皆様如何お過ごしでしょうか。久々に、旅人通信、お届けします。(忘れた頃に出るので、"リターンズ"を冠した方がいいんじゃないか、なんて言われてしまいそうなのが怖い・・・)
さて旅人の近況ですが、夏の終わりに、鹿児島へ行って来ました。今年は全国的に冷夏だったようですが、南九州に限ってはあてはまらなかったようで、9月に入ったというのに鹿児島地方は最高気温が連日35℃を越える厳しい残暑続き。何しろ、滞在した数日間のうち、延べ2日間、鹿屋市と鹿児島市でこの夏の最高気温を記録するありさま。夏の名残を求めて南へ向ったはずが、名残どころか、とんでもない猛暑に晒される結果となりました。
今回の旅は、これまで足を踏み入れていなかったところへ行こうと思い、レンタカーを借りて走りました。まず、錦江湾を左に見ながら佐多街道を南下し、本土最南端の佐多岬へ。ハイビスカスか咲き乱れ、ソテツが自生する佐多岬よりも、佐多街道の、対岸の薩摩半島、開聞岳を見ながら走る根占から佐多へ至る区間が強く印象に残りました。根占の海では海水浴もしました。すでにシーズンではないので人の姿はなく、プライベートビーチのような感覚での海水浴は、最高の気分でした。
薩摩半島へ戻ってからは、東シナ海に突き出した野間半島から坊津、枕崎をへて開聞山麓へ至り、薩摩では定宿となっている川尻温泉のかいもん荘に一泊。それまでの二日間はレンタカー車中泊だったので、一晩くらい、ちゃんとした宿に泊まるのもいいでしょう。翌日は頴娃街道を辿って鹿児島へ戻り、レンタカーを返し、大隈、薩摩を巡った旅は終わりました。
とにかく、暑かったことが印象的な旅でしたが、この地方は墓地、墓所に特徴があることも印象に残りました。墓石に屋根を架けた墓地は各所で多く見られたほか、野間半島では険しい地形で平地が限られているせいか、墓地はほとんど見かけず、集落ごとに納骨堂が建っているのが印象的でした。また薩摩の一部では、家ごとの納骨堂が立ち並んだ墓地や、それらと墓石式の墓が同居する墓地も見られました。いずれも、他の地域ではあまり見かけないもので、埋葬にも、その土地に根ざした文化があるものだと認識させられました。
そして北海道へ戻った9月半ば、早くも紅葉の便りが届き、大雪山麓の高原沼へ。この詳細はコラムに記したので、そちらを参照してください。それにしても、季節の代り目に列島の南と北を旅すると、そのギャップの大きさには驚愕させられます。つい十日ほど前には根占の海で泳いでいたのが、大雪では、もはや紅葉の盛り。こんな旅も、なかなか味があるとは思いませんか?では、いよいよ本題です。どうぞお付き合いください・・・
第二回 札沼線新十津川〜石狩沼田間
かつての国鉄では、路線名を付けるにあたり、幾通りかのパターンが存在した。並行する街道名を冠したもの(東海道本線など)、経由地の大まかな地名を冠したもの(東北本線、北陸本線など)などスケールの大きいものがある一方、起点もしくは終点の駅名(地名)を路線名としたもの(函館本線、鹿児島本線など)、沿線の中核都市名を路線名としたもの(高山本線、千歳線など)があり、これらは地域に密着した命名といえる。そして地方幹線やローカル線では、起点と終点の国名ないし駅名から一文字ずつを取った線名が多く見られ、ますますローカル色が濃くなる。前者では、肥後と薩摩を結ぶ肥薩線や、羽後と越後を結ぶ羽越本線などがあり、後者では、釧路と網走を結ぶ釧網本線や、久留米と大分を結ぶ久大本線などが挙げられよう。
ところで国鉄時代には、二つの駅(都市)間を結ぶ計画で着工されたものの、後に沿線地域の基幹産業衰退や過疎化、さらには国鉄自体の経営悪化で工事が頓挫し、線名だけが先行してしまった、言わば"婚約未履行"路線が数多く存在した。美深と北見枝幸を結ぶ計画ながら、実際には美深と仁宇布の間だけが開通していた美幸線は、「日本一の赤字線」を逆手に取ったキャンペーンで全国に名を馳せたが、結局全線の開通を待たずに廃止となった。同じく道北の興浜北線、興浜南線は、興部と浜頓別間を一本に結ばれる計画だったが、"興浜線"となる日を迎えぬままにどちらも廃止されてしまった。山口県の岩国と島根県の日原(山口線)を結ぶ計画だった岩日線も、岩国〜錦町間のみが部分開業した状態のまま、第三セクターの錦川鉄道に転換されてしまった。
ここまで説明すると、今タイトルの札沼(さっしょう)線の命名に、なるほど、と思い当たる向きも多いのではなかろうか。札沼の札は札幌、そして沼は、現終点の新十津川からさらに北東に進路を取った、留萌本線の石狩沼田の沼、なのだと。
だが、札沼線は、"婚約未履行"路線ではない。一旦は計画の全線が開通していながら、その末端区間のみが部分廃止され、現在の盲腸線状態になってしまったという、全国的にもかなりレアな歴史を持つ路線なのである。今回は現存区間の現状も踏まえつつ、廃止区間を訪ねる旅に出たいと思う。
札沼線の起点は、札幌の一つ隣りの桑園で、ここと石狩沼田を結ぶべく昭和2年に工事が開始された。同6年に石狩沼田〜中徳富が札沼北線として、同9年に桑園〜石狩当別間が札沼南線として部分開通の後、同10年10月に全線が開業し、線名も札沼線とされる。
しかし、太平洋戦争末期の同18年には石狩月形〜石狩追分間が、翌19年には石狩当別〜石狩沼田間が営業休止とされてしまう。戦後は、同21年に石狩当別〜浦臼間、同28年には浦臼〜雨龍間、そしてようやく同31年に全区間での営業再開にこぎつけるが、後の過疎化とモータリゼーションの進捗は、札沼線を再び窮地に追い込むことになる。
昭和43年秋、国鉄諮問委員会の意見書を発端に、「赤字83線廃止」が国鉄当局の手で進められることになる。赤字を垂れ流すローカル線83線については、すでに鉄道としての使命を終えているとし、翌44年から全国の鉄道管理局を通して沿線市町村や住民団体との個別廃線交渉に入った。しかし、いかにマイカーの普及率が上昇を続け、道路整備に伴いトラック輸送が頭角を現し始めていたとはいえ、旅客、貨物輸送の主力は依然鉄道だった時代である。廃止を名指しされた線区の大半では、沿線住民と国鉄労働者がタッグを組んで廃止反対運動を展開し、当局の思惑通りに事は運ばなかった。後に、「列島改造論」を引っ提げて総理に就任した田中角栄のツルの一声で、「赤字83線廃止」そのものが沙汰闇となるのだが、それまでの間、国鉄当局としても政府に姿勢を示す必要があり、46年度内に各管理局が一線ずつ話を詰めるよう求めた。札沼線新十津川〜石狩沼田間もその一つで、過疎化の著しかった同区間は、昭和47年6月、地元から大きな反対の声もないまま、廃止されてしまったのである。
では、桑園〜新十津川が残った札沼線の現状を見てみることにしよう。現在、JR北海道では、札沼線を"学園都市線"の愛称名で呼び習わしている。これは、北区あいの里に道教育大学、石狩郡当別町に道医療大学があり、沿線周辺がベッドタウンとして大きな発展を見せていることにも起因している。確かに、すでに通じていない沼田の"沼"を前面に出したところで、若い世代から「"札"は札幌の札だろうけど、"沼"ってどこの沼?」と思われ、何らかの折に質問攻めに遭うよりは、賢明な選択ではあろう。
実際の"学園都市線"区間と言うべき札幌〜北海道医療大学間は、札幌近郊区間での函館本線、千歳線とも遜色を取らぬ列車密度で、桑園〜太平間は高架化、さらに八軒〜太平間は複線化されており、さらなるスピードアップのため、電化も計画されている。"学園都市線"区間に関しては、将来を約束された"エリート路線"だと言えよう。
ところが、北海道医療大学〜新十津川間では、様相は一変してしまう。列車本数は、北海道医療大学〜浦臼間が一日7往復(他に石狩月形までの下り区間列車が一本)、浦臼〜新十津川間に至っては、一日僅か3往復の列車が行き交うのみで、しかもその全列車が、基本的には単行(1両)ワンマン列車での運行となっている。正直なところ、どうにか生き長らえている、といった印象は拭い得ず、この区間に"学園都市線"の名は相応しくない。この区間こそは敢えて"札沼線"と呼ぶのが正しい判断であろう。
そういった運転状況であるから、廃線跡を訪ねる旅も新十津川までは列車で、というわけにもいかず、愛車のハンドルを握り、空知国道こと国道275号線を北東に進路を取ることになる。
札幌からおよそ一時間半のドライブで、新十津川市街へと到達する。国道沿いには各種の商業施設が立ち並び、農業を基幹する地方都市としては、そこそこの賑わいを感じさせられる。
その市街地中心部には鉄筋構造の町役場があり、付近には農協系ストアーのエーコープやコンビニもある。新十津川役場バス停からは滝川や雨竜、月形、砂川方面へのバス路線があるが、現在、かつての札沼線終点だった石狩沼田へのバス路線はない。役場から西へ数百メーター離れたところに現札沼線終点の新十津川駅前がある。この駅前へはバスは乗り入ておらず、且つ駅前には商業施設の類は皆無なばかりか、空地ばかりが目立ち、市街中心部から程近い場所とは思えぬ閑散ぶりを呈している。札沼線末端区間の現状を、如実に物語っているとも言えよう。
無人の駅舎は、そこはさすがに市街地の駅だけあり、手入れは行き届いて清潔感は保たれているが、ホームは片側一面、交換設備もない単線一閉塞の終着駅で、そこから必要も無さそうなのに、百メータ以上はあろうほど先まで伸びた線路の先に車止めがあるのが、かえってわびしさを引き立てる。それより何より、1日3本の列車に、どれだけの利用客があるのかが気に掛かる。筆者は9年前、石狩当別始発の単行列車(当時ワンマン化はされておらず、車掌が乗務していた)でこの駅に降り立ったことがあるのだが、僅かな数の乗客もみな途中で下車してしまい、新十津川まで乗っていたのは、運転士と車掌、そして筆者の三人だけであったことを鮮明に記憶している。
線路の途切れた先には真新しいアパートが建ち、その先も住宅地が続き、もはや線路の痕跡を辿ることは不可能だが、その先の石狩川の支流である徳富川の堤防まで行くと、かつての鉄橋をそのまま利用した水路橋を見ることができる。この水路橋は、国道に架かる橋からこれまでにも何度となく目にしてはいたが、あらためて間近に立つと、鉄道遺跡そのものであることを痛切に感じさせる。
徳富川を越えて橋本地区を探訪するが、宅地化の進むこの一帯でも線路の痕跡は見出せない。住宅地を過ぎて農耕地帯に入ると、もしやこれが線路跡か、と思わせるような田畑を縫う畦道があったりもするが、何せ廃止から四半世紀以上を経過しているだけに、断定は不可能で、また確認する術もない。しかし、地図を頼りに廃線跡を辿りつづけると、丘陵地帯へ続く道すがら、これこそ線路跡では、という土盛に遭遇したりもする。道路では真っ直ぐには辿れないが、その先にはやや古びた住宅が数戸と、道路を挟んだ向いには神社がある一角に辿り着く。徳富川近くの、いかにも新興住宅地といったところとは明らかに風情が違い、どうやらこの一帯が橋本の旧市街と察せられる。
その推察は正しかったようで、持参の文献によれば、ここを長方形に周回する道路の北側面北向きにある畳店の辺りが、かつての石狩橋本駅だったようである。しかし、そういった資料がなければ、線路跡は愚か駅であった場所の痕跡さえ、現在は何一つ残ってはいない。この地の人々にとって、もはや札沼線は遠い過去の遺物に過ぎないようである。
国道に戻って先へ進むと、やがて石狩大和の市街へと至る。かつて上徳富駅があったはずの進行左手に入り、概ね建物が途切れる辺りを右折して進むと、程なく進行左手に、廃墟と化しつつあるものの、明らかに駅の遺跡と思われる建物が現れる。草生したかつての駅舎へと進むと、建物内には使い古された農機具などが置かれてはいるが、駅事務室と窓口カウンターの遺構は明らかに見て取れ、待合室からホームへ出る崩れかけた扉の先には、鉄製バーを二本並べた"改札口"の姿が健在であった。そしてかつてのホームは、もはや線路面との段差は土に埋もれて無くなってはいるが、かつて列車が行き来していたプラットフォームを彷彿させるには充分である。
その北側には、かつての鉄道官舎らしき建物が三棟並び、旧駅舎側の一棟は運送会社の事務所になっており、外壁は真新しい。真ん中の棟を挟み、外れの棟も外壁はリフォームされている。
だが、旧上徳富駅舎の傷みは激しく、かつ有効活用されている様子も皆無で、このままでは、自然崩壊か、或いは危険防止の為に解体、という道を辿ってしまいそうである。旧官舎も、いつまで存続するかは定かではなく、この微妙な時期にここを尋ねたことは、絶妙なタイミングであったように思う。
その先、かつて線路が続いていたはずの北東方向を辿ってみると、程なく一面の水田となり、鉄道の痕跡は完璧なまでに消え去っている。これが仮に山林地帯であったなら、線路や枕木は取り払われ、バラストも持ち去られたとしても、敢えて撤去する必然性のない道床跡はそれなりに残っていよう。ところが、平野部の稲作地帯の線路跡は、農業に携わる人々にとってはただの邪魔物に過ぎない。よって、水田の間を駆け抜けていた線路跡は、道床を含めて完全に撤去され、水田に戻されてしまったのである。
国道へ戻り、雨竜町の町域に入ってしばらく走った頃、何気なく左手の水田地帯へと入ってみる。一面に広がる水田に、線路の痕跡は見出せないと思いきや、幅1メーターほどの水路に、遠目には小山のように見える構造物を発見する。近付いてみると、コンクリート橋と言うべきか、或いは暗渠跡と呼ぶべきか、ともかく鉄道の遺跡には違いないものを発見する。堅牢なコンクリート構造物だけに、撤去するにも費用が掛かり、放置されたまま風化したらしい。その前後の水田には何の痕跡もないだけに、その存在は特に引き立つ。やがて雨竜の市街へ。道内随一のスケールを誇る高層湿原雨竜沼で知られる町で、ここから雨竜沼登山口へと続く道道は「暑寒別雨竜停車場線」で、かつては停車場、すなわち駅があったことを今に伝えている。国道から道道に入り、しばらく進むと、右手には古色蒼然とした農協の煉瓦造りの倉庫が建っている。その前に進むと、「札沼線雨竜駅跡」の小さな石碑がぽつんと立っている。さらにその先には一本の腕木式信号機がある。これは、かつての信号機が意図的に残されたのか、或いは駅があった事を伝えるため、後になって立てられたのかは不明だが、札沼線部分廃止後も、鉄路に愛着を持つ人々が少なからずこの地にいることを、これらは伝えているのではないだろうか。
雨龍駅跡から北方向は、間もなくまた水田となり、鉄道の痕跡は完全に消え去っている。しかし、石狩追分の市街へ入る前、水田の中に再び暗渠跡を発見する。そして追分の市街へ入り、石狩追分駅跡を探す。雨龍同様、農協倉庫のある辺りがそれと思われたが、それを証明するものには出逢えなかった。
線路跡とは無縁の国道を北進し、小さな峠を越えると北竜町に入る。町の中心部を成す和(やわら)市街で国道を右手に入ると、ここでも雨龍、石狩追分同様、煉瓦造りの農協倉庫の建つ一角に辿り着く。駅の痕跡を見出すことはできないが、文献に拠れば、青い屋根の平屋建ての工場の北端部は、かつての駅トイレの建物を取り込んだものだという。そう言われてみれば、塞がれた扉跡や窓跡がそれらしくも思えるが、文献がなければ、気付かずに通り過ぎていたに違いない。
国道に戻ってさらに北上すると、道の駅サンフラワー北竜が左手に現れ、かつてはその右手に中ノ岱駅があったはずだが、クマザサの生い茂る線路跡と思われる土塁に、微かにその痕跡を見る程度である。しかしその先で国道を越えた線路跡は、国道と並行する砂利道となり、しばらくはその痕跡を辿ることができる。やがてその道は碧水市街近くで舗装道路となり、線路跡らしい緩やかなカーブを描いて市街地へ至る。ここでも農協倉庫が駅跡を示しており、右手の民家の傍らに倉庫として使われている古びた建物が、旧碧水駅だという。
ホームの痕跡は皆無だが、板で塞がれたトイレの跡がかつての駅舎であることを物語っている。この建物自体はしっかりしているが、老朽化していることは一目瞭然で、果たしていつまで姿を留めているかは、定かでない。
碧水市街を過ぎると、いよいよ沼田町に入る。しばらく走ると、左手の水田を流れる川に、前後は何の痕跡もない中、コンクリート橋がポツンと残されているのが不気味に見える。鉄道があったことを知らない人が見れば、「何であんなところに橋が?」と思うに違いない。
やがて現れる街は北竜市街で、沼田町なのに北竜なのは何か変な感じがする。因みに、北竜町の中心は字名は和(やわら)で、地元では、こちらを沼田北竜と呼んで区別している。この沼田北竜でも、国道右手に農協倉庫がある辺りがかつての駅跡と思われるが、線路、駅とも何の痕跡も伝えていない。
やがて国道は深川留萌自動車道沼田ICの下をくぐる。すでに札沼線の痕跡はほぼ皆無だが、これだけ大きな土木工事の行われたこの一帯では、それはさらに顕著である。その先で国道は90度右に折れ、沼田市街へ向う。札沼線は、そのしばらく先に五ヶ山駅があり、その先で右にカーブを切って沼田へ向かっていたはずだが、やはり痕跡は何も見出せない。
そしていよいよ終点だった石狩沼田駅へ近付く。左手からは留萌本線が近付いてくる。そのやや手前から伸びる、クマザサに覆われた土塁が札沼線跡では、と辿ってみると、水路にかかるごく小さなコンクリート橋を発見し、推察が正しかったことを知る。それはそのまま留萌本線に寄り添い、その先の殖林道踏切の先あたりで、留萌本線に合流していたのか。或いは、そのまま石狩沼田駅構内へと走りこんでいたのであろうか。
石狩沼田駅は、鉄筋構造の四角屋根の駅舎で、駅前も広々としているが、現在はJRの職員はおらず、朝7時20分から午後2時20分まで、業務委託のおばさん駅員が一人で詰めるのみである。かつては交換施設もあったが、現在側線はすべて取り払われ、駅本屋側の片側ホームのみが使用されている。その向うのかつての島式ホームは草生しており、さらにその向う、かつては側線があったであろう辺りも今や木が生い茂りつつあり、ターミナル駅だった頃の賑わいは何処へ、といった風情である。路線バスも現在は駅前広場ではなく、やや離れた道路端の観光プラザ前に発着する。札幌へ直通するバスはなく、ここから札幌へ最短で向うには、隣りの秩父別町まで行き、そこから札幌行の都市間バスに乗り換えるか、或いは深川まで行き、函館本線に乗り換えるかのどちらかということになる。
このようにして、区間廃止から三十年余を経過した札沼線沿線を訪ねてみたわけだが、現存区間では、札幌寄りでは都市圏の通勤通学路線として賑わっている一方、中間から末端区間にかけては、単行の気動車が空気を運ぶも同然の状態で、もはや鉄道線としての役割はとうに潰えていると言わざるを得ない。特に、1日僅か3往復の列車しか走らない浦臼〜新十津川間は、いつ廃止されてもおかしくないように思えるが、多くの過疎路線を抱えるJR北海道としては、該当線区のみならず他線区の沿線住民感情も考慮せねばならず、廃止に関する話は伝わってこない。正直なところ、JR北海道にとっては頭の痛い問題ではあろう。
一方ですでに廃止された新十津川〜石狩沼田間は、痕跡をとどめる場所も限られ、もはや札沼線の跡は、モータリゼーションにかき消されてしまった感がある。旧沿線のバス路線も衰退傾向にあり、かつて空知管内一円に手広い路線網を展開していたJRバス北海道も、昨年から今年にかけ、相当数の路線から撤退した。その路線の多くは、民間、或いは自治体出資のバス会社に引き継がれたが、過疎化に歯止めが掛からぬ限り、今後の動向は予断を許さないであろう。
かく言う筆者も、近年ではどこへ行くのも車ばかりで、道内の路線バスを利用したことなど数えるくらいしかなく、そればかりか、本州へ向う時以外は、JRもほとんど利用していない。このような人間は道内では珍しくはなく、これがモータリゼーションの現実なのである。
しかし、安定大量輸送と定時制という点では、鉄道は他の輸送手段を大きく凌駕している。特に寒冷積雪地である北海道では、冬期間の定時、安全性は他と比ぶるべくもない。そして路線バスは、車を運転できない高齢者や児童、生徒の貴重な足である。いずれも安易な廃止、切り捨ては厳に慎まれねばならぬ、と切に思う。現存、そして廃止区間を辿った札沼線の旅は、札幌都市圏への一極集中と、その一方での過疎地の置かれた現状の厳しさを、改めて認識させられる旅でもあったように思う。(完)
この夏、秋の我が家の食卓
夏の終わりから秋口にかけては、毎年のことではあるが、食べ物が美味しく なるシーズンである。一つ一つ挙げていてはきりがないのだが、今年はそんな中、「秋刀魚(さんま)」がマイ・ブームとなっている。今年は例年にない豊漁で、価格が安いせいもあるが、これ幸いと食べられるうちに飽きるほど食べておこう・・・と思ったかどうかはともかく、毎日のように秋刀魚を食べに食べているこの頃である。
北海道に於いては、例年7月下旬ころから秋刀魚が店頭に並ぶ。まだ秋刀魚漁解禁前だが、いわゆる"外道"と言うやつで、魚群の接近にともない、他の漁の際に網に掛かったものである。この頃揚がるものはまだ魚体も小さく、脂の乗りも今一つだが、冬から春にかけて冷凍物ばかり食べていた舌にはたまらない味であり、全国に先がけて新物秋刀魚を食べられるという優越感を味わうこともできる。
8月に入ると小型船による漁が解禁となり、大型船による漁が始まると値段も落ち着く。個人的には、8月の秋刀魚の程よい脂乗りが刺身には最も適していると思っている。味わいとしては、マグロの中トロに通じるものがあるが、価格は天と地ほども違うのだから、これを食べない手はない。9月も半ばを過ぎる頃になると脂乗りはピークを迎えるが、こうなると、刺身の味はやや繊細さを欠いてしまうように思う。むろん不味くはないから刺身もいいのだが、この時季は握り寿司の方がより味わいを楽しめるように思う。何のかんの言っても、やはり王道は塩焼きだろう。強火の遠火でさっと焼き、大根おろしにレモン汁を絞って頂く。脂が落ちてしまうので、決して焼きすぎてはいけない。一度箸を付ければ、それこそ一心不乱になって突付いてしまう、そんな秋の逸品だ。
そして今年は、例年になく竜田揚げにもはまっている。やや高温に熱した油でさっと短時間で揚げる。パリパリの衣と一体になった皮と、脂の乗った身とのマッチングは他の魚の揚げ物には類を見ない美味さだ。
さらに、秋刀魚つみれ汁にもはまっている。つみれ汁は鰯が一般的だが、近年は鰯が極度の不漁続きで、今や高級魚となり、おいそれと手が出せる値段ではなくなってしまった。それにひきかえ、今年の秋刀魚は大豊漁で、それならば、とつみれつくりにも挑戦してみた。刺身と同様三枚におろすところまでは同じだが、包丁で叩くので中骨を取る必要はなく、後は皮を剥いでまずは細めに切る。それをさらに包丁で叩いて細かくし、刻んでおいたネギを加えてさらに叩き、少量の塩を振って片栗粉を適宜加えて混ぜ合わせればつみれの出来上がりである。
汁は、水洗いして血を洗い落とした頭と骨でダシを取る。それにつみれを一口大の団子にして入れればさらにダシが出るので、化学調味料は一切必要がない。具材はシンプルな方が良いようで、長葱とコンニャク程度でいい。とは言ってもコンニャクは、たまたま冷蔵庫にあったので入れてみたら美味かった、という代物ではある。シンプルを極めるなら、葱だけで十分、ということになろうか。
そんな豊漁にわいた今年の秋刀魚漁だが、それゆえに浜値も下がり、漁師は漁に出るだけ赤字になる、と嘆いているそうだ。10月に入り、船毎に一回の漁での漁獲量を制限するという前代未聞の自主規制までも行われており、この分では、冷凍用の在庫も早々と確保され、早めに漁が打ち切られることになりそうである。それならば精々、安くて美味い今のうちに、もう来年夏まで見たくもなくなるくらい、食らっておくことにしますかね・・・
さて、余談だが、あなたは秋刀魚のワタ(内臓)、食べる派?それとも食べない派?実は先だって鹿児島を旅した時、地元のFM番組の中で、何とそんなことで2日間にも亘って激しい議論が闘わされていたのである。ちなみに私は食べる派で、当然大多数が同士と思いきや、南国鹿児島では、意見を寄せたリスナーのほぼ半数が食べない派だったのには驚いた。私などは、あのワタの苦味こそ秋刀魚の真髄、とまで思っているので、食べる派、特に私と同じでワタを食してこそ、という意見を聞く度にその通り、と一人頷き、逆にワタを食べるなどとんでもない、という食べない派の意見に対しては、秋刀魚の本当の美味しさを知らない馬鹿な奴め、と憤慨したものであった。冷静に考えれば、個人の好き嫌いの問題であり、2日間にも亘って議論を闘わす価値があるかは甚だ疑問ではあるのだが、そこまで意見が分かれては結論など出ようはすがなく、議論の続きは改めて第二ラウンド、第三ラウンドで、ということでこのテーマは終了した。
ことのほか食べない派が多かった一因には、当地では新鮮な秋刀魚が手に入りにくい、という地理的事情もあると私は思った。いかに輸送技術が向上した現代とはいえ、北海道から東北、北関東の太平洋岸を主な漁場とする旬の秋刀魚が鹿児島に辿り着くまでには、それ相応の日数を要する。それでも最近では、鹿児島でも刺身用の秋刀魚が普通に売られるようにはなったが、商品の主力は、予め塩を振ってから箱詰め、出荷された塩秋刀魚で、北海道や関東では考えられないことだが、九州ではそれが常識なのである。予め塩を振られた秋刀魚のワタだったら、さすがの私も喜んでは食べないであろう。もし北海道でワタ議論をやったなら、食べる派が食べない派を大きく上回るような気がする。何と言っても生鮮品は鮮度こそが命で、ワタを食す場合も、それは大きくモノを言う。
ただ、ワタを食べる時に注意しなければならないのは、寄生虫の存在である。「アニサキス」と呼ばれるピンクの糸状で長さが2〜3mmの寄生虫を、ほぼ大半の秋刀魚は体内に宿している。アニサキスは熱に弱いので、十分に加熱をすれば心配はないようだが、私のようにレアな焼き方を好む向きは注意が必要だ。対策としては、ワタに箸を入れた際、目に留まったアニサキスは、骨とともに取り除くことである。さらに糸状の虫なので、寄生をしているワタの部分は、よく噛んで食べることだ。これを生きたまま体内に取り込んでしまうと、大変な腹痛に襲われ、場合によっては手術が必要にさえなるというから、くれぐれも注意したいものだ。なおこのアニサキス、零度以下でも死ぬので、冷凍ものの秋刀魚ではこの気配りは無用である。むろん冷凍もののワタは、好んで食べるほどには美味しくないのであるが。(完)
北石狩、北空知の硫黄系温泉訪ねて
そこここから温泉の墳気が立ち上がり、硫黄の香りに包まれる温泉街・・・古くから開けた温泉場では、そういった風情のところが多くある。咄嗟に思い浮かぶだけでも、鳴子、草津、箱根、別府、霧島などが挙げられよう。ところが北海道では、硫黄系の温泉は決して多くはない。温泉地で思い当たるとすれば、登別と川湯くらいであろうか。特に石狩平野周辺の温泉では、ボーリングによる掘削泉が多いこともあり、泉質で圧倒的に多いのは、ナトリウム系の湯である。
しかしながら、そんな中にも少数ながら、硫黄系の温泉があるにはある。今回の湯めぐりは、そんな石狩、空知の硫黄系温泉を訪ねてみることにしよう。
まず目指すのは、石狩管内最北に位置する浜益村である。日本海に沿って断崖の続くこの沿道は、かつては交通の難所であり、浜益村も「陸の孤島」と長く呼ばれていた。現在では、国道231号線が札幌市と留萌市の間を結んでおり、冬期間の通行も確保されている。しかし、断崖の険しい区間では今を以って道路改良工事が各所で行われており、いつ走っても工事個所だらけの道路、という印象は否めない。
そんな231号線を札幌から1時間半ほど走ると、浜益本村に近い柏木地区へ辿り着く。浜益川河口に開けた市街地で、狭いながらも沿道では数少ない平野部で、水田や畠も見られる。現在の浜益村の基幹産業は漁業だが、農業生産も少なからずあるようだ。
ここから内陸へ向って国道451号線が分岐する。そちらへ右折し、面白い山容の摺鉢山手前を大きく左にカーブし、浜益川を渡った先で今度は緩やかに右カーブを切った先に、薄緑色屋根をした平屋建ての"浜益温泉"が現れる。一帯は温泉公園になっており、パークゴルフ場などが整備されている。施設の正式名称は「浜益村保養センター」といい、日帰り専用で、宿泊施設はない。ルーツはプレハブ建ての簡易浴場だったというが、現在の建物は鉄筋で、平成6年には露天風呂も増設されている。
500円の入館券を買って館内へ入ると、そこは天井の高い広々としたホールで、窓も広く取られていて明るい。ホール全体が無料休憩室となっており、ソファーが置かれているほか、傍らには座敷の休憩コーナーもある。反対側にある和室の集会室は有料休憩室(1人二時間まで210円)も兼ねているが、個室休憩は出来ないとの但し書きもある。
オオムラサキの描かれた暖簾をくぐって浴室へ入ると、脱衣所でも硫黄臭がしている。掲げられた温泉成分分析表によれば、含硫黄−カルシウム・ナトリウム−塩化物泉とあり、いわゆる火山地の硫化水素系の硫黄泉とは違うが、石狩平野周辺では珍しい泉質と言えよう。
浴室へ進むと、窓に面して三日月型の浴槽があり、反対側に洗い場が並ぶ。傍らにはサウナもあるが、その横の水飲み場や、水風呂の蛇口が青黒くなっているのは、硫黄分のせいであろう。そして天井を見上げると、細い板を渦巻状の段々に組んである。これは、天井で冷やされた水滴が段々を伝って周囲へ流れるようにし、浴場へ直接落ちないように工夫されたものだというが、なかなか手の込んだ設計だ。
そして奥の扉を出ると露天風呂で、内風呂だけではなく、外にも洗い場がある。これは、混雑する海水浴シーズンに備えてのものだという。その下にあるひょうたん型をした浴槽はなかなか広く、一度に10人以上が楽に入れる。また、片側が深く、もう片側は浅くと、水深に差が設けられている。この露天風呂からは温泉を取り囲む山々が眺められ、特に絶景というわけではないが、のどかさの中のんびりと湯に浸るのは気分もよく、殊に新緑と紅葉の季節はお勧めである。但しこの露天風呂は冬期間は閉鎖され、内風呂のみの供用となる。従ってこの温泉の訪ね時は、春から秋まで、ということになろうか。
このほか、ホールには麺類などを出す軽食コーナーもあるが、営業は昼のみなので、その点も注意が必要である。
次に足を運ぶのは、空知管内北部に位置する沼田町である。札幌からは空知国道と呼ばれる国道275号線を通って約2時間の道程である。この国道は、札幌と旭川を結ぶメインルート、国道12号線の裏街道的存在で、12号線に比べて大きな市街地が少なく、長距離ドライバーには好まれている道である。かく言う筆者も、道東、道北方面へ出掛ける際は、ほとんどこの道を走るので、走り慣れた勝手知ったる道である。
そういう道だから、交通量は少なくはないが、そこは北海道、札幌市街地を抜けてしまえば、行楽シーズンでない限り、渋滞することはほぼ皆無であり快適な走行ができる。その交通量も、まず新十津川町で滝川方面へ行く車が分岐して行って少し減り、雨竜町追分では深川、旭川方面への車が分岐するのでさらに減り、北竜町碧水では留萌、稚内方面へ分岐があり、そのまま275号線を行く車より、分岐して行く車の方が圧倒的に多い。そのためその先の275号線は、道幅こそ広く取られて立派ながら、行き交う車は疎らな田舎国道、といった風情となる。
やがて沼田町域に入り、沼田北竜市街を過ぎると、国道は90度右に折れ、沼田市街へ向う。それを曲がらずに直進の進路を取ると、やがて恵比島地区へ至る。ここにある留萌本線恵比島駅が、NHKの連続ドラマ「すずらん」の明日萌駅として使用されたところで、撮影用に建てられた木造駅舎や駅前旅館などが、現在もそのままの姿で残されている。恵比島から、幌新太刀別川沿いに北上する道道に分け入って踏切を越えると、間もなく左側に選炭場がある。さらにその先にも二ヶ所の選炭場があり、坑道掘りの炭鉱が日本から姿を消した今でも、露天掘りによる採炭は、細々ながら続けられていることを知ることができる。林業不振の昨今、農業を基幹産業とする沼田町であるが、全国でも数少ない露天採炭が生き残っている町でもあるのだ。
恵比島から5分も走ると、幌新太刀別川に掛かる橋の左手に、湯煙の上がる鉄筋二階建ての建物が現れる。これが、昭和56年に「パークハウス白樺」としてオープンした旧館の白樺館で、その脇を走り抜けると、平成5年にできた鉄筋七階建ての新館「ほたる館」が建ち、中空を渡り廊下が結んでいる。これら新旧館を一体として"ほろしん温泉ほたる館"と呼び慣らわしており、新館には宿泊室やレストランのほか、茶室や宴会場、コンベンションホールなども設けられている。旧館の白樺館は一階奥が温泉浴場で、日帰り客用の休憩室や軽食コーナーがあるほか、二階には宿泊室とカラオケスナックがある。日帰り入浴の受付は白樺館一階で、入浴料は大人500円。この入館領収書を十枚貯めると、入浴無料券のサービスがある。ちなみに宿泊は、新館が一泊二食付8,840円から、旧館が同7,410円からとなっている。
広々とした脱衣所から浴室へ進むと、ほんのりと硫黄臭が漂う。ここの泉質は単純硫黄冷鉱泉で、窓に面した大浴槽には、やや褐色を帯びた湯が満たされている。露天風呂は、扉を開けて階段を下りたテラス状のところにある岩風呂で、眼下には幌新太刀別川が流れている。内風呂、露天風呂ともに、眺望はまずまずといったところである。
だが、ここの最大の魅力は、水風呂に冷鉱泉を使用していることだろう。普通の水風呂に比べ、入ると最初は成分の関係かより冷たさを感じるが、それを我慢して入っていると、やがて冷たさを感じなくなるから不思議である。筆者の場合、まずサウナで温まり、それからサウナに入っていたのと同じかそれ以上の時間、冷泉浴を楽しむ。それを数回繰り返すと、しまいには冷たい鉱泉に入りつつも、身体は火照ったような状態になるのである。これは普通の水風呂ではあり得ないことで、硫黄冷鉱泉ならではの効果であろう。実はこの冷と暖を繰り返す冷泉浴の手法は、大分県久住にある冷鉱泉「寒の地獄」の入浴手解きによるものである。浴用の天然冷泉は全国でも希少で、知る限りでは「寒の地獄」とこのほろしん温泉のほかは、ほとんど心当たりがない。それゆえにここに来ると、温泉は二の次で、冷鉱泉にばかり入っている次第である。
この温泉に隣接して「ほたるの里」がある。道内では数少ないゲンジボタルの生息地で、夏のピーク時には数千匹とも言われるホタルの乱舞が見られる。周辺にはオートキャンプ場やパークゴルフ場、テニスコートなどもあり、ほたる館は通年営業しているが、やはり一番のお勧めはホタルの舞う盛夏、ということになろうか。札幌から片道2時間の道程は、日帰り圏ではあるもののやや遠いか、という距離でもあり、1泊2日の小旅行には適したロケーションと言えそうである。(完)
秋たけなわ、の道内を旅しつつ・・・
北海道の、秋の訪れは早い。9月も半ばを迎えると、「北海道の屋根」と呼ばれる大雪山系から、早くも紅葉の便りが届く。まぎれもなく日本一早い紅葉であり、やがて山麓にまで達した紅葉は、秋の深まりとともに急速に全道へと広がって行く。
この数年、ほぼ毎年欠かさず、大雪山系の高原沼へと足を運んでいる。同山麓の南斜面に位置する湿原郡で、登山道入口には一軒宿の大雪高原山荘こそあるが、公共交通機関がないため、以前は知る人ぞ知る秘境だったというが、"日本百名山効果"による中高年登山ブームで全国の登山ファンに知られるようになり、近年では登山ツアーの客が大型バスで乗りつけるようになった。こうなってしまうと秘境ムードも何もあったものではないが、不幸中の幸いは、登山ツアーの客は大半が中高年なので、多くのツアーは最も奥までは足を運ばず、そこそこのところで引き返すことである。それがわかっているから、引き返してくるツアーのジジイババアどもとのすれ違いに難渋しながらも、私はひたすら奥を目指して歩くのである。
沼をめぐるコースは周回コースとなっており、多くの沼を見ながらほぼ最奥の高原沼へ至り、空沼を経て山間を縫って戻る左廻りコースが一般的だが、高原沼の先から周回コース分岐合流点まではヒグマ出没の多発地帯で、立ち入りが禁止されることもままある。
登山口から高原沼までのほぼ中間点にある緑の沼を過ぎると、バスのツアー客はほぼ皆無となり、あとはチンタラ歩く個人のグループを追い越しながら先を急ぐのみである。時間に追われる旅ではないが、ほぼ毎年来ている場所であるし、三脚を立て、写真撮影に余念がない御仁のような高貴な趣味も持ち合わせてはいない。ただ、そんな中で垣間見る今年の紅葉は見事で、特にえぞ沼と大学沼から見る紅葉は、カメラを持ってこなかったことを悔やむに値する素晴らしさであった。
登山口からおよそ1時間半で、最奥に位置する高原沼に到達する。これを見下ろす岩場で、頃合もいいので昼食。この日は周回コースが開放されており、食事休憩の後、そちらへ足を踏み入れる。
昼食を取った岩場から少し上り、高原沼の対岸への下りとなった時である。目前には標高2,019mの緑岳がそびえ、山頂から下しばらくは岩の灰色、やや下ってハイマツの濃い緑色があった後、その下の樹林帯の彩りを果たしてどう表現したらいいのであろう。北の高地の紅葉は、一様には進行しない。あるものは紅く、そして黄色に染まる一方で、まだ緑色を残した樹々もある。空は薄曇りだが、それがかえって赤や黄色を引き立てているようにも見える。ともかく"絶景"などといったありふれた表現ではとても語り尽くせない、神々しいまでの風景が、そこには展開していた。
一般的に、人は絶景を目前にすると、言葉を失うという。この時の私は一人歩きなので、当然言葉など発してはいないが、仮に何かを口走っていたとしたら、確かにそうなっていたであろう。しかしこの時の私は、言葉を失う云々ではなく、その景色を目にした途端、全身から力が抜けていくのを感じ、その場にへたり込みそうになった。さすがに、2本の足は何とか踏ん張りを保ったが、この感覚は、かつて感じたことのないものであった。本当の絶景を目の当たりにした人間は、その場にへたり込みそうなまでの脱力感を感じるものなのであろうか。この疑問は、次の旅へと続いて行く・・・
やや時間が経過した10月上旬、今度は雨竜沼湿原へと出かけた。初夏には湿生植物が咲き乱れることで知られる道内隋一の規模を誇る高層湿原であるが、枯草が黄色の絨毯を敷き詰めたかのようになる秋の風情もなかなか捨て難く、初夏のみならず秋にも、この数年ほぼ毎年訪れている。大雪高原が日帰りでは強行軍となる距離なのに対し、札幌から車で2時間足らずで登山口まで辿り着けるここは、楽に日帰りができるのも魅力だ。
この日は雲一つない、とはいかなかったが、秋の爽やかな晴天に恵まれ、軽快なドライブで登山口の雨竜ゲートパークに到着。夏に比べて入山者も少なく、紅葉も見頃とあって最高のハイキング日和だった。湿原入口までの約一時間の登りは結構険しいが、気温も暑くもなく寒くもないという状態で、軽く汗をかきながらの登り道だ。時折紅葉に目を奪われて立ち止まったりしつつ、やがて道はなだらかとなり、湿原が近づく。そのあたりから見え出す暑寒別岳の峰には、早くも冠雪があるのがわかる。秋たけなわと言いつつも、もはや冬もすぐそこまで来ているということなのか。
秋の湿原は、クマザサがまだ青々としている一方、湿原の草は秋色に染まり、緑と黄色の絨毯を敷き詰めたかのようである。山を見渡すと、ところどころにななかまどの鮮やかな朱葉が見える。そして空は青く、秋らしい絹雲がかかっている。そんな景色の中、湿原の木道を歩いていると、だんだんと、歩き続けることが馬鹿馬鹿しいような衝動が湧いてきた。大雪高原の時とシチュエーションは違うが、やはり、素晴らしい自然景観には、人を脱力させる力があるようだ。
湿原入口から30分強も歩き、南暑寒別岳への登りに入ってしばらく行くと、湿原を一望する展望台に着く。右手に湿原を一望するだけではなく、左手には増毛の海も見ることができるこの場所で、昼食。札幌を朝7時から8時の間に出発すれば、ちょうど昼前後にここに着くというのは、出来すぎている気もするが、まことに塩梅が良い。食事をしてしまえばあとは下山するのみで、日帰り温泉経由で自宅へ戻ることになる。
雨竜ゲートパークから湿原までの登山道では、秋になると、多くのエゾシマリスを見かける。夏にはあまり見かけない彼らが登山道に現れるのは、捕食が目的である。見ていると、バッタの類を次々に捕まえ、頭からムシャムシャと頬張っている。可愛らしい外見には似つかわしくない獰猛ぶりだが、冬眠をする彼らにとって、通常主食にしている木の実や草の身といった植物タンパク質だけでは、冬眠に備えるだけの栄養が付かないのであろう。見た目がどんなに愛くるしくとも、自然界で生き抜くには、時に獰猛でなくてはならないのだ。
雨竜市街からゲートパークへ至る道道沿いの尾白利加川では、以前、エゾタヌキの親子が川を渡るシーンに出くわしたこともある。三匹のうち真ん中の小さい一匹は、まだ親離れしていない子タヌキのようで、片方の親が、川面に手を入れ、さあ、行くんだよ、と促しているかのようであった。やがて子タヌキも意を決し、二匹がほぼ同時に川へ飛び込むと、もう一匹の親タヌキもそれに続いた。そして三匹は幅数メーターはある流れを泳ぎ切ると、対岸の森へと姿を消した。時間にすれば、ほんの十数秒くらいの出来事だったように思うが、その時の光景は、今でもはっきりと脳裏に焼き付いている。季節は、もはや晩秋といっていい頃で、タヌキ一家は、夏を過ごした山を下り、雪の浅い麓へと向っていたのであろうか。或いは、川を渡った向うの森に、冬ごもりの穴があったのだろうか。むろんそれらを確かめる術はないが、自然界を逞しく生きるタヌキ一家の営みに一瞬でも接せられたことは、大きな喜びであった。あの子タヌキもやがては親離れをして新しい家族をつくり、その子供もまたいずれ・・・こうして、自然界の営みは続くのである。
そんな、自然界に生きる動物たちの逞しさに接すると、冬になれば高気密の住宅でガンガンに暖房を焚いてヌクヌクとしている現代人が、何ともひ弱な生き物に思えてならないのは果たして筆者だけだろうか。確かに、ここまで文明を発達させた先人たちは偉大だと思うが、現代人の多くはそれにあぐらをかき、利便性、快適性が得られることを、あまりに当然視してはいないだろうか。
しかし自分だって、四六時中車を乗り回して方々へ出かけ、設備の整った温泉で寛ぐ旅ばかりしているのだから、偉そうなことは言えた義理ではない。だがせめて、先人への感謝の気持は常に心のどこかに置いておきたい、そんなことを考えさせられた、今年の秋である。
北の季節の移ろいは早い。秋は日々深まり、間もなく冬がやってくる。野山は深い雪に閉ざされ、そこに生きる動物たちには、受難の季節である。だが、どんなに冬が長く、辛くとも、季節はめぐり、春はまた必ずやってくる。次の春、厳しい冬を生き延びた逞しき野生動物たちに、必ずやまた逢えることを信じ、秋の旅に、そろそろ終止符を打つとしようか・・・(完)
いよいよ、秋も深まりを痛感する頃となりましたが、日に日に日没が早くなり、夜の時間が長くなるあたりに、特にそれを感じてしまいます。実際に旅をしていても、景色を楽しめる昼間の時間が短くなるのは、なかなか辛いものがあります。例えば、景色のいい露天風呂のある温泉に張り切って出かけてみても、着いた頃にはもう日は沈んでいて、景色は見えなかった、というようなことが往々にして起こってしまいます。その対策としては、常に余裕を持って行動し、どこへ行くにしても早めの到着を心掛けることが最良で、そうすることにより、のんびり、ゆったりとした旅ができることもわかっていながら、いざとなるとなかなか思うようにはいかないものでもあります。残り少なくなったこの秋、そして来るべき冬にも、いい旅、したものです。それでは、ごきげんよう・・・