時代が訪れようとは、想像だにしていなかった。だからといって、当時は当時なりに友人とのコミュニケーションは取れており、猫も杓子も携帯、という今の時勢には少なからずの疑問を感じてしまう。
 高校生の子供を持つ親御さんも大変だと思う。流行に敏感な今時の高校生たちは、機体料無料でばらまかれるような機種には目もくれず、常に最新機種を欲しがる。親としても、携帯を持たないことによって我が子が仲間外れやいじめの対象にされては堪らないから、闇雲に「駄目だ」とも言えず、買い与えざるを得ないのではなかろうか。むろんその後の基本料金ならびに通話料の支払いは、各家庭により異なりはしようが、全てを親が負担しているという家庭は稀と思われる。金銭負担を身をもって体験することは、将来の自立に向けた金銭感覚の育成に有効であり、その点では携帯を持つこともあながち悪いことではないようにも思える。
 しかし、今や携帯の機種陳腐化サイクルも極めて早まっている。新機種登場の度に買い替えを迫られる親は、そんな教育的効果などどこ吹く風、携帯のCMを目にするたび、戦々恐々の思いであろう。親の本音は、「早く自立してくれはしないか・・・」というところに行きつくのではなかろうか・・・

 さて、筆者の旅と電話との関わりを思い起こせば、計画のない気ままな旅を始めた高校生時代に遡ろう。中学2年で旅に目覚めて以来、宿泊は専らユースホステルを利用していたのだが、当初は完全に計画を立て、宿泊地を完全に決定した上で、早い時であれば数ヶ月前に宿泊予約をしてから旅に出ていた。それが高校生になると、取り敢えず大まかな行き先(例えば中国地方、北陸地方、信州、北海道など)を決め、その地域を乗り降り自由な国鉄の周遊券やフリーきっぷを購入して出発、宿は行った先で当日ないし早くで前日に電話で予約する、というスタイルの旅となった。
 こうなると、まだカード式公衆電話など登場していない昭和五十年代後半のことである。電話をかけるための十円玉確保は必須で、買い物の度にわざと小銭の釣銭を貰うように心がけ、ズボンの左前ポケットを十円玉専用とし、結果穴が開いてしまったこともしばしであった。
 当時の公衆電話の主流は、百円玉と十円玉の使用できる黄色のものであったが、百円玉使用時は釣銭が出ない(現在のカード硬貨併用型の機種も同様であるが)ので、よほどの長距離通話以外、百円玉の使用など論外であった。それにしても、当時の電話事業は半官半民の電電公社が独占していたとはいえ、釣銭分を堂々と不労所得していたことには呆れるばかりである。のみならず、民営化された現在のNTTでさえ、前述の通りカード硬貨併用型機種では、今を以って同様の"搾取"が行われている。民間企業が血の出るような営業努力をしている昨今を思えば、元親方日の丸企業のそれは、限りなく不十分と言わざるを得まい。
 昭和60年代に入ると、急速にカード式公衆電話が普及し、十円玉でポケットに穴を開けたことも昔話となった。それでも、地方に行くと昔ながらの硬貨式電話しかないこともままあり、カード電話が全国にくまなく普及するまでの数年間、不本意に百円玉を使用し、当時の公社に少なからずの不労所得を供したことは忘れ難い。携帯の普及で公衆電話の存在もが脅かされている現在はいざ知らず、当時の公社が得ていたこれによる不労所得は年間では百万から千万円の単位に達していたものと推測される。むろん当時も、一部の識者からそれに対する批判の声はあった。しかし当時の電電公社は、
 「(釣銭機能を持たすこと自体は)技術的には可能だが、限られた電話機内のスペースに釣銭のストック場所を確保することは難しく、またそれのこまめな補充体制を完備することも極めて困難」
 と言い切り、前向きな対応は見られなかった。通信事業が自由化されて久しい現在でさえ、この問題は未解決のまま引きずられているという事実は、カード電話、さらには携帯の普及で日陰に追いやられてしまった感があるが、決して曖昧なままで済まされる問題ではない。例えば小売業の店で、
 「100円に満たないお買い物で百円硬貨でお支払いの場合、釣銭は御容赦願います」
 という店があったなら、誰がそんなところで買い物などしようか。元"官"の体質を色濃く引きずるNTTの民間との体質差は、まだまだ大きいと言わざるを得まい。

 ところで筆者は、未だに携帯を所有していない。
 「便利さと不自由さは紙一重」
 が筆者の持論である。宅配の仕事に従事する際には、会社支給の携帯を使用したりもするので、その利便性は十分理解していると自負しているが、それゆえに、それは反面不自由ももたらすことをよく知っているからこそ、アンチ携帯をここまで貫いているのである。以下に述べるのは筆者の持論であり、賛同よりは否定意見の多いであろうことは想像に難くないが、敢えて申し上げる。
 飛躍した話になるが、人はなぜ旅に出るのか。それは多くの人の場合、日常の家事や仕事、人間関係といったしがらみから、一時的にせよ解き放たれた時間を持ちたいからではないのか。
 のみならず、日常のほんの短い時間でも、誰にも煩わされることのない、自分だけの時間を持ちたいという願望は誰にでもあるだろうし、数々の制約の中、それを実行している人も少なくはないはずだ。
 そんな時、無情の携帯の着信音が響けば、好む好まぬにかかわらず、その人の心は現実の日常へと引き戻される。割り切りのできる人なら電源を切っておくこともためらわないだろうが、多くの人は、
 「その間に、大事な用件の電話があったら・・・」
 と躊躇するだろう。その段階ですでに"一人きりになれない不自由さ"があると筆者は思う。
 旅に出た時は、もっと事態は深刻である。日常から離脱するための旅なのに、携帯という日常を引きずっていては、何のための旅なのかと言いたくなる。出張旅行のビジネスマンや一、二泊の小旅行と思しき女子学生やOLのグループはともかくとして、ごっついバックパックを背負った一人旅の男までもが、列車内や駅の待合室で、無心に携帯でメールを打っていたりするのを見かけることは、もはや珍しくはない。彼女に旅の報告をしているのかもしれないが、日々のあれこれをメールなんかで送るより、絵葉書の一枚でも送る方が、よほど気が利いているように思うのだが・・・

 携帯を所持しない筆者の旅は、いわば天涯孤独気分を味わう時間でもある。誰も知る人のいない街を訪ね歩き、その間は、日常の人間関係や家族から隔絶された時間を過ごす。それでも、悲しいがな日常とのしがらみを完全に断ち切ることはできず、念のために三、四日に一度は留守電に着信がないかを公衆電話からチェックする。着信がなければほっとするし、着信があれば「誰からよ?」とがっかりするのである。のみならず日常でも、部屋に戻り、留守電の着信ランプが点滅していないことが望ましい日々である。
 先日、ある飲食店チェーンの懸賞に応募し、欲しかった賞品ではなく、BS放送の無料契約とチューナーの無料提供、それにプラス、インターネット対応携帯電話が当たってしまった。正直なところ、テレビなど地上波で十分であるし、ましてや携帯などタダでも欲しいとは思わない。何せBSにしろ携帯にしろ、見まいが使うまいが基本料金は毎月かかるのだから、タダで貰えると喜ぶべき性格のものではなく、迷うことなく当選を辞退したことは言うまでもない。そこまでするか、と呆れていただいて大いに結構。これこそが、旅人たる者の信念である・・・

 さて、いよいよ秋から冬へと季節は移ろい、しばらくは仕事に専念の日々となりそうな身上だが、年が明けたら、またしばしの"天涯孤独気分"を味わうことにしますか。そんな訳で電話連絡に対応できない場合もあるので、予めご容赦を・・・(完)
 


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 さて今回の通信、いかがでしたか? 冬はもはや目前ですが、筆者的には冬支度は段階的にほぼ完了しており、考えることは、いかに前向きに冬を楽しもうか、ということでありましょうか。
 早いもので、北海道で迎える冬もこれで何と八度目になります。もうそんなになるのか、と少々驚きでもありますが、冷静に考えれば来年は何と年男・・・気がつけば、年齢を重ねている自分がいるのでありました・・・
では、来年2002年もよろしくお願いします。新企画の構想もありますが、どうなるかはまだ未定ということで、次回の配信をどうぞお楽しみに・・・
 
 

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