札幌発旅人通信 2003年初春 第13号

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 新年、あけましておめでとうございます。  すっかりご無沙汰してしまった旅人通信ですが、ここに無事(?)復活しました。
 さて昨年はというと、仕事の合間を縫って、南の方ばかりを旅していた一年でした。1月は屋久島へ足を運び、4月は南薩、そして9月にも南薩を巡りました。「何で?」と聞かれるかもしれませんが、それにはうまく答えられそうにありません。そもそも旅に出るということ自体が、明確に何かを求めるというより、ただ漠然と、どこかへ行ってみたい、という衝動から始まるのと、同じ次元のことと思います。但し確かなことは、南薩をはじめとする鹿児島という土地は好きでも、住んでみたいとまでは思わないということです。何だかんだと言いながら、生活の拠点とするには、ここ北海道、札幌という街が一番であることは、変わりがありません。
 一方道内では、2月は流氷を見にオホーツク沿岸を旅し、初夏は雨竜沼へ足を運び、秋は紅葉と美味いものを求めて道央、道東へ足を運びました。道外へ出かけるのと比べて日数は限られましたが、どの季節もそれぞれに充実した旅であったように思います。今年は果たして、どんな旅がくりかえされるのでしょうか・・・

 さて旅人通信では、今号より新企画「北海道廃線探訪」がスタートします。全国的に、廃線となった鉄道跡を訪ね歩くのが静かなブームとなっているようですが、この企画は北海道在住の筆者ならではの視点と機動力で、道内の鬼籍入りしてしまった鉄道跡をたどってみたいと思います。なお、実地取材が不可欠な企画だけに、同様な取材が必要とされる「サッポロ・タウンハイク」との同じ号での重複掲載はなしとさせて頂きたくご了承願います。また、「グルメ情報」は、今号より「北海道食べある記」と改称し、従来とはやや視点を変えてお届けしたいと思っています。

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 新連載 北海道廃線探訪

 第一回 定山渓鉄道

 「定山渓鉄道」を知る人は、道内はもとより札幌在住の人でも、ある程度の年配の人々に限られるだろう。無理もない話で、同鉄道は昭和44年に廃止されているのだから。
 しかし、「じょうてつ」と聞けば、道内全域では定かではないが、札幌市内と近郊の人なら、大半がその名には覚えがあるのではないだろうか。路線ならびに観光バス事業、不動産販売、スーパー、ホームセンター経営・・・かつての鉄道会社は、今は関連事業を生業として生き続けているのである。
 定山渓鉄道株式会社は、簾舞(みすまい)地区に集積される木材ならびに農産物、豊羽鉱山から産出される鉱石輸送を主たる目的とするほか、定山渓温泉への行楽客輸送などを定款に掲げ、大正4年12月、軽便鉄道法による特許を得て設立される。当初は、国鉄苗穂駅を起点に、定山渓に至る27.2キロが計画されたが、大正2年夏の大洪水で豊平川岸が各所で崩壊し、用地の買収が困難になったのと、橋梁の建設費が予算を大幅に超過するという理由で、起点を豊平川を渡らずに済む白石に変更し、大正6年4月に工事着手、翌7年10月に開業する。
 開業当初は国鉄払い下げのタンク式蒸気機関車が使用されたが、昭和4年10月には東札幌〜定山渓間が電化され、電車導入により輸送力の増強が図られる。鉄道開通により沿線の開拓も進んでいたが、定山渓温泉の行楽客も増加し、温泉街も大きく発展する。これにより乗客、貨物も増加の一途を辿り、定山渓鉄道もまた発展する、という好循環であった。
 太平洋戦争末期の昭和20年3月、軍への戦時供出により東札幌〜白石間は廃止されるが、戦後の昭和32年には気動車による札幌駅乗り入れも実現し、利便性は大きく向上する。
 しかし昭和30年代半ば以降は、札幌の急激な市街地化とともに道路整備が進んだ結果、定鉄線の乗客も減少の一途を辿り、貨物輸送も次第にトラックに取って代わられる。幹線道路と交差する踏切での渋滞も常態化し、次第に定鉄線はお荷物扱いを受けるようになる。
 そして廃止への決定打となったのが、札幌市より出された主要幹線道路との立体交差化要請であった。これには、冬季五輪を睨んでの地下鉄建設計画で、終端の区間が定鉄線とほぼ並行しており、その区間を地下方式で建設するより、定鉄が廃止となり、その路線跡に地上方式で建設したほうが工費が遥かに安く済む、といった当局の思惑もあったようである。実際に苦しい経営に陥っていた定鉄に立体化の資力はなく、昭和44年10月、定鉄線はその歴史に幕を下ろしたのである。
 では、その線路跡を実際に辿ってみることにしよう。但し、白石〜東札幌間は廃止時期があまりに早く、後の急激な市街地化でその痕跡を辿ることは限りなく困難と思われるので、ここでは最後まで存続した、東札幌〜定山渓間を訪ね歩くことにする。

 東札幌駅は、千歳線のルート変更により貨物駅となった後、昭和61年11月に廃止となっている。その広大な跡地は、長く活用されることのないままになっていたが、一昨年よりようやく本格的な再開発が着手され、札幌コンベンションセンターの工事が急ピッチで進んでいる。その辺の経緯については、本誌第十号「サッポロタウンハイク」中に詳しいので参照されたし。
 昨年、市民情報センターなどがオープンし、もはや駅の痕跡は皆無の広大な敷地南端の、お茶の卸し会社の建物あたりがかつての線路跡では、と見当をつけて道道札夕線を越えると、南へ伸びる道路の東側には、広大な駐車場が広がる。少し前の地図に拠ればこの一帯は東急倉庫の建物が建ち並んでいたようだが、どうやらこのあたりがかつての車両基地の跡地と思われる。さらにその先にはじょうてつ興産が経営する札幌東急ストアーの配送センターや食品加工工場があり、かつての線路跡地に現在の関連企業が建ち並ぶのは、自然な姿と言えようか。
 その先、白石区と豊平区を隔てる東北通と、その南を走る通称二条通の間には、東側の北海道マイホームセンターに面した道路沿いに、妙に奥行きの限られた住宅が建ち並ぶ。さらにその先で国道36号線とぶつかるまでのところも、道路に面して妙に細長い敷地の、じょうてつ系のガソリンスタンドがある。一般常識的に考えれば、どうしてこんな窮屈な土地割をするのか、とも思えるが、線路跡の土地と知って見れば、なるほど、と納得できるものではある。
 そして市内でも屈指の交通量を誇る国道36号線を渡ると、そこにはじょうてつ本社の建物がある。国道に面したじょうてつ観光の建物こそ外壁はリニューアルされているが、本社の建物はモルタル壁に赤いトタン屋根のレトロ調のもので、かつては豊平駅の駅舎だった建物である。東側にあたる裏手にはかつてのプラットホームがそのまま残っていて、すでに使用されなくなったホーム上には、灯油タンクやエアコンの室外機が設置されてしまってはいるが、ホーム下の駐車場は現在も砂利敷きで、列車が行き交っていた頃を彷彿とさせるには十分な遺構である。
 さらに線路跡らしき砂利敷きの駐車場の先には、東急ストアーとホームセンターの東急アルテが南北に向かい合っている。その東西の幅は、明らかに鉄道敷地跡を凌駕しているが、そのどこかにレールがあったことは間違いない。
 線路はその先で交差する豊園通を過ぎたあたりで左にカーブし、ほぼ進路を真南へと変えていたはずだが、この豊平から平岸にかけての一帯は完全に宅地化されており、線路の痕跡は全くといって見出すことはできない。平岸3条と4条を隔てる道路がどうやら線路跡と思われ、殊にその4丁目から7丁目にかけての緩やかなカーブの加減が、鉄道の跡ならでは、と思わせてはくれるが。
 さらに南下すると、9丁目からは中央にグリーンベルトを持つ広々とした道路となる。地下鉄の開削工事が行われた跡と思われ、札幌環状通を越えた10丁目で、地下より巨大なイモムシを思わせる銀色のシェルターが出現する。この先真駒内までは、定鉄線跡は完全に地下鉄南北線の高架に踏み潰されており、線路の痕跡は皆無となってしまう。
 地下鉄と並行する平岸通を進み、多くのバスが発車を待つ真駒内駅を過ぎると、道路左手には森林が続く。徐にそこへ分け入ってみると、下草の生い茂る先に線路跡の道床らしき盛り上がりが確認できる。地元では散歩道として使用されているらしく、それに沿って踏み分け道が続いている。それは一旦、西岡から伸びて来た道道との交差点手前でじょうてつのバス待機場となり途切れるが、その先で道路に挟まれた緑地として復活する。ここからは南区の設置した「サッポロウォーキングトレイル」なる遊歩道となり、完全に線路跡に忠実ではないだろうが、その跡を辿ることができる。遊歩道、もとい線路跡は、右手の住宅地の尽きるあたりで坂を上り、国道453号線の石山陸橋にぶつかる。ここから石切山(現石山)にかけては急な下り坂で、道道の北側には「サッポロウォーキングトレイル」が復活する。この区間では、案内板にも「定鉄線跡」の文字が見られる。
 そのまま下り、石山北公園まで来ると、公園と道路を挟んで続く、交番や公営住宅の建つ細長い土地が線路跡のようである。やがて現れるのは赤いトタン屋根の旧石切山駅で、かつての建物がそのまま商店街の振興会館として利用されている。石切山の名は、かつてはこの一帯が札幌軟石の切り出し地として栄えたことに由来し、現在でも、南側の山の懐には軟石の岩盤が露出し、付近にはそれをふんだんに使った石造りの蔵や石垣、石塀が散見され、また石材加工工場も見られる。
 その先では線路跡は学校や商業施設に踏み潰されてしまっているが、石山通こと国道230号線を越えた藤野地区で、住宅街の中にあたかも遊歩道のような面持ちで再現する。やがてそれは藤野こども緑地への取り付け歩道となって緑地の中へと続くが、石山通に近い緑地の正面口付近から先では、痕跡はおぼろとなってしまう。
 その先ではこれといった痕跡は発見できないまま西へと進むが、線路敷だったと思われるあたりに東急ストアーがあるのは、やはり、という感じではある。
 やがて簾舞地区に至ると、まず簾舞小学校の裏手付近で、線路跡と思しき土塁を発見する。それを辿ると、やがて広大な木材加工場の敷地へ至る。どうやらここがかつての簾舞駅のようで、林業不振の現在では活気は感じられないが、この広大な敷地が一つの駅であったとすれば、それは往時は大変な賑わいであったのだろう。そこから西へ向かっては、確かに線路跡と見られる小径がしばらく続くが、やがてそれは森林へと消えて行った。
 その先、豊滝や小金湯付近では国道は豊平川からかなり高いところを通っており、ところどころで川の方へ下りてはみるが、線路の痕跡は見出せないままに、定山渓温泉街へ。市街地の入口付近の、国道と並行した"側道"的な道が線路跡のようで、やがてその道はかつて白糸の滝駅があったという、北海道秘宝館の敷地へ至る。そこから先は完全に温泉街の市街地で、もはや何の痕跡も見出せぬまま、かつて終点定山渓駅があったとされる定山渓スポーツ公園へ至る。ここでも駅の痕跡は何もなく、最後は盛り上がりのないまま、定山渓鉄道を辿る旅は終った。
 こうして線路跡を辿ってみた感想は、より自然が残っているはずの終点付近ではこれといった痕跡が見出せなかった半面、豊平、石切山(現石山)、藤野といった、市街地ないしそれに近い郊外に、明快な遺構が確認できたことが意外だったということである。特に旧豊平駅は、市の中心部から僅か数キロという立地にもかかわらず、ビル化されたり、或いは売却されることなく、この平成年間まで往時の姿をとどめながら生き長らえていることに、驚嘆の思いを抱かずにはいられない。
 歴史の浅い北海道においては、この旧豊平駅のような建物は、十二分に"近代遺産"的な価値を持つ。しかしこのまま経年が進めば、じょうてつとしても建替えないし移転を考えることは自然の理である。それにより、"近代遺産"が失われてしまっていいのであろうか。市や道よって、近代遺産としての保護が打ち出されても良いのでは、と私的には思うのであるが。

 そして今、札幌の市街地は飛躍的に拡大し、石山、藤野地区までもがベッドタウンとして大きく発展した。この結果、市中心部と同地区を結ぶ石山通こと国道230号線の朝晩の渋滞は常態化し、通勤、通学の足をマイカーとバスに頼らざるをえない地域住民からは、地下鉄延長の請願が出されたりもしている。しかし現実には、赤字による膨大な累積債務を抱え、民間会社ならとうに破綻している、と指摘される市交通局が路線延長に動く可能性は限りなく低い。もし仮に、定鉄線がこの時代にまで存続していたならば、通勤通学の足として大いに利用されていたに違いない。
 思えば、定鉄線が廃止された昭和40年代半ばは、モータリゼーションが進行する真っ只中であった一方、後にここまで札幌の街が広く発展するとは、俄かには考えなかった時代であったろう。そんな時代の狭間で廃止に踏み切らざるを得なかった往時の経営に携わった人々は、後の札幌の発展を、どんな思いで見つめたのであろうか。
 さらにこれは筆者の私見だが、市としては冬季五輪開催で真駒内までの地下鉄設置が必須であったのだろうが、その路線設定において、定鉄との"共存"の道も探れたのではなかったかと思う。具体的には、東札幌から、定鉄線と地下鉄計画線の交差する南平岸(旧霊園前)までの区間は、乗客の地下鉄への転移が明らかなために廃止とし、その先の真駒内までの区間については、定鉄、地下鉄の共用区間とし、同区間の複線化、さらには高架化、シェルター化といった付加工事については、市がその費用を負担する。そして真駒内から定山渓までの区間は、従来通りの単線のまま、定鉄線として存続する。定山渓に向かう行楽客も、南平岸ないし真駒内駅の同一ホームで乗換えができるのであれば、大いに利用したであろう。何はともあれ、はじめから廃止ありきではなく、このような柔軟な姿勢が市にあれば、石山、藤野地区の交通地図は、今とは大きく異なっていたに違いない。
 とは言いつつも、現在ではモータリゼーションと少子化の影響で、JRはもとより私鉄各社でも旅客は減少の一途を辿っており、地方私鉄の廃止は毎年のように続いている。仮に定鉄線がこの時代にまで存続していたとしても、果たして経営的にどうであったかは、甚だ疑問である。だが、実際に車を運転し、国道230号線の渋滞に巻き込まれる度に、
 「もし定鉄線があったなら、この渋滞もいくらかは緩和されていたのでは・・・」
 と思うこと頻りである。
 時代の流れに翻弄され、廃止に追い込まれてしまった定山渓鉄道。しかし、今日もなお、札幌の奥座敷として多くの行楽客が訪れる定山渓温泉、そして国内でも有数の優良鉱山として名を馳せている豊羽鉱山発展の源に、定山渓鉄道の存在は切っても切れないものであった。そして旅情という点で、市中心部から電車で30分強揺られての温泉浴というのも、大いに魅力的であったと思える。せめてもう十余年早く生まれていれば、学生時代に北海道を訪れ、定鉄線に揺られる機会もあったのだろうが、それは残念ながら、夢物語でしかないのである。(完)
 

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 連載 北の湯めぐり

 番外編 レジオネラ菌騒動と循環温泉に思う

 

 昨夏、宮崎県の温泉施設でレジオネラ菌の集団感染が発生、多数の死者を出すという大きな騒動となった。
 レジオネラ菌は、自然界の土中などに生息している雑菌の一つだが、摂氏30℃前後の温度で最も繁殖する。宮崎の温泉施設では、汲み置いた温泉水を濾過、循環して使用する設備を使用していたため、レジオネラ菌の最も好む温度帯で循環されていた温泉水で菌が大量に繁殖、集団感染に至ったというものである。
 この菌は自然界に存在するため、仮に人体内に入っても、健康な成人なら感染症を発症することはほとんどないという。但し、抵抗力の弱い乳幼児や高齢者、さらに成人でも病中病後などで体力、免疫力が低下している場合、発症の危険が高いという。今回の宮崎での犠牲者も、例外なく高齢者ばかりであった。
 実は以前にも、レジオネラ菌感染の危険が取り沙汰されたことがあった。80年代後半から90年代にかけてブームとなった、いわゆる"24時間風呂"でレジオネラ菌感染が相次ぎ、販売店やメーカーの責任を問う訴訟が起こされたりして、ちょっとした社会問題となったことを記憶されている方も多いと思う。今回の温泉施設の循環設備というのも、24時間風呂と原理的にはほぼ同じシステムである。かつて危険性が指摘されながら、それと同じシステムを大規模な温泉施設に導入した背景を、まず探らねばなるまい。
 実は、こういった浴場の濾過循環設備というのは、銭湯やサウナ、ホテル、旅館の浴場、そして温泉施設などで、かなり広く一般的に用いられているのである。何故かといえば、ただ貯め置いたお湯だと、多くの人が入れば当然時間とともに汚れてしまうが、濾過循環していれば、見た目的には常に清潔なお湯であるように見えるということが大きい。その実、雑菌が繁殖していれば、身も蓋もないことなのであるが・・・
 また、大規模温泉地の一部では、宿泊施設の大型化、さらに最近では客室に露天風呂付き、といった施設も多くなり、源泉の供給量が需要に追い付かず、貯め置いたお湯を循環利用せざるを得ない、という事情もあるらしい。その逆で、市町村がボーリングで掘り当てた公営温泉などの小規模施設では、分間数十リッターという微々たる湧出量しかないところが多々あり、そのようなところでは、循環利用しない限り施設が成り立たない、というのも現実なのである。
 そういった背景が全く理解できないこともないが、天然温泉を売りに商売をしている施設が、実は汲み置き濾過循環温泉であるとしたら、それは利用者への背信行為とも受け取れる。もちろん、程度の違いはあり、例えば、濾過循環しているとはいえ、毎日お湯は取り替えているというのであれば、その施設は良心的と思っていいだろう。だが、数日ないし一週間近くも同じお湯を繰り返し使用している施設があったなら、それは利用者を明らかに馬鹿にしている。宮崎の施設がそうであったかどうかはわからないが、少なくとも濾過循環使用の結果がレジオネラ菌の集団感染という忌々しき事態では、弁明の余地はあるまい。
 この宮崎の"事件"を機に、道内の入浴施設でも自主的なレジオネラ菌検査を行うところが相次いだ。その結果、旭川や稚内など、数箇所の施設(いずれも濾過循環設備使用)でレジオネラ菌が検出された。不幸中の幸いは感染者の報告こそなかったことだが、いずれの施設とも消毒と設備改修のため、自主的な長期の休業を余儀なくされた。このうち稚内の施設は、筆者も度々利用していただけに、対岸の火事では済まされぬ衝撃を受けた。
 しかし今回のレジオネラ菌騒動が、「温泉は危ない」というマイナス方向の動きばかりを示唆したかというと、決してそんなことはなかった。自主的にレジオネラ菌検査を行う施設が増えたばかりではなく、安全性確保に具体的な動き、つまりプラス指向を志す施設がかなり見受けられたのである。
 例えば、釧路管内の「憩いの家かや沼」(標茶町)では、ガラスの仕切り戸の下でつながっていた露天風呂と内風呂の浴槽を改修し、それぞれを独立した浴槽とした。レジオネラ菌は自然界、特に屋外に生息する雑菌のため、露天風呂から浴室内にまで入り込まぬように、との配慮である。もともとこの施設では、お湯の循環は一切行っておらず、100%使い流しの天然温泉を売りにしていのだが、それに加えてのこの配慮には、頭の下がる思いである。同様の理由で屋外にあった洗い場をなくすところも少なからずあり、夏には青空の下で豪快に身体を洗う、という楽しみが味わえなくなることは残念だが、その方針は大いに評価できよう。
 また、筆者も足げよく通っている石狩管内の「しんしのつ温泉アイリス」(新篠津村)では、検査の結果、レジオネラ菌の検出はなかったものの、より一層の安全確保のため、従来までのお湯の循環使用をやめ、掛け流し使用とした。一昨年、二号井の掘削により高温泉を得て、浴用加熱なしの温泉となっていた同施設だが、これにより、濾過循環も行わない、まさに本物の温泉となったわけで、ファンにとっては嬉しい限りである。
 しかしそんな動きをよそに、従来と変わらない濾過循環温泉が多数あることもまた事実である。いかに薬効成分を含んだ温泉水であっても、数日間も濾過循環を繰り返されていれば、効能は限りなく失われているであろうし、レジオネラ菌に限らず、どのような雑菌が繁殖しているか知れたものではない。身体に良いはずの温泉が、実は害をもたらしていた、ということが現実に起こったのだから、これからの温泉選びは、以前にも増して慎重を期さねばなるまい。
 幸い最近では、温泉施設のガイドブックで、各施設の濾過循環装置の有無を明示したものも登場している。施設側がそうした情報までも開示するということは、利用者サイドの安全意識の高まりを受けてのものだろうが、そうした情報を一々チェックしなくては温泉にも安心して入れないというのも、考えてみれば寂しいことである。今回の問題を機に、しんしのつ温泉のように濾過循環を自主的にやめるところが続くことを期待したいものである。(完)


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 グルメ情報

 鵡川のししゃもすし

 秋の北海道は、美味いものが目白押しである。自宅でイクラを漬け、サンマを捌いて刺身にする。本州では高級食材とされるものが、北海道においては手頃な価格で家庭でも楽しめる。しかし中には、これだけはご当地に出向かなければ、というものもいくつかある。旬の生ししゃもを握ったししゃもすしもその一つで、しかも季節も限定というかなりレアなものである。旬の味を求めて、鵡川町へ足を運んだ。
 紅葉、そして旬の美味いものを訪ねる、秋の北海道の旅。道北から道東を回り、十勝から天馬街道を経由して日高路へ。左に太平洋、右に競走馬の牧場を見送りながら進路を北西に取ると、やがて日高から胆振へと入り、町の名にもなっている流量豊かな鵡川を渡ると、間もなく鵡川市街地へと到達する。
 道南の苫小牧から襟裳岬を経て釧路付近までの太平洋沿岸が、国内でもここだけというししゃもの漁場である。資源保護のためにその漁期は限定されており、最近でこそ生干しの冷凍ものは道内では年中出回るようになったが、生のものを握りで食べられるのは漁期中に限られる。まさに秋の一時期限定の、ご当地ならではの味である。
 国道から逸れて市街地へ入ると、メインストリートの商店の店先には、ズラリとししゃものすだれ干しが並ぶ。そんな中でもそれがひときわ目立つ一軒、「大野商店」へと歩を進める。
 広い店内には保冷ケースに無数のししゃもが陳列されているが、それらには目もくれず、奥の握りすしコーナーへ進む。ししゃもすしが、六貫六百円、八貫八百円、つまり一貫百円で味わうことができる。
 この店の嬉しいところは、店内で食べてもよし、また持ち帰りにも応じてくれるという点である。店内で食べる場合、すしに限らず、生干しを焼いて食べることもできるし、自家製のししゃも汁も味わえる。
 さて、肝心のすしを食すとしよう。見た目にはよくある白身魚の握り風だが、口に入れた瞬間、一般的な白身魚にはない脂が口一杯に広がる。といっても決してしつこい脂ではなく、独特の甘みとともにすんなりと咽に吸い込まれていく。白身魚としては異色の味わいだが、まさにこれこそがししゃも、という味である。
 そして当地限定の食材ながら、握り一貫百円という手頃な価格で味わえるというのも有難いことである。庶民に手の出ないような価格なら、敢えて手間暇をかけてまで当地に足を運ぶこともしまい。鵡川のししゃもすし、毎年秋の定番となりそうである。(完)

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 旅人コラム

 再編相次ぐ道対本州交通網

 

 昨年6月25日、エア・ドゥこと北海道国際航空(以下エア・ドゥ)が東京地裁に民事再生法を申請、実質的に経営破綻した。以後も運航は継続され、全日空との包括提携下で再建が模索されることとなったが、「道民の翼」を標榜して飛び立った同社の運航開始からわずか3年半での破綻に、多くの道民の落胆は否めないところであろう。
 エア・ドゥは、道内経済人が中心となって平成8年に会社が設立され、同10年12月、国内では東京〜福岡間のスカイマークエアライン社に続いて二例目の新規参入航空会社として、東京〜札幌間に就航する。大手の四割安という通年片道1万6千円という格安運賃が利用者にうけ、当初は高い搭乗率での順調な滑り出しをする。しかし間もなく、大手三社が割引攻勢を開始すると、便数が限られ、かつ機内サービスなどでも見劣りのするエア・ドゥの搭乗率は低下の一途をたどり、経営的にも逼迫する。
 有効な打開策が見出せないエア・ドゥは、同12年12月、道や札幌市、道内経済界から二十五億円の融資や出資を受ける。援助はそれにとどまらず、翌13年7月にも道から二十億円の支援を受けた。これに対し、「道民の翼を標榜するものの、運賃値下の恩恵に授かっているのは道央圏の人々だけで、道民の血税投入には反対」といった声も多く上がったが、とりあえずこれらの融資により、当面の資金難は回避された格好となった。
 ところが、一昨年9月のアメリカでの同時多発テロ以後、航空保険料が急騰し、エア・ドゥは再び窮地に陥る。同年末には国に支払う空港使用料を十億円以上も滞納するという異常事態に陥り、昨春、機体リース会社との間でリース料の減額交渉が成立したものの焼石に水で、同3月の決算では累積赤字が七十五億万円に膨らみ、資本金七十二億円弱に対して約三億円の債務超過が明らとなる。それらの動きと並行して、道議会にはさらなる資金援助が諮られるが、先にも述べた道民感情を配慮してか、議会は融資には慎重な姿勢を見せ、エア・ドゥも今回の援助は断念やむなしとなる。こうして万策尽きた同社は、民事再生法を申請する運びとなったのである。
 破綻に至った原因は一口には語れない多くがあろうが、敢えて物申せば、「道民の翼」的なムードに流され、ただ安く、という以外、明確な経営理念を示せなかったことが挙げられるのではないだろうか。大手三社がいずれ価格面で対抗してくることは当然予想できたはずで、価格以外の付加価値面で、何か独自色を打ち出すことはできなかったのであろうか。そういった努力を殆どといってしないまま、「資力に勝る大手による弱いものいじめに負けた」という理屈は、おいそれと受け入れられはしまい。
 さらに一部の識者からは、中型機のボーイング767型を導入したこと、さらには、札幌〜東京路線への参入を選択したことへの疑問も呈されている。前者の疑問は、例えば小型機のボーイング737型機クラスを使用していれば、機体リース料も安く、座席数も少ないから搭乗率の心配もさして必要なく、新規参入の経営規模に見合っていたのではないか、というものである。筆者はこの方面の知識には乏しいので立ち入ったコメントは避けるが、少ない投資で効率運用ができれば利益が上がることは、素人目にも明らかである。
 後者は、さらに専門的分野の話となるが、一般的に"ドル箱路線"と言われる札幌〜東京線は、実は季節による旅客変動が大きく、閑散期はツアー客への依存度が高く、大手三社は閑散期の座席の相当数を安価で旅行会社に卸すことで搭乗率を確保しているという。エア・ドゥも道などからの支援を受け経営再建策を打ち出す中、ツアー客の取り込みを挙げもしたが、搭乗率向上にはつながれど客単価下落となり、経営改善には結び付かなかった。そういった難しい路線に参入してしまったことがそもそもの間違い、と言ってしまっては身も蓋も無くなるが、そんな"難しさ"を事前に認識していたなら、その後の経営方針も少しは違っていたのでは、と思わずにはいられない。
 この他にも、機体整備を初期投資を惜しんで日本航空への外注とした結果、高額な整備料を支払い続ける結果となったこと、東京での営業拠点が脆弱で、首都圏の利用客を開拓できなかったことなども指摘されている。これらを精査する専門知識も紙幅もないのでこれ以上は触れないが、こういった多くの問題点を抱えたまま見切り発車ならぬ"見切り離陸"をしてしまったエア・ドゥの破綻は、時期の遅早はともかく、不可避なものであったようにも思えてくる。
 今後は、全日空との提携下で再建が図られることとなるが、収支改善策の柱として挙げられているのが「コードシェア便」の運行である。これは、一つの便に対して二社それぞれのコードにて予約、販売を行うというもので、日本では前例がないが、欧米では一般的に行われているものである。エア・ドゥにとっては自社便の搭乗率向上が期待でき、全日空側では、より多くの便を自社コードで販売できるというメリットがある。このほど発表されたその内容はというと、エア・ドゥが一日6便の座席のうち、半数を事前に全日空に販売し、半数ずつを両社それぞれ自社コードで販売するというものである。その結果、この二月以降は、同一の便でありながらエァドゥで予約、購入した客は通常期片道二万七百円、全日空で予約、購入した客は二万五千二百円と、同一便でありながら価格格差が生じるということになる。現実には、両社とも各種の割引運賃を用意しており、全ての客が同一の価格で搭乗することは有り得ない時代ではあるが、この「ダブル・スタンダード」がすんなりと利用客に受け入れられるかどうかは、予断を許さぬところではあろう。

 海運業界では、小誌前号でも触れたが、フェリー業界最大手の東日本フェリーが大洗〜室蘭航路を休航し、昨年6月より大洗〜苫小牧航路を運航する商船三井フェリーと同航路の共同運航を開始した。
 この両航路の歴史は、大洗港にフェリー埠頭が開設されることになった1980年代、北海道側の受け皿として、苫小牧、室蘭の両市が名乗りを挙げたことに始まる。その結果「苫蘭戦争」とまで呼ばれた両市による激しい誘致合戦の末、政治決着で両港と大洗を結ぶV字形航路の開設となったのである。
 東日本フェリーによる大洗〜室蘭航路は、昭和60年3月に運航開始、当初は週三往復六便体制でのスタートだったが、バブル景気の後押しもあり、やがて週六往復十二便体制となる。しかしバブル崩壊後は輸送量の落ち込みと、対大口顧客への割引拡大による実勢運賃低下で、収支は急速に悪化する。
 同社は、貨物車以外の乗用車ならびに一般旅客獲得策として、平成11年4月から航路開設15周年にあたる翌12年3月まで、運賃の最大50%という大幅割引キャンペーンを行う。この割引は新造船就航記念と称して12年度も継続され、13年には規制緩和で各種の運賃が認可制から届出制になったことをうけ、乗用車、一般旅客の正規運賃が大幅に値下げされる。しかしそれも収支改善には結び付かず、結果休航という選択肢を選ぶこととなったのである。
 大洗と室蘭、苫小牧間の海上距離は大差がないが、一大消費地である札幌への地の利は室蘭と比べ50キロほど近い苫小牧が有利で、この点で室蘭航路は苦戦を強いられていた。航路休止の打診を受けた室蘭市では、東日本フェリーに対して港湾施設使用料の大幅減額を申し入れたが、「会社存続に関る危機」とする同社の姿勢は変わらず、大洗〜室蘭航路は、17年の歴史に幕をおろしたのである。
 この結果、東京と北海道を結んでいた旅客フェリー航路はすでにないので、首都圏対北海道のフェリー航路は、貨物便を除き大洗〜苫小牧航路のみということになってしまった。その大洗〜苫小牧航路とて、果たして安泰かどうかは疑問符が付く。というのは、かつて同航路を運航していたブルーハイウェイライン社は、累積赤字による債務超過で再建を断念して会社を清算し、同航路を商船三井フェリーに営業譲渡したという経緯があるからである。
 むろん、会社が清算されても航路としては存続したのであるから、航路そのものが直ちになくなることはないだろう。だが、共同運航による週十二往復二十四便体制が今後も続くかどうかは予断を許さぬところで、今後の動向が気になるところである。

 そして陸路の鉄道では、昨年12月、東北新幹線の八戸延長開業に伴い、対北海道のアクセスが改善された。盛岡と青森(一部列車は函館)を結んでいる特急はつかりに代わり、八戸〜函館間にJR北海道の新型車両を使用した特急"スーパー白鳥"、ならびにJR東日本の在来車両を使用する"白鳥"がデビューした。新幹線延伸とアクセス改善により、鉄道による東京〜函館間は最短5時間58分となり、従来の7時間台から大幅な短縮となった。これによって直ちに航空機の牙城を突き崩すことができるとは思えないが、鉄道ならではの面による集客の利を生かし、埼玉、栃木県といった北関東から道南へ向かう需要の取り込みを、JR北海道では期待している。また、低迷を続ける津軽海峡線の旅客需要テコ入れも期待されている。なおこれにより、青函トンネル開業以来、連絡船に代わって本北輸送の任に就いてきた快速海峡は全廃され、その役目を終えた。この結果、函館と青森を結ぶ旅客列車は、一往復の急行はまなすを含め全てが優等列車となったが、その救済措置として、木古内〜蟹田間は特急の自由席に普通乗車券のみで乗車できる特例区間となった。
 一方、人気堅調な寝台特急カシオペアと北斗星は、東北本線の盛岡〜八戸間が第三セクター鉄道に転換されたため、北斗星の東京〜札幌間で見ると運賃、特急寝台料金の合計額で一七四〇円の値上りとなったが、運転経路に変更はなく、ダイヤもほぼ従来通りのままで運行される。その一方で、北海道連絡の任からは遠ざかって久しいものの、かつては上野〜青森間を、東北新幹線船開業後は盛岡〜青森(一部列車は函館)間を走り続けていた伝統の特急はつかりと、上野と青森を結んでみちのくの夜を走り続けてきた老舗の寝台特急はくつるは、その長い歴史に終止符を打った。

 さて総括であるが、まず航空機は、筆者にとってはあまり縁のない交通手段ではあるが、エア・ドゥ破綻の余震は、道内ではまだ続いている。再建計画により資本金の全額減資がやむなくなり、これまでに出資した企業、個人の所有する全ての株式が紙屑となる。その上で新規の出資者を募ることになっているが、当然ながら新たなスポンサー探しは難航しており、先行きは不透明である。また、
 「全日空傘下に入った以上、もはや"道民の翼"とは言えない」
 と、これまで利用促進に腐心してきた個人出資者によるサポーターチームの解散も相次いでおり、急速な道民離れも進んでいる。
 これに対してエア・ドゥは、
 「全日空との提携下でも、従来の経営理念、方針に変更はなく、低運賃という基本方針は変わらない」
 としているが、限りなく傘下入りに近い包括業務提携の下でどれだけ独自性を発揮できるかは、全くの未知数であるとの危惧は根強い。今後、どのような経営方針を打ち出すか、冷静に見守り、検証していく以外にあるまい。
 また、道議会ならびに札幌市議会からの出資については、ほぼ全額の債権放棄やむなしとなり、知事、市長の責任を問う声も議会内外から根強く上がっている。特に道議会内からは、破綻前より、
 「堀道政は、なぜ"道営航空"でもないエア・ドゥの経営に深入りするのか」 といった声も多くあり、来年に迫った道知事選での、堀氏再選に黄色信号、との見解もなされている。
 一企業としてのみならず、道内の政財界をも巻き込んだエア・ドゥの破綻。その余波は、まだしばらく続きそうである。

 フェリーでは、昨年9月、先だって東日本フェリー(以下東日本)と商船三井フェリー(以下商船三井)が共同運航を開始したばかりの大洗〜苫小牧航路に乗る機会があった。商船三井時代は、朝と夜それぞれ両港を出るという一日四便体制だったが、共同運航後は、便数こそ同じだが、夕方と深夜両港発と、いずれも夜行での出発便という体制となった。今回乗ったのは大洗発18時30分の苫小牧行で、船舶は東日本の「ばるな」であったが、乗組員は商船三井のクルーで、なるほどこれが共同運航ということか、と思わされるものであった。
 さらに驚いたのは、二等船室も全てが座席指定となっていて、適当な船室に入ってからその事実を知った筆者は、慌てて指定された船室へ向かったのである。確かに乗船券には船室と座席番号の手書きされた券片がステイプラー止めされてはいたが、その意味を船室に入るまで全く意識することはなかった。何しろ船の二等室で指定席というのは初めてのことであり、会社が変わったとはいえ、これは軽いながらもカルチャーショックであった。もっとも出航してしまえば空いている席、スペースへの移動は当然自由で、閑散期の船旅ならではの広い空間を占拠できたことは言うまでもないが。
 一方船内サービスでは、東日本時代は一席(一人)につき枕と毛布二枚だけだった寝具が、それらに昼寝布団をコンパクトにしたような敷布が用意されており、アメニティは向上していた。ところが、東日本時代は無料で貰えた氷が、商船三井では、運送会社などの顧客以外は一袋百円の有料となり、決して楽ではない経営実情が覗える一面も垣間見えた。正直な印象として、たかが製氷が船内発電の負担増になるとも思えず、随分とせこいところから増収を目論んでいる、との感は否めないが。
 総括的には、二等指定席の件とも合わせ、会社が変わればここまで変わるのか、というのが正直な感想である。次回この航路に乗る機会があれば、乗組員も東日本のまま運航されている「へすていあ」就航便に乗り、その比較をしてみたいものである。

 鉄道では、この数年、東北新幹線を使ったことはなく、今後も、新幹線を使って里帰りをする予定も今のところない。そういう意味では、今回の新幹線延伸での影響あまりないようだが、実は、このダイヤ改正により廃止されたある列車が、筆者の旅のスタイルに大きな影響を与えそうなのである。
 その列車とは、札幌と函館を結んでいた夜行快速ミッドナイトである。JR発足後に、廉価な高速バス対策として運転を開始した同列車は、横になって休めるカーペットカーの連結などが好評で、一時は人気列車として君臨する。しかし、平成11年から翌12年にかけ、礼文浜トンネルの内壁崩落、さらには有珠山噴火による室蘭本線の長期にわたる不通により運休を余儀なくされた同列車から旅客は離れ、13年末より臨時列車へ降格されていた。その後も利用客の持ち直しはなく、今回のダイヤ改正で遂に姿を消したのである。
 筆者のこのところの本州方面への旅は、専ら青春18きっぷに頼るものであった。具体的には、札幌を23時台に発車するミッドナイトに乗るのだが、この際に千歳までの普通乗車券を用意しておけば、18きっぷの"初日"は千歳からということになり、僅か六八〇円で18きっぷ一日分が捻出できた。 翌朝着の函館からは、午前中の快速海峡で青森へ渡り、その先は奥羽、羽越線を普通、快速列車で辿ると、同夜22時台の新宿行快速ムーンライトえちごへ乗り継げる。そして翌早朝、札幌出発からは三日目で首都圏へと到達できた。18きっぷの一日分が二三〇〇円相当であるから、千歳までの乗車券とムーンライトえちごの指定席券を合わせても五〇〇〇円強という計算で、日数こそ要せど、究極の安価での札幌発東京行きであった。
 そんな旅のスターターであったミッドナイトがなくなるとなれば、18きっぷでの東京行のルートも、大いに再考を要されることになる。函館(ないし木古内)までは日中の普通列車を乗り継ぐか、もしくは八戸、青森、秋田といった港まで中距離航路を利用するか、あるいは長距離航路で本州入りするか、あるいは思い切ってJRの特急ないし急行である程度のところまで進むか・・・経験上幾通りもの可能性は浮かぶが、いずれもこれといった決め手には欠く。12月改正号の時刻表を吟味しながら、悶々とした日々が続いている。
 青函トンネルによって地続きになっているとはいえ、北海道は依然列島の北端の"島"である。そこから本州へ向かうには、先に述べた何れかの交通手段を選択しなければならない。急ぎの用事であれば有無を言わさず航空機を選択することになろうが、"旅"という次元では、海か陸の交通どちらか、又はそれらを組み合わせて利用してきた。再編によりそれらの選択肢が少なくなるのは残念なことであるが、景気回復の先行きが見えない昨今では、それはさらに進む可能性さえある。せめてこれ以上、「昔はよかった・・・」とう嘆きが漏れないような、今後であることを期待したいものである。(完)
 


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 さて、久々の旅人通信、いかがだったでしょうか。これまでも、特に発刊間隔を決めていたわけではありませんが、昨年のように年間一回だけ、というのでは情けないところで、今年はもう少しまめに取り組みたいと思っております。それでは、2003年という年が、旅人にとって、そして皆様にとって素晴らしい一年であることを祈願して、新年の挨拶にかえさせて頂きます。本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
 
 

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