札幌発旅人通信 2002年初春 第12号

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 皆様いかがお過ごしでしょうか。旅人通信、今年も頑張ってお届けしたいと思っています。
 年明けの1月、筆者は久々に北海道を離れ、"内地"へ足を伸ばしました。青春18きっぷを使い、足掛け5日間かけて鹿児島まで至り、そこから船に乗り、屋久島へ渡りました。世界文化遺産であり、"洋上のアルプス"の異名をとる島は、これまで訪ねたことのある離島とは全く趣を異とし、遥々足を運んだ甲斐は十分にあり、でした。その仔細を語れば紙幅が足りなくなることは明白なので、ここでは割愛しますが、いずれ何だかの形で、当通信でも取り上げたいと思っている次第です。
 この冬の北海道、札幌は、12月はドカ雪に見舞われて難渋しましたが、年が明けてからは雪は少なく、気温も高めで推移し、このままだと雪どけも例年になく早そうな気配です。そんな往く冬を惜しみつつ、今号の北の湯めぐりとグルメ情報は、冬に関連した内容でお届けしたいと思います。それでは本題へと・・・

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 連載 北の湯めぐり

 第11回 北部オホーツク沿岸の温泉二選

 

 かつて北海道各地には、国鉄の"ローカル線"と呼ばれる路線が数多く走っていた。しかし、国鉄財政の窮迫により昭和50年に国鉄再建法が成立、輸送密度の低い「特定地方交通線」は、第三セクター鉄道かバス路線への転換を迫られ、殊に人口密度の希薄な北海道では"ローカル線"の多くがバス転換され、鉄道としての使命を終えることになってしまった。
 そんな路線の中でも、筆者は特に「流氷を見ながら走る路線」として名高かった興浜(こうひん)北線、興浜南線の存在が忘れ難い。両線とも昭和60年に廃止となったので、もはや廃止から20年近くが経過しようとしているのだが、その両線の終着駅だった町に、近年、立派な公営温泉が誕生した。今回の湯めぐりは、興浜北、南線の歴史を辿りつつ、新しい時代へ歩き出したかつての終着駅の町と温泉施設を紹介したいと思う。

 興浜北線は、北部オホーツク沿岸地区の開発を目的として、興部(名寄本線、平成元年5月廃止)と浜頓別(天北線、同)とを結ぶ興浜線として昭和8年に工事が開始され、同11年7月、浜頓別〜北見枝幸間が開通、興浜北線として営業を開始した。同19年11月、太平洋戦争激化により、鋼材供出のために営業休止となるが、終戦まで供出したレールが転用されずに残っていたため、同20年12月営業を再開。しかし、北見枝幸〜雄武間の建設は戦後の混乱もあり遅々として進まず、昭和40年代に入ってようやく工事が本格化する。
 ところが国鉄再建法案の成立は、間近に迫っていた興浜線の全通をも阻止してしまった。興浜北線、興浜南線の両線は第一次廃止対象路線に選定され、日本鉄道建設公団により工事が進められていた興浜線未開通区間については、工事中止の断が下されてしまったのである。
 興浜北線沿線も言わずと知れた過疎地区であり、廃止への有効な対策など見出せる術もなく、昭和60年7月、興浜北線は鉄道としての使命を終えた。これにより、興浜線の全通、さらにはオホーツク沿岸を稚内から釧路まで鉄道で結ぶという「オホーツク縦貫線」構想は、実ることのないまま、幻と消え去ったのである。

 では、北からその路線跡を辿ってみることにしよう。平成元年に廃止された天北線浜頓別駅跡はバスターミナルとなって往時の面影はなく、市街地ではかつての線路跡を辿ることも困難となってしまった。ターミナル1階に設けられたかつての浜頓別駅構内のミニチュア模型と、鉄道関係の展示物が、辛うじてかつてここが駅であったことを伝えている。
 国道238号線に沿って市街地を抜けると、海岸近くに広がる湿地を抜け、間もなくオホーツク海の海岸に出る。漁港のある頓別市街には、かつて頓別仮乗降場があったはずだが、もはや線路跡も駅跡も原野へと帰しつつあり、その痕跡を辿るのは難しい。
 海岸に沿って伸びる国道を南下すると、次第に前方には山肌が立ち塞がるように近付いてくる。標高439mの斜内山と、そこから海岸に落ち込むように突き出す北見神威(かむい)岬である。近代の土木技術を以ってすれば、容易くトンネルを打ち抜いてしまうであろうが、昭和初期に敷設された興浜北線においてはそのような工法は思いもよらなかったようで、岬の地形を縫うように線路は敷設された。それゆえに、その前後は急曲線区間となり、列車は車体を軋ませてこの区間を通過していた。断崖上に建つ白と黒のツートンの灯台と、厳冬期には海岸を埋め尽くす流氷、そしてそこを進む列車との取り合わせはまさに絵になり、多くの鉄道ファンが撮影に訪れたところでもある。国道もかつては海岸沿いを走っていたが、近年トンネルによる新ルートに付け替えられ、岬をめぐる旧道は、現在は冬季通行止めとなってしまった。流氷の時季にこそ訪ねたい景勝地が冬には行かれなくなってしまったことは、残念な限りである。
 神威岬を過ぎると枝幸町へ入る。海岸は岩礁が目立つようになり、小さな岬を幾つか見送りつつ、やや入り組んだ海岸線となる。国道、そして線路跡も小さな集落を通過して進み、枝幸市街へ近付く。国道はその市街地を避け山側に設けられたバイパスへと進み、その途中にかつての線路を跨ぐ跨線橋があるが、線路跡は途中から並木の並ぶ立派な道路として整備され、かつての北見枝幸駅も二階建ての瀟洒な交通ターミナルとなり、鉄道遺構を偲ぶことは難しくなってしまった。唯一ターミナル前に残る「駅前食堂」の名前のみが、かつてここが駅であったことを伝える。
 では、鉄道がなくなり、町はさびれたか。到底そうは思えない。枝幸町は毛蟹の水揚高日本一の町として知られ、港は、流氷に閉ざされる厳冬期を除いては活気に満ちている。国鉄の終着駅だった頃の駅前は、数軒の商店と食堂が建ち並ぶだけの、ややすれば寂しい駅前だったが、現在ではそこに道北を拠点に展開する西条デパートが進出し、多くの買い物客で賑わっている。鉄道がなくなってじきに20年を迎えようとする町は、案に反してなかなか元気がいい。
 では、温泉へと足を運ぼう。近年、町の背後にある三笠山の山麓に、町営のホテル「枝幸温泉 ニュー幸林」が誕生した。隣接するオホーツクミュージアムえさしと統一された、レンガ調の外観がなかなか洒落た施設で、日帰り入浴は五百円、宿泊は一泊二食付き六千五百円からとなっている。
 エントランス正面のフロント右側が温泉棟で、浴室は高い天井の三角屋根となっており、広々としている。眼下には市街を介してオホーツク海を望む好立地であるが、すぐ前が駐車場への取り付け道路ということで、窓の下三分の一ほどは曇りガラスとなっており、眺望が今一つなのは残念である。露天風呂がないことと合わせ、好立地が生かしきれていない施設内容には、やや不満が残る思いである。
 湯はカルシウム・ナトリウム−硫酸塩泉で、口に含むと苦味とも渋味ともつかない微かな味を感じる湯で、温浴効果は高い。設備的には、サウナをはじめジェットバスやジャグジーもあるのだが、特筆すべきは、それらの湯には薬石湯が使用されていることである。一般的にはその種の風呂だと、機械への負担を和らげるために真湯(水道水)を使用する施設が多い。それを敢えて手間のかかる薬石湯を使用するということに、この施設の"こだわり"を感じる。そのこだわりを、眺望、展望という方向に生かせなかったものかとの思いは残ってしまうのだが・・・
 湯上りには、和室の休憩室のほか、リクライニングシートとストレッチ機器のあるリフレッシュコーナーがあり、レストランも日帰り客に開放されており、アメニティは上々である。立ち寄り湯としての価値も上々だが、人口八千人の漁業の町ゆえ、市街地にある宿泊施設といえば、商人宿といった風体の旅館や釣り客相手の民宿ばかりで、そこへこのようなホテルが誕生したことは、旅行者にとっても喜ばしいことである。「ニュー幸林」の名は、まさに新たな時代へ向かいつつあるこの町に相応しく思えるものである。

 枝幸からさらに238号線を南下する。左手にはオホーツク海が広がり、右手には原野ないし牧草地が続く。完成を目前に命脈を絶たれた興浜線の遺構も、随所で見ることができる。昭和40年代以降の建設だけあり、興浜北線のように地形に忠実に敷設されたのではなく、築堤により道路との平面交差を極力避けた工法が取られているのがわかる。ゆえに、廃止とともに原野に帰しつつある興浜北線と異なり、未成線ながらも多くの遺構を今に伝えている。特に鉄橋やコンクリート橋は新幹線を彷彿とさせるほど立派で、一度たりとも列車の走ることのないままにうち捨てられたことには、怒りさえ感じてしまう。
 だがその一方で、交差する道路の拡張が行われたと思しきところでは、そこまで続いていた立派な築堤が、その前後では情け容赦なく削り取られてしまっていたりもする。どんなに立派な構造物でも、未成に終わった以上は無用の長物である。撤去する必然性のないものはそのまま放置されようが、何らかの理由で邪魔になれば、それは消え行く定めにある・・・

 枝幸町から雄武町へと入ると、地形はなだらかさを増し、内陸部へ向かっては牧草地の割合が俄然増す。幾つかの集落を見送って、やがて雄武市街へと入る。枝幸町と違ってここでは国道はバイパス化されておらず、市街中心部を抜けている。ここへかつて興部から延びていた興浜南線は、昭和8年起工、同10年9月開通、同19年11月、戦争激化により営業休止、同20年12月営業再開と、兄弟分の興浜北線と同じような経緯をたどった。そして国鉄再建法案により第一次廃止対象となり、昭和60年7月、廃止となった。もともと一本に結ばれる計画で開業した両線だが、開業時期も近ければ、休止、再開という遍歴、時期も全く同じで、廃止日時までもほぼ同一であったことは、果たして単なる偶然と片付けていいものであろうか。
 国道からも近い雄武駅跡は展望塔のある道の駅併設のバスターミナルとなり、付近では線路跡を辿ることは困難である。「1985.7.14 休轢」と刻まれた傍らの記念碑だけが、かつてここに駅があったことを伝えている。しかし数百メーターも離れると、西北方向には未成で終わった興浜線のコンクリート橋とトンネル入口があり、南東方向には興浜南線の線路跡の土塁が現れる。やはりここはかつて、鉄道の通っていた町なのである。
 現在の雄武町は、漁業と畜産酪農業の町として元気である。国道沿いのメインストリートには洒落た造りの店が建ち並び、人口六千人に満たない町とは俄かには思えない程である。国鉄時代の駅前は、ややすればくすんだトーンの街並みであったように記憶しているが、その頃とは別の町のようにさえ思える。国道に戻って南下を再開すると、共栄、栄丘、元沢木と仮乗降場や駅のあった集落を過ぎ、やがて左手にオホーツクへ突き出した日の出岬が近付く。この岬の北側付け根近くに近年オープンしたのが、その名もずばり「オホーツク温泉 ホテル日の出岬」である。
 建物はグレーの外壁にまとめられた六階建ての堂々たるもので、北部オホーツクの小さな岬には似つかわしくないようにも思えるが、決して派手ではない。観光客誘致に力を入れる町の意欲の現れと受け止めるとしよう。
 日帰り入浴は五百円、宿泊は一泊二食付き七千円からとなっている。エントランスロビーの海側がレストラン・ラウンジ、左に入ったところが浴場となっている。浴室は、海に面した窓側が浴槽となっており、天井の高さまで設けられた窓からは、オホーツク海を一望できる。しかし何と言ってもお勧めは露天風呂で、一度に十数人は楽に入れる広さの浴槽からは、眼下にオホーツク海と、北へと伸びる海岸線を一望できる。流氷シーズンは言うまでもなく絶景で、何時間でも入っていたくなること請け合いである。
 思えば、オホーツク沿岸で流氷が居ながらにして眺められる温泉は、ありそうでなかなかないものである。精々、知床半島のウトロ温泉が思いつく程度である。ここの露天風呂からの流氷の眺望は、ウトロ温泉の数あるホテル、旅館の露天風呂からの眺望と遜色を取らない。道内随一の流氷露天風呂、と称しても良いほどである。
 湯はナトリウム−塩化物強塩泉で、かなりしょっぱい。温浴効果は抜群で、露天風呂で長湯をしても、湯冷めの心配は皆無である。内風呂には大浴槽のほか、日替わりの薬湯、打たせ湯やサウナも完備し、長湯するのには事欠かない。湯上りにも和室の大休憩室が用意され、入口には生ビールや簡単なおつまみ類を販売するカウンターも設けられている。リクライニングチェア−とマッサージ機器のあるリラクゼーション室も用意され、アメニティは非常に高い。立ち寄るだけでは勿体無い内容で、半日ないし一日を通して寛げる施設である。

 温泉をあとにし、沢木漁港経由で国道に戻ったところが沢木市街で、転換交付金で建てられた立派なバス待合所が目を引く。国道は間もなく海岸を離れて内陸部へと向い、やがて興部町へと入る。興部川を渡って名寄へと続く国道239号線へ右折すると市街地で、間もなく左に現れる「道の駅おこっぺ」がかつての興部駅跡で、バスターミナルにもなっている。駅跡がバスターミナルになっているのは、雄武、北見枝幸、浜頓別と同様である。
 名寄から興部、紋別を経て遠軽までを結んでいた名寄本線は、興浜南線に遅れること4年後の平成元年、廃止となった。かつての駅構内は公園として整備され、駅時代の面影はない。唯一、夏の観光シーズンには簡易宿泊所として利用されるキハ22形気動車の二両編成だけが、現役時代とは異なるダークグリーンに塗り替えられているものの、鉄道の匂いを残している。また道の駅内には、名寄本線、興浜南線関係の資料が展示されている。

 今、改めて興浜北線、興浜南線の跡を辿ってみると、およそ20年という時間の経過は、かつての鉄道の痕跡を、かなり希薄なものにしてしまった。駅施設が残されているところは稀で、道床跡も、ところによっては更地に戻され、畠や牧草地と一体化してしまったところさえある。比較的残されているのは小さな川に架かる鉄橋だが、これとて劣化が進み危険と判断されれば、いずれ撤去される運命にあろう。
 本文中でも触れたが、むしろ未開通のまま終わった北見枝幸〜雄武間の方が、築堤やコンクリート橋を多用した近代的な設計だったため、その遺構が顕になる区間があるのは皮肉な話である。
 時代は昭和から平成へと移ったが、昭和40年代以降進捗の一途を辿ったモータリゼーションはとどまるところを知らず、鉄道のなくなったこの地域の振興に、今や車は欠かすことのできないものとなった。かく言う筆者も、今では車を駆って走り抜けている。が、冬季に悪天候に見舞われ、肝を冷やす運転を余儀なくされた時など、かつて車窓から流氷原を見送ったことを思い出しながら、「もし今も鉄道があったなら・・・」という思いにかられることがある。
 しかし、そんな甘っちょろい感傷に浸っているのは、よそ者だけなのかもしれない。地元の人は、冬の悪天候にも負けず、この地でしっかり生きている。漁業、農林畜産業という基幹産業を軸に、観光という新たな可能性を模索しながら・・・ だが、両線が開業した昭和の始めに遡れば、まだ道路はろくに整備されておらず、マイカーなど夢のそのまた夢だったはずである。そんな時代に、鉄道は町の発展に大いに寄与し、人々に希望を与えたに違いない。時代が変わり、世代が代わっても、鉄道が残した功績は、変わることはないのである。(完)


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 グルメ情報

 冬の味覚、鱈を味わう

 一般に「鱈」と呼ばれる魚は、大別して二種類ある。一つは、体長1メーターを越える大物も珍しくないマダラであり、タラチリなどに用いられるのはこちらである。もう一種は、タラコの原料となるスケソウダラで、魚体は数十センチとひとまわり以上小ぶりである。
 どちらも旬を迎えるのは冬だが、味覚としてはマダラが抜きん出る。白身のタラチリでの淡白な味わいは言うまでもないが、身以上に美味いのが白子である。北海道では「タチ」と呼ばれ、マダラのものは「真ダチ」と称される。鮮度のよいものなら生食可能で、ポン酢にもみじおろしを添えて頂くのがいい。口の中でとろりととろける食感がたまらない。天ぷらや揚げ出しにして、めんつゆで頂くのもまた美味である。軽く火が通る程度の揚げ加減でよく、半生程度の柔らかさで味わいたい。変わったところでは、軍艦巻きの寿司で味わうのもオツである。本格的寿司店なら高級ネタの部類にいるが、北海道なら、回転寿司でもそこそこの値段で味わえる。
 以前に横浜の居酒屋で、「真タチ」があるのに喜び、早速頼んだら、完全にボイルされてカチカチのものがポン酢に浸って出てきて、ガッカリしたことがある。北海道の店でそんなものを出そうものなら、客が怒って帰ってしまうだろう。本州と北海道の食材への認識の差を実感させられたわけだが、二度と本州では真タチを頼むまいと心に誓った。ホンモノのタラを味わうなら、やはり北海道に限るということか。
 一方のスケソウダラは、身は同じく白身だが、やや脂が多い。鍋や汁物の具にもするが、かまぼこやスリミなどの加工用に用いられることが多い。白子の「助タチ」は、鮮度がよければ生食も可能だが、真タチに比べてやや水っぽい。その分加熱しても硬くなりにくいので、味噌汁や吸い物の具には好適である。身、白子ともマダラに比べれば安価だが、子だけはタラコの方が高級品扱いなのは言うまでもない。煮付けなどの料理用にしか用途のないマダラの子に比べ、スケソウの子はタラコへの加工用として引く手数多である。

 ところで近年、マダラ漁に異変が起きている。主な漁場である北方領土周辺のロシア領海での漁獲量割当が、ロシア側の意向により、従来より八割もの大幅削減となってしまったのである。これにより根室のマダラ漁船は多くが出漁できない事態となり、従事者の多くが転廃業を迫られているという。
 マダラそのものは、ロシア船が漁獲したものが根室や釧路の港に水揚げされており、直ちにマダラが食卓に上らなくなることはなさそうだが、将来的にはどうなるか予断を許さぬ状況である。かつての鰊(にしん)のように、昔大衆魚、今高級魚、とマダラもなってしまうのか。ならは今のうちに、精々味わっておくべき魚なのかもしれない・・・(完)

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 連載 サッポロ・タウンハイク

 第三回 ”北のススキノ”北区北24条界隈を歩く

 歴史の深い本州以南の都市部では、地下鉄と新興住宅地の開発路線を除いては、ほぼ各駅前毎に、大なり小なりの商店街が形成されていよう。ところが北海道においては、駅という存在がほぼJRに限定されてしまう上、歴史が浅いこともあり、本州都市部のような駅毎の商店街ないし繁華街の形成が必ずしも成されていない。しかし札幌市は百万都市であり、言わずと知れたススキノの繁華街のみならず、各区の中心部一帯に、各区なりの繁華街というのが形成されている。今回はその中の一つ、"キタのススキノ"と呼ばれる北24条界隈を歩いてみることにしよう。

 北24条へは、地下鉄南北線が通じている。現在、南北線は麻生〜真駒内間の運転だが、昭和46年の開業当時の路線は北24条〜真駒内間で、その関係で現在も南北線の起点駅は北24条で、昭和50年に延長開業した麻生は、始発駅ではあるが起点ではない。とは言っても全ての列車は麻生折り返しとなっており、線路の戸籍上そうなっているというだけの話である。
 その南北線は、麻生を出て間もなくのところからさっぽろ、大通を経て中島公園までの区間、見事なまでに一直線で西3丁目と4丁目の間の地下を通っている。地下を通るものだからあえて曲げる必要はないのだが、地図を見ると地上の道路までもがこれでもか、というくらい真っ直ぐで、思わず定規を当てたくなってしまう。ほぼ並行する創生川通がところどころ曲がった個所があるため、その直線ぶりはよけい際立つ。
 北24条駅の正確な所在は、北23条西3丁目である。出入口の一部は北24条に掛かっているが、ホームなどの駅施設の大半は北23条にある。一方丁目では西3、4丁目の間を通っているので微妙なところだが、地図ではやや3丁目に寄っているように見えるし、駅務員の詰所が3丁目側にあることが決定打のようである。地上に出ると、北23条西4丁目東向きにバスターミナルがある。北区はもとより、東区、西区の各方面へのバスが発着し、乗り換え客が多い。その二階はテナントが入り、その上は集合住宅という、札幌の地下鉄駅数箇所で見られるパターンの建物である。
 その北側で交差するのが宮の森北24条通で、交通量が多い。繁華街の範囲は、南北がこの通りの両側にあたる北23条と北24条、東西がおおよそ西2丁目西向きから西5丁目東向きにかけて、と言える。では、まず"軸"とも言える宮の森北24条通を歩いてみよう。  東へ向い、西2丁目へ入ると、道路両側の店はぐっと少なくなり、東区との境である創生川通にぶつかる。この近辺は地形の関係で1丁目はなく、2丁目からの開始となっている。向かいの東区側は、自動車学校、陸運支局、勤労青少年ホーム、観光バス待合駐車場などがあり、いずれもその敷地の広さが際立っている。住宅が密集する北区側とは表情が大きく異なる。
 引き返して3丁目まで戻ると、俄かにショップや飲食店が増え、雑居ビルには風俗店の看板も見え出す。しかしここはまだ入口に過ぎず、地下鉄出口を超えた4丁目こそが繁華街中心部である。道路両側は商店街の体となり、ドーナッツ店、ファーストフード店、ドラッグストア、書店、CDショップから青果店、和菓子店、全国チェーンの居酒屋、赤ちょうちんにラーメン屋、お好み焼き屋もあればテイクアウトのたこ焼き屋あり、雑居ビル一階にはパチンコ店、上階はスナックあり、古風なバーあり、風俗店あり・・・と、まあ何でもあり、の一角となる。その先で交差するのが西5丁目樽川通、通称北大通りで、これを超えると店があるのは、北23条の北向き側のみとなる。それらとて4丁目のような賑わいはなく、繁華街の"余韻"が続いている、といった雰囲気である。
 その向かいの北24条側は「北区の官公庁」地帯で、まず5丁目にはホテル、ホール、温水プールなどを備えた札幌サンプラザがある。6丁目には北区役所、社会保険センター、社会保険事務所があるのだが、その一角に民間企業である空知信金の建物があるのは妙な感じではある。続く7丁目には白揚小学校と幼稚園、8丁目には北警察署と北消防署が建つ。区の中心部とはいえ、ここまで狭い範囲に官公庁が密集しているところは、少なくとも札幌市内では他に思い当たらない。地下鉄と道路の直線ぶりといい、開拓地ならではの姿と言えるのではないだろうか。
 西5丁目樽川通に戻ると、北23条の西4、5丁目は、ちょっとした"風俗地帯"の趣である。4丁目西向きには、この界隈で一番?古いらしい20年余の歴史を誇るというピンク・キャバレーがあり、その向かいに位置する雑居ビル二棟の上階は、やはりピンク・キャバレー、そしてテレクラといった風俗店で大半が占められている。北23条中通を過ぎると繁華街の賑わいは薄れてしまうが、逆方向に向かえば、北24条の両側までは様々な店が立ち並ぶ。しかし北25条に至るとその密度が俄かに低くなり、もはや繁華街はここまでか、という雰囲気となる。
 宮の森北24条通の3、4丁目とならんで賑やかなのが、北24条中通の3、4丁目と、南北に伸びる3、4丁目線の北24条両側で、十字を成すこの二本の通り両側には、数多くの飲食店がひしめく。すし店、一杯飲み屋、居酒屋からスナック、クラブまで、和風から洋風、あるいはエスニックまで何でもあり、といった面持ちだが、強いて言うなら、若い女性が喜びそうなお洒落な店があまり見当たらない。確かに駅ないしバスターミナルを離れてしまうと、OLらしい若い女性の姿はガクンと減ってしまう。このあたりがベッドタウンらしいとも言え、大通、ススキノ地区の繁華街とは趣を異とする。
 北24条の北向き、すなわち北25条に面した通りには、まだ飲食店がそこそこにあるが、北25条の2、3丁目は市営団地で、そこから北方向ではネオンは全く見られず、静かな住宅地となってしまう。東西、南北ともに繁華街の範囲は限られており、15分ないし20分ほどでその全域を歩き終えてしまうだろう。
 以上のように、狭いながら何でもあり、といった繁華街であるが、その雰囲気はどことなく、人口数十万程度の地方都市のそれに近いものがあるように思える。特筆すべき点があるとすれば、それは風俗店の数で、正確に数えたことはないが、裕に二十軒を超えていると思われる。これは一般的な地方都市と比較すればかなり多いと思われるが、業種で言えば全てがピンク・キャバレーであり、ソープランドやファッションへルスといった類は皆無である。風営法の絡みで営業が許可されないのかもしれないが、これも地方都市との共通項と言える。そういうところだから、ススキノのような小賢しいポーター(ポン引き)は皆無で、安心して街を徘徊できるという点にも、好感を覚える。
 一杯飲み屋、居酒屋は言うに及ばず、スナック、クラブ系の店も大半が明朗会計で、財布の方も安心である。強いて高そうな店があるとすればすし店くらいだが、これとて東京あたりに比べれば遥かに良心的な価格設定をしていよう。風俗店も全てと言っていいくらい完全前金制の看板を出しており、ぼったくりの話は聞いたことがない。サラリーマンはもとより、あまり姿は見かけないが、旅行者にも安心の街、それが北24条である。
 尚、北24条駅から大通方面への地下鉄の最終は、0時03分発である。サウナやカプセルホテルの類はないので、帰りの足のことを考えながら飲まなければならない点も、地方都市に通じるものがある。終電を逃せば、朝まで飲み歩くか、タクシーの世話になる以外にない。特にシバレる冬の夜は、くれぐれもご用心を・・・(完)
 


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 旅人コラム

 旅と所要時間について

 

 旅と所要時間との関係を考えると、交通機関の発達する以前においては、単純に移動距離が長ければ長いだけ、時間を要していた。旅の手段がほぼ徒歩に限られていた江戸時代以前の話だが、当時の旅とは膨大な時間と費用のかかるものであり、庶民には高嶺の花であった。
 「一生に一度はお伊勢参り」というのが江戸庶民の憧れであったそうだか、当時実際に伊勢まで旅をするとなれば、今日の海外旅行、それもアメリカやヨーロッパ本土といったポピュラーなところではなく、南極大陸もしくは北極圏の島々を旅するくらいに相当しよう。古の人々にとって、"旅"はかくも壮大な憧れだったのである。
 明治維新以降、日本全土に鉄道網が築かれ、"旅"の自由度は高まった。それまで、徒歩で膨大な日数をかけなければ行かれなかったところへ、鉄道は日着ないし翌日着を可能にしたのである。明治末期には東京と下関を結ぶ"特急"も運転を開始し、大正、昭和と時代が進む中、増発が重ねられた。
 しかし当時の特急列車は、いわば特権階級専用のようなもので、一般市民のほとんどは普通急行ないし普通列車しか利用できなかった。やがて太平洋戦争が勃発すると、鉄道も貨物輸送に重点が置かれるようになり、特急列車は姿を消す。
 筆者の母は昭和7年生まれで、福岡の旧制女学校(現在の高校)を卒業後、東京の音楽大学に進むのだが、その当時、博多〜東京間は普通急行で22時間を要したという。しかも当時は長距離の切符を買うためには数日前から駅へ並ばねばならず、いざ列車に乗っても座席にありつける保証はなく、座れなければほぼ丸1日を通路で過ごすしかないという状況が待ち構えていたという。現代では考えもつかないような過酷な旅を、我々父母の世代が強いられていたという事実には、襟を正す思いである。
 昭和30年代に入ると、東海道本線の電化が進み、無煙化とスピードアップの時代が加速される。39年には東海道新幹線が開業し、それまでの東京〜大阪間の所要時間を半分の3時間にする。40年代に入っても「ひかりは西へ」のキャッチフレーズで路線の延伸が進められ、50年にはついに博多まで開業の運びとなる。
 しかし昭和40年代という時代は、これまで鉄道一辺倒で発展してきた時代に、大きな転機をもたらす時代でもあった。急速に普及した航空輸送網は、遠距離であればあるほどに所要時間の点で有利であり、鉄道輸送のシュアを確実に奪って行った。距離と移動時間の関係が、比例しない時代の到来である。
 東京対札幌間の旅客シュアの推移が、それを顕著に物語る。昭和30年代まで、ほぼ独占的なシェアを誇っていたのは国鉄であったが、40年代に入ると次第に航空輸送網が定着、浸透をし始める。東京対札幌では昭和40年度をピークに国鉄はシュアを落とし続け、僅か10年足らずで航空機がその九割以上を占めるに至り、国鉄のそれは一桁台に落ち込んでしまった。これは当然といえば当然の結果で、航空機なら羽田から千歳まで僅か1時間半なのに対し、東北新幹線開業前の国鉄ダイヤでは、上野から札幌への日着は不可能だったのである。上野を夕方前の特急で出発、連絡船中泊し、札幌着は翌日の午前中というのが、当時の国鉄による上野〜札幌間の最速パターンで、よほど鉄道や連絡船が好き、という人か、周遊券を利用する貧乏旅行の学生以外は、好んで利用したくなるパターンとは思えない。航空機へのシフトは、誰が考えても自然な時代の流れだったのである。
 昭和57年に東北新幹線が開業すると、上野〜札幌間は鉄道による日着が可能となった。とは言っても上野を朝の7時台に出て、札幌に着くのは日付も変わろうとする23時台と、あくまでダイヤ上そうなった、という話で、実際に利用する客は少なかったと思われる。昭和63年、青函トンネルが開業し、本州と北海道は鉄道で結ばれ、上野〜札幌間には直通の寝台特急「北斗星」が運転を開始し、話題を呼ぶが、これとて航空機からシュアを奪い返すまでのことはなく、現在に至っている。
 では、そろそろ本題に入ろう。航空輸送網の拡充は、鉄道一辺倒の時代には考えられなかった旅行の自由をもたらした。北海道に住む人が、気軽に九州や沖縄旅行を楽しむ。或いはその逆もそうだが、これらは航空輸送なくしては考えられないことである。だが、便利になった反面それは、"旅の楽しみ"を奪ったと言えるのではないだろうか。
 旅というものは、拠点から目的地という二つの点を結ぶ"線"にこそ、その楽しみがあるものだと思う。江戸時代における紀行文学の傑作「おくの細道」は、表現としてはかなり淡白ではあるが、そこに描かれているのはまさに線の旅ならではのワンシーンである。同じく江戸時代のフィクション傑作「東海道中膝栗毛」に描かれるのは、まさに線の旅の情景そのものである。
 ところが現代人の旅は、時間の制約が付いて回るがゆえ"線"をおろそかにし、点から点ばかりを巡ることに終始してしまっている感がありはしまいか。これは、学生かフリーターでない限り、旅行に費やせる日数が自ずから制限されてしまう今の日本の社会体制に端を発しており、欧米諸国なみに長期休暇を制度として定着させろ、などとのたまったところで、直ちにどうにかなる性格のことではない。現実に北海道から九州や沖縄を旅行するのに、航空機を一切利用しない旅程を組めば、社会人ならその往復だけで休暇を使い切ってしまうだろう。だから一目散に飛行機で目的地へ飛び、現地で命一杯楽しんで、帰りもまた飛行機で帰ってくる、というスタイルが自然とできあがる。と同時に、"線"としての旅の楽しみは失われるのである。

 むろん飛行機は便利な乗り物であり、その存在そのものを否定するつもりは毛頭ない。筆者とて実家方面で急ぎの用があれば飛行機を利用するし、いわゆる"旅"とは異質の移動に、必要以上の時間をかけることはナンセンスである。そのような時は早く目的地に着き、さっさと用件を終わらして帰ってくるに限る。ビジネスにおける出張などもこの部類に属そうが、要は使い分けが大事、ということではなかろうか。
 筆者の旅の場合、国内に関しては、先に述べたようなケースを除いては地上ないし海上の移動を身上としている。これは横浜で会社員生活をしていた時にも貫徹した。北海道や九州のような遠隔地を旅する時には、これゆえに現地における滞在日数が短くなることに思い悩んだことも無かったではないが、結果的にはその"序"のもたらしによって旅の始まりは大いに盛り上がり、限られた日数であっても現地での旅を大いに楽しんだ。終わりにも時間をかけることにより気持の切り替えができ、翌日からの仕事にも何らわだかまりなく入っていかれたと思っている。一方、首都圏に住む友人で、往復航空機を使い頻繁に北海道を旅行している人がいるのだが、その人は、
 「(北海道から帰って)職場に戻ったその日は、仕事に身が入らなくてどうしようもないよ・・・」
 とこぼす。性格の問題もあろうが、私的には時間をかけずに飛行機で帰ることに一因があると思えてならない。往復は無理としても、せめて片道のどちらかだけでも、飛行機に頼らず陸路ないし海路の旅ができないものであろうか。
 横浜時代、筆者の北海道旅行への出発は、寝台特急「北斗星」にこだわった。会社を定時(17時)に退ければ、上野発19時03分の北斗星5号(後のダイヤ改正により、現在では北斗星3号に相当)には十分乗れた。むろんその時間に上野を発つのであれば、羽田から千歳へ向かう航空機はまだまだあることは承知していたが、そんなものは眼中になかった。札幌までの16時間という所要時間は、何にも代え難い旅の"序"であった。
 上野を混雑する通勤電車群を見送って発車した北斗星は、都心の雑踏を抜け、やがて北関東のベッドタウン地帯も抜け、街の灯も疎らなみちのく路へと進む。その過程を、ロビーカーのソファーで缶ビール片手に見送るのは、旅立ちの夜には相応しい演出である。
 そして一夜が明けた頃、車窓に展開するのは、朝陽に輝く津軽海峡と函館山であり、季節毎の彩りをまとった小沼と、白樺林の向こうに聳え立つ秀峰駒ヶ岳であった。これらを目にするたび、月並みな表現だが、「はるばる(北海道まで)来た・・・」という実感が湧き上がった。上野から乗り換えなしの列車で北海道へ来れるようになった、という事実も、ある意味では、青函連絡船時代の感動を上回るものだったように思える。
 北海道からの帰りは、北斗星利用の場合もあれば、日程に余裕があれば、東北本線を普通列車乗り継ぎで帰ったこともあったが、最も印象に残っているのは、札幌から特急二本と新幹線を乗り継いで帰ったパターンである。札幌発11時40分の特急北斗函館行に乗り、函館からは特急はつかり盛岡行に乗り換える。これが盛岡から最終の上野(後に東京まで延伸)行やまびこ号に接続しており、23時30分くらいに上野(東京)に着いていた。そこから横浜の自宅まではさらに1時間はかかるので、翌日は眠い目をこすりながら仕事に向かっていたことを記憶しているが、旅を終わらしめ、翌日から仕事に復帰するインターバルとして、この半日に亘る移動は効果的であったように思う。
 後に札幌〜函館間には「スーパー北斗」が誕生し、東北新幹線の最高速度も240キロから275キロにアップ、現在(平成14年3月)同様のダイヤを辿ると、札幌発12時17分、東京着22時32分となり、前後合わせて一時間半ものスピードアップとなっている。しかし札幌に住むようになった今は、敢えてこのコースを辿りたいとは思わない。新幹線はあまり好きではないし、在来線を利用し、もっと時間を贅沢に使った乗り継ぎの方が遥かに楽しいからである。
 最近多用しているのが、札幌を初日の23時38分に出発し、新宿に3日目の早朝5時10分に到着するというパターンである。札幌と村上から二本の快速夜行列車で車中泊をするというなかなかハードなものだが、工夫次第では函館か青森周辺での温泉浴も可能で、奥羽、羽越線の普通列車が国電タイプのロングシート座席である点を我慢さえすれば、それなりに楽しい2泊3日である。
 首都圏から札幌に戻るのには、最近では大洗発室蘭行の航路をよく利用している。船中20時間と言うと、さぞ退屈だろう、と思うのは急ぐことに慣れた現代人の感覚である。船内にはレストラン、喫茶、ゲームコーナー、シアタールームにサウナ付きの浴室etc*といった各種設備があり、まさに"海上ホテル"の名に恥じない。地上交通機関とは比較にならない空間的ゆとりと合わせ、船ならではの満ち足りた時間がそこにはある。但し天候に大きく左右されるのが船の旅でもあり、一度海が荒れれば、ひたすらに長い苦痛の時間を過ごさねばならなくなる・・・過去の苦い経験もあり、筆者は、冬季の日本海航路には最大限乗らぬようにしているが。

 車で旅をする場合は、原則的に高速道路は使わず、一般道での移動を心掛ける。必要以上に急がない、というポリシーもあるが、高速料金が高いことと、一般に高速道路は山間部に設置されていることが多く、景色が概してつまらないというのも大きな理由である。横浜での運送会社勤務時代、全国の色々な高速道路を走ったが、広範囲で景色に満足したのは北陸自動車道くらいで、あとは精々、東名の静岡県内の一部区間くらいある。
 さらに、一度高速に上がってしまえば、目的地までは一般道に降りられないという不自由も付いて回る。いや、降りたければ降りてもいいのだが、そうすると料金はそのインターで打ち切り清算となり、通しで乗った場合よりかなり割高となってしまう。これは、新幹線の特急料金が、ホーム上での乗り継ぎなら通算するところを、改札口を出るとその駅で打ち切りとなるのに似ている。在来線を一般道に例えれば新幹線は高速道路のようなもので、そのルート選定や工法も似通ったものがあるのだが、料金システムまでも似通っているのはどうしたことだろうか。そんなことはどうでもいいのだが、新幹線にしろ高速道路にしろ、一度乗ったら目的地まで拘束されてしまうという点が、どうにも好きになれない。高速道路ではなく「拘束道路」と呼びたくなってしまうのは、果たして筆者だけだろうか。

 とまあここまで、筆者なりの"線の旅"へのこだわりを列挙させてもらったが、世の中を見回せば上には上がいるもので、ある友人に思いが至る。その人は宇宙関系の仕事に就いており、国内の種子島はもとより、アメリカのNASAにまで出張で行ったりしている。しかし、そんな日米を股にかけている人が、プライベートでは運転免許さえ持たず、自転車での旅にこだわっているのである。筆者も自転車で旅をしたことがないわけではないが、精々日帰りか1泊2日止まりであり、自転車で全国を行脚するその人の足元にも及ばない。古の旅の原点である徒歩に限りなく近い速度で進む自転車の旅こそが、現代における"究極の線の旅"なのかもしれない。

 しかし、スピード万能と思える現代においても、その速さゆえに嫌われたという事例が実はある。それを二つばかり紹介しよう。
 昭和63年、青函トンネルが開業し、青森〜函館間は最速の特急で2時間と、連絡船時代の半分の所要時間で結ばれるようになった。これに対し、フェリー業界最大手の東日本フェリーは、青森〜函館間にジェットフォイル(水中翼船)「ゆにこん」を就航させ、JRの特急よりも速い1時間40分で結んだ。フェリー埠頭がどちらも市街地から離れていることにも配慮し、青森、函館ともジェットフォイル乗船場は市街地近くに設けるという念の入れようだったが、旅客は思ったようには伸びず、平成8年限りで休航に追い込まれてしまう。
 これに替わり、翌9年に同間を2時間で結ぶ超高速フェリー「ゆにこん」が就航する。初代のジェットフォイルが旅客専用だったのに対し、二代目は乗用車ならびに積載2トン以内のトラックの航送も可能となり、期待を集めてのデビューであった。国内営業航路初の超高速船としても注目を集め、同年のシップ・オブ・ザ・イヤーにも選定される。  しかしそんな注目とは裏腹に旅客は伸び悩み、平成13年、「ゆにこん」は初代に引き続き休航となってしまった。船としては注目されたが航路としては成功しなかったわけで、超高速フェリーは僅か4年で姿を消すことになった。
 これをどう解釈すべきだろうか。推論だが、在来航路で4時間の青函航路を、敢えて急行料金(旅客七百十円、車両千六百九十円)まで払って2時間で渡りたいと考える客が、極めて少なかったということではないか。ましてやフェリーである。一般徒歩の客より、トラックならびに車両航送の客が大半なのは明らかで、そのような客が敢えて急ぐとも思えない。乗船している時間は、休憩時間でもあるのだから。
 乗り物には、相応の速度、所要時間というものがある。青函間のフェリーには4時間という時間が相応で、2時間では早すぎた、という解釈ができよう。決して、速いものばかりが好かれるわけではないのである。
 状況、事情はだいぶ異なるが、瀬戸大橋の自動車交通量と宇野〜高松間フェリーの関係も、これと同様の傾向が見られるので記しておこう。瀬戸大橋を含む瀬戸中央自動車道は、早島IC〜坂出IC間37.3キロを結ぶ自動車専用道路で、一息に走れば30分足らずで走り終えてしまう。ところがその通行料は全線で六千四百九十円と高く、これがネックとなって通行量は本四連絡橋公団の予測を大きく下回り、このままでは巨額の建設費の回収は不可能とさえ言われる始末である。
 一方、宇野と高松を結ぶフェリーは人気があり、宇高国道フェリー、四国フェリー、本四フェリーの三社が24時間体制で、国電のような間隔で運航している。料金は乗用車三千三百円と橋の半額程度で明らかに利があるが、所要1時間というのが、ちょっとした休憩になっていい、というのも人気の理由らしい。この両者の場合、一方の料金が馬鹿高く、また自走と航送の違いもあるので単純には言い切れまいが、速さばかりがもてはやされない一例には違いあるまい。

 では最後に、かつて旅先で世話になった方の言葉を記しておく。その方は幕末の志士たちが二十代から三十代という若さで一国の体制を変え、新政府を樹立したことに触れ、
 「彼らが若くしてあれだけの大きな仕事を成し遂げることができたのは、なぜだと思いますか。私が思うに、彼らは、時間をかけて旅をした。そこで様々な人と出逢い、様々なことを吸収し、成長した。だからこそ、若くしてあれだけ大きな仕事を成し遂げられたのだと。逆に今の人たちは、時間をかけて旅をしなくなった。だから彼らと同じ年頃の現代の若者は、人としての成長がはるかに未熟なのではないでしょうか・・・」
 と語った。当時21歳で、闇雲に旅をするばかりだった若輩の筆者にとって、この言葉は大いに蒙を啓かれるものであった。
 それから一回り以上の年月が経過した今でも、その言葉をはっきり記憶している。むろんそれは今でも正論だと思っているが、最近ではそれに自分なりの考えを付加するようになった。時間をかけて旅をすることで、嫌が応でも自分自身と対話、すなわち自問自答の場ができる。それにより、自分が何をすべきか、自分がどうあるべきか、を追及し、結果、自分を高めて行くことができる、のだと。旅とは、出逢い、ふれあいの場であると同時に、自己練磨の場でもあるのだと。

 ともあれ、これをお読みの方々は、次の旅の機会に、往復は無理でも、せめて片道くらい、"線の旅"をされてみては如何か。大袈裟に考える必要はないと思う。時間をかけることを「無駄」と思わず、時間を費やす「贅沢」ととらえる気持の余裕さえあれば、きっとこれまで見えなかった「何か」が発見できるであろうから。(完)
 


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 さて、如何だったでしょうか。コラムがだいぶ長くなってしまいましたが、内容的に前、後編とすると内容がぼやけてしまいかねないものだったので、敢えて一度で掲載させていただきました。どうぞご理解を。 ところで今号執筆中、残念なニュースが入ってきました。コラムでも取り上げた大洗と室蘭を結ぶ航路が、休航となるというものです。同航路を運航する東日本フェリーによると、景気低迷により輸送量の落ち込みが続き、今後は大洗〜苫小牧間を運航する商船三井フェリーに共同運航を申し入れ、話がまとまれば、大洗〜室蘭航路は5月中にも休航するとのこと。東京と北海道を結ぶ旅客フェリーが撤退して久しいのですが、ついに大洗〜室蘭航路までもがリストラの対象となるとは・・・確かに乗るたびに空いていて、これで週12便運航なら、オフシーズンは赤字かな・・・などと漠然と思ったことはありました。しかし、無人航送は賑わってるようで、その積み込みが長引き、出航が遅れたこともあったので、まさかそこまで切羽詰まっているとは思ってもみませんでした。このところ、定番になっていた航路だけに、よけいに残念です。
 では今号はこのへんで。春の便りも届くこの頃ですが、北海道はもうしばらく、冬を引きずりそうです・・・
 
 

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