冷夏だった昨年とは打って変わり、この夏はとてつもなく暑い夏でしたね。
北海道では、6月中に札幌で最高気温30℃超を記録し、7月上旬の一時期、曇り空の続く涼しい日が続いたことがありましたが、それも一時のことで、本州と比べれば“マシ”だったかもしれませんが、北海道らしからぬ夏ではありました。何しろ、暑さゆえに寝付けない夜を体験したのは、やはり大変な猛暑だった、ちょうど十年前の夏以来だったように思います。
もちろん、9月も下旬に差しかかろうとするこの頃では、すっかり秋の気配が迫りつつありますが、つい何日か前にも最高気温25℃を超える夏日を記録するなど、猛暑の余波がまだ感じられる日々ではあります。
それでは夏の終わりの旅人通信、少し遅れ気味の夏のテーマ満載で、お届けしたいと思います。
第三回 オホーツク沿岸への夢破れた“日本一の赤字線” 美幸線
現在のように道路が整備されていないばかりか、個人が自動車を所有することなど、一般的にはあり得なかった昭和初期、北海道各地では、鉄道建設の計画が多く立てられた。太平洋戦争の戦局悪化による工事の凍結や、すでに開通していた線区でも、鋼材供出のための営業休止に追い込まれる路線、区間もあったが、戦後復興から高度成長へと向かった昭和30年代になると、戦前からの悲願でもあった鉄道建設に再び拍車がかかり、道北地区でも、多くの路線の工事が進められることとなった。
美幸線もその中の一つで、路線名の美は美深、幸は北見枝幸をさし、内陸の美深と、オホーツク沿岸の枝幸を結ぶ路線として計画された。昭和34年8月に着工し、美深からおよそ20キロの地点に位置する仁宇布(にうぷ)までの区間が、同39年10月に開業する。途中駅は東美深、辺渓(ぺんけ)の二駅のみで、どちらの駅周辺も畑地に農家が点在するのみで大きな集落はなく、終点仁宇布も、六十戸あまりの開拓農家があるだけという、開業時から赤字線の宿命を背負っていたような路線であった。
国鉄時代には、年度毎に、全国の路線別の収支係数というものが公表されていた。これは、100円の収入を上げるためにいくらの支出があったのかを数字にしたもので、100を下回る数字であれば黒字線ということになり、逆に数字が大きくなればなるほど、多くの赤字を計上していることになる。先にも述べたように沿線人口が極めて少ない美幸線は、この収支係数ワーストワンの常連で、昭和49年度の数字を見ると3,859となっており、実に収入の四十倍近い支出があったことになる。営業区間が短いので、実際の損失額は大したものではなかったとも思えるが、国鉄にとっては、赤字を垂れ流す「お荷物」であったことは否めまい。
しかし、時の長谷部秀見・美深町長はそれを逆手に取り、“日本一の赤字線美幸線に乗って秘境松山湿原へ行こう”と、終点仁宇布より7キロほどのところにある、全国的には全くといっていいほど無名であった高層湿原をPRするポスターを町費で作成し全国に配布するという、いわば“逆転の発想”とも言えるキャンペーンを行い、美深町への観光客誘致に力を入れた。その甲斐あってか昭和51年度の美幸線の収支係数は2,608にまで下がり、ワーストワンの座を下りた。これにより、“日本一の赤字線”のフレーズが使えなくなる?という、妙な結果にもなったが、当時の町長がこのように入れ込んだ背景には、国鉄の分割民営化が不可避な情勢となり、そうなった折には、美幸線は工事区間も含めて切り捨てられてしまう、という強い危機感があったものと推察される。
だが、苦心の結果の観光ブームも一過性のものに過ぎなかったようで、昭和52年には美幸線は再び、収支係数のワーストワンに返り咲く。そして昭和55年10月に成立した国鉄再建法により、同線は第一次特定地方交通線に選定され、バス転換を前提とした廃止が不可避の状況に追い込まれる。同時に仁宇布〜北見枝幸間の工事も中止されてしまうが、長谷部町長は、ここでもなお諦めずに枝幸までの全線開業を訴え、再びキャンペーンを張ることになる。今度は町長自ら東京・銀座の街頭に繰り出し、美幸線の廃止反対と北見枝幸までの全線開通を訴え、美深〜仁宇布間の乗車券一万枚を販売、完売させたりして、その精力的行動は、マスメディアに大きく取り上げられる結果にもなる。
しかし、そもそもの過疎という本質的赤字要因は如何ともし難い上に、道路整備とマイカー普及というモータリゼーション進捗により、鉄道を取り巻く環境が大きく変わってしまっていた。殊に地方線区においては、鉄道は車を運転できない通学生と高齢者のための乗り物、という位置付けとなり、旅客離れに歯止めは掛からなかった。美幸線を含めた特定地方交通線を見渡してみても、自治体レベルでの廃止反対の動きはいくつかあったが、沿線住民や国鉄労働者が団結して廃止反対を唱える動きはほぼ皆無であったことからも、それは読み取ることができよう。
結局、長谷部町長の尽力むなしく、美幸線は昭和60年9月17日をもって廃止となった。代替バスは地元に路線網を持つ名士バスにより運行されるが、利用者は極めて限られており、後に全国版の時刻表には不掲載となり、現在に至っている。
では、廃止から17年を経過しようとしている美幸線跡を探訪してみることにしよう。
かつての起点駅であった美深駅は宗谷本線の駅だが、美幸線廃止に伴う転換交付金により、美深町交通ターミナルを併設、屋根上にはフランス製だという「美深の鐘」がそびえる、レンガ壁の瀟洒な駅舎に生まれ変わった。一方、近代的な駅舎に対してホームの跨線橋は古い木造のままで、その新旧の対比が何とも言えない。
美深を離れた美幸線は、宗谷本線の旭川方向へと進み、仁宇布方面へと向かう道道美深雄武線と宗谷本線が踏切で交わる手前で、およそ90度のカーブを左に切り、進路を東へと変じていたはずだが、麦やビート畠に民家が点在するその一帯に、線路の痕跡は皆無である。東美深駅があったと思われる辺りも一面の畠で、もはや線路はおろか、駅の痕跡さえも完全に消えている。むろん駅といっても、気動車一両が停車できるだけの長さの、いわば“縁台”のようなホームがあるだけの粗末?な駅だったことは想像するに容易く、痕跡を求める方が無理のようにも思われる。
そこから辺渓にかけても、線路跡は完全に畠に埋没している。無理もない話で、農家の人々にとって、畠を分断する格好で通っていた線路は、邪魔なことこの上ない存在だったに違いない。それが廃止となって跡地の払い下げを受けたのならば、道床もろとも完全に撤去し、畠にしてしまったのは当然のことであろう。かつて線路があったと思われるあたりでは、夏の午後のけだるい日差しを浴びながら、麦藁帽子をかぶった農家の夫婦が、汗をかきながら農作業に勤しんでいた。
美深一帯は内陸盆地だが、辺渓付近まで来るとだいぶ左右に山が迫り、平地は狭まってくる。公民館と、廃屋を含め数戸の建物があるあたりに辺渓駅があったと思われるが、ここでも痕跡は皆無である。しかし道道が右カーブし、小さな川を越えるところで、左手に線路跡のコンクリート橋を発見する。車を脇道へ突っ込み確認してみると、やはりそれは間違いなく美幸線跡で、橋の上にはバラストらしき砂利も残っている。橋の土台部分には「1960」らしき文字も読み取れ、1960年、昭和35年製だとすると、昭和34年に工事が開始された美幸線の歴史とも一致する。その橋詰の美深方位は3メートル近い段差となっており、かつては盛土がされていたものと思われるが、もはや跡形もない。これを見て、ここへ至るまでの畑地区間で、何一つとして鉄道の痕跡を見出せなかったことも納得させられる。
道道に戻って再び東へ進むと、発電所の建物を過ぎて仁宇布川の支流であるペンケ十号川が本流に注ぐあたりで、今度は右手にコンクリート橋を発見する。今度の橋は先ほどのものより長くて立派だが、やはり橋詰の護岸の仁宇布側は数メーターの段差をもって畠が広がり、線路の痕跡は消えている。“主”の通らなくなった橋上には、白樺の若樹が何本か根を下ろしており、うち一本は3メーター近くか、或いはそれ以上の高さにまで成長している。土などないはずのコンクリート橋に根差した白樺の樹。どのように根を生やしているのか興味のあるところだが、自然界に生きる植物の逞しさを、目の当たりにさせられた思いである。
辺渓を過ぎると、人家は完全に途絶える。道道は仁宇布川の削った谷沿いの原生林を縫って淡々と進む。先行車、対向車はもとより、ミラーに後続車も映らず、遥か枝幸町までを結ぶという遠大な計画があったにせよ、よくぞこんなところに鉄道を敷いたものだ、と思わずにはいられない。
昨年他界された鉄道紀行家の宮脇俊三氏は、美幸線についてこう書き記している。
「美深発7時05分の下り一番列車。列車といってもディーセルカー一両であるが、乗客は私一人であった。(中略)・・・沿線にはほとんど人家はなく、美深の平地を過ぎると、あとは原始林のなかをゆっくりと上って行くだけであった。
警笛を鳴らすこともなく、樹林の景観に格別の変化もない。二人の乗務員も一人の乗客も、ただ黙々、じっとして三十分を過ごす。おもしろくもなく、つまらなくもなく、時が静止したかのような無の世界で、ただ逆光に透けて見える新緑のみ美しい区間であった。」(新潮社刊「終着駅は始発駅」“赤字線の乗りごこち”より)
自動車を運転しながら“無の世界”に浸ることは不可能だが、人家もなければ車も人も全く現れない道ではあり、注意力は自然に散漫となる。ましてやハンドル操作のない鉄道の運転士ともなれば、さぞ退屈をする区間であったとは想像される。しかし北海道のこと、いつどこでエゾシカが線路に飛び出して来るかも知れぬから、前方への注意は怠れなかったはずである。シカばかりか、ヒグマが列車にはねられる事故さえ起こるのが北海道の辺境である。事実、美深町隣りの音威子府村の公営温泉には、宗谷本線で列車とぶつかって息絶えたという熊の剥製が飾られている。
仁宇布川を何度か渡る以外、変化のない景観が続くが、気付くと、左手には線路跡が並行し、しかもレールがそのまま残されている。廃止から17年も経とうとする路線としては異例のことだが、この理由はかつての終点、仁宇布へ至って知ることとなる。
辺渓から10数分も走った頃であろうか。不意に工場らしき建物が視界に飛び込んでくる。白樺の樹液をボトル詰めして出荷している工場で、白樺樹液には各種糖分や有機酸、ミネラル分などが多く含まれ、今はやりの“サプリメント効果”が期待できるという。事実、ここで生産される「森の雫」は、健康志向の高まりとも相成り、道内のみならず全国から注文が集まる、美深町自慢の特産品になっているという。
次第に盆地が開け、“市街”と呼ぶにはおよそ寂しい仁宇布の集落へ入る。国道40号線を離れてから初めて信号機のある交差点があり、直進すれば歌登町を経て、美幸線の目指したオホーツク沿岸の枝幸町へ至り、右に曲がれば、かつての観光キャンペーンで名を知らしめた松山湿原入口を経て、やはりオホーツク沿岸の町、雄武町へと至る。一方その反対側、左に曲がれば、そこはかつての美幸線終点、仁宇布駅跡である。
現在かつての駅舎はなく、道路を挟んだ向かいに、SLの動輪を配した記念碑が建っている。その先には島式のホームが残っており、色褪せた寝台電車、モハ583形一両が留置されている。
寝台電車の使用目的は不明だが、ホーム手前には「トロッコ王国」と掲げられたプレハブが建っている。これは、ここ仁宇布駅跡から美深方向およそ5キロの美幸線廃線区間を町で買い受け、トロッコを走行させる区間として提供しているものだという。レールまでが残された線路跡の謎は、ここに氷解した。
トロッコといっても、侮ってはいけない。手コギや足コギといった原始的なものではなく、ガソリンエンジン搭載の本格的なものである。そのため利用には、普通免許が必要だという。初夏から秋までの土日と、夏休み期間の毎日、営業しているとのこと。
訪れたのは、夏休み以前の平日であったため利用不可能であったが、現役時代の美幸線に乗る機会のなかった身としては、たとえその一部であれど、線路上を走る機会を求めたいのは当然で、いずれ時間を作って、このトロッコを体験したいと思う。
ホーム上に立ち北東の方角を見やると、“未成”で終わった枝幸を目指した道床跡が続いている。国鉄再建法施行による工事中止時、路盤や橋梁、トンネルといった基本工事はほぼ完了しており、あとはレールを敷設するのみという段階に達していたという。今さら、その仔細を検証することは不可能だが、ここ仁宇布駅跡から望む限りでは、時の長谷部町長の、
「中半端な部分開業のまま放っておいて、赤字線日本一、二じゃとは無責任きわまる・・・」
という主張にも頷ける思いはする。しかし現実には、浜頓別から北見枝幸へ至っていた興浜北線のみならず、同線を分岐していた天北線までが廃止されてしまい、北部オホーツク沿岸と内陸部を結ぶ鉄道構想は、地図上から完全に消滅してしまったのである。そして、国鉄分割民営化という大波の中、北海道では唯一、特定地方交通線の中から第三セクター鉄道として生き残ったちほく高原鉄道ふるさと銀河線(旧池北線)は、過疎と少子化による旅客減に歯止めが掛からず、バス転換やむなしという方向で廃止が協議されている最中である。仮に美幸線が枝幸まで全面開業に漕ぎ着けたとしても、美深〜仁宇布間は先に記したとおりであるし、この先の歌登町、そして枝幸町へ至る区間も、それと大同小異か、或いはそれ以上かとも思われる“超”過疎地の連続である。国鉄もといJRが、そのような過疎地路線を自社線として継承するとはおよそ考え難く、または第三セクター鉄道とすれば、道と沿線の三自治体に巨額の財政負担を強いたであろうことは明白である。何よりも、盲腸線ではなく、音威子府から南稚内までをスルーで結んでいた天北線までもが廃止されてしまったのだから、未成区間も含めた美幸線の“切り捨て”は、致し方がなかったと言うべきであろう。
だが現実論はさておき、鉄道の旅が好きな者にとっては、仮に美幸線が全通していれば、魅力的な路線であったことは疑いがない。内陸の美深から、四季折々の林相を見せる原生林を縫い、内陸盆地の歌登を経て、オホーツク沿岸の北見枝幸へ。そこからは、浜頓別を経て天北線経由で稚内へ向かう列車や、美幸線と同時期に工事が進められていた興浜線(北見枝幸〜雄武間)を経て、紋別や遠軽、さらには網走へ向かう列車に接続する・・・
もちろんそれらは、もはや実現することのない歴史の“IF”だが、多大な工費と、北辺の辺境で工事に従事した人々の苦労を思うと、せめてそんな夢物語を語りたくなるのは、果たして筆者だけであろうか・・・
不幸中の幸いは、未成美幸線の一部が、後に道道の改良に利用され、道路として日の目を見ることになったということであろう。しかしそれらは総延長のごく一部であり、それ以外の大半の区間は、打ち捨てられたまま、元の原野へ帰そうとしている。
一部区間の開通のみで「日本一の赤字線」という不名誉なフレーズを頂いたまま、廃止となった美幸線開通区間。そして、無人の原野に全通の夢を馳せながら、志叶わず逝った未成区間。近代の鉄道建設の矛盾を、改めて痛感させられた、廃線探訪の一日であった。(完)
道南の掛け流し温泉二選
ここ最近、全国各地で“ニセ温泉”騒動が勃発している。無色透明の源泉に入浴剤を添加して“にごり湯”を演出したり、源泉が枯渇した後も、井戸水や水道水を“温泉”と偽っていたり、もっとひどいケースだと、源泉からの供給量では、どうやり繰りしても配湯不可能な数の施設が乱立した挙句、温泉を全く引湯していない施設までが、「温泉」を名乗って営業していたという温泉地も発覚した。いずれも、管理者、経営者の良識を疑わざるを得ない事例ばかりであるが、このようなことが社会問題化するようになったということは、温泉に対しての消費者意識の高まりが背景にあり、温泉好きにとっては歓迎すべき傾向であろう。経営者サイドは、「温泉」の看板さえ掲げていれば客が入る時代はすでに終わり、正しい情報開示なくしては経営が成り立たぬ時代であることを、強く認識すべきである。
そこで今回は、道南地区から、循環使用なしの掛け流し公営温泉を二つ紹介することにしよう。
一つめは、函館の隣町、大野町にある「大野町せせらぎ温泉」である。内陸に位置する大野町は、道南ならではの温暖、小雪な気候を生かし、農業と花き栽培を基幹産業とし、近年では函館のベットタウンとして大規模な宅地開発の進む、小さいながらも活力のある街である。
そこへ来て、今年に入って北海道新幹線の新青森〜新函館間が予算決定され、着工に向けて大きな前進があった。函館本線現渡島大野駅付近が“新函館”駅建設予定地ということもあり、町は今、大いに盛り上がっている最中でもある。
肝心の温泉は、市街地からは西方角へ向かった街外れにあり、“せせらぎ”の名の通り、大野川に近い場所に立地している。敷地、駐車場の広さはもとより、平屋に高屋根の建物も、何とも広々としている、という印象を受ける。
館内に入ってもその印象は薄れず、入口正面のフロントまでも距離があり、その左右はフリースペースのロビーで、ソファーやチェアー、テーブルが配されている。
それだけ立派な施設にも関わらず、入館料は大人300円という手頃さ。町民ではない身には、やや申し訳なくさえ思える程だ。
喫煙コーナーを含めたロビー一帯だけでも、十分なフリースペースなのだが、右奥へ進めば、中広間と大広間からなる和室の休憩室まであるのだから、湯上りに寛ぐのには、もはや“過分”とも言えるだけのスペースがあると言えよう。但し食事処はないので、食事をするなら持込か出前で、ということになる。
一方浴室は左奥に位置し、やはり広々とした脱衣場から浴室へ進むと、洗い場と大浴槽があり、やや黄濁色をした、ナトリウム・カルシウム―塩化物泉の湯が満ちている。源泉温度は76.2℃あり、分間600リッターの湧出量がある。洗い場にシャンプー、石鹸類が備えられていないのは、道南地方の低料金市町村温泉によくあるスタイルだが、僅か300円の入浴料なのでよしとしよう。半円形の浴室の先には“廊下”があり、その先にもう一つの内風呂があるのだが、その“廊下”部分の外側に露天風呂がある。都合三つの浴槽があるわけで、しかもそれぞれがそれなりに広いから、きわめてゆったりと湯につかることができる。さらに嬉しいことに、お湯は源泉の掛け流し。湯口には飲用のコップも備えられ、浸かるだけではなく、“飲む”温泉も楽しむことができる。
人気があるのは、やはり露天風呂だ。背後に岩を配した半円形の浴槽は、7〜8人が一度に入れるほどの広さだが、人が途切れることはまずない。ナトリウム系の湯は温浴効果が高いので、仮に寒い季節であっても、ここの露天風呂の人気は高い。
現在は日帰り専用の施設だが、冒頭に述べた通り敷地は広いので、北海道新幹線開業が近くなれば、宿泊施設の増設もあるかもしれない。新幹線とともに発展が期待される町では、町営温泉の未来も明るいと言えようか。
次は、町域的には大野の隣町でもある、森町の温泉を訪ねよう。
森町といえば噴火湾(内浦湾)に面し、駅弁のいかめしはあまりに有名で、噴火湾で獲れる各種の水産品ならびにその加工品の町として知られるが、町域の東端は、砂原、鹿部、七飯町にまたがる秀峰駒ヶ岳を擁する町でもある。その駒ヶ岳山麓の駒ヶ峰地区に、町営温泉「ちゃっぷ林館」がある。この名称は、駒ヶ岳山麓の美林に囲まれつつ、ちゃぷちゃぷと湯に浸かることができることに由来してとのこと。
ここを初めて訪れたのはオープン直後の平成7年のことで、湯量豊富な内風呂の窓からは駒ヶ岳が望め、これで露天風呂があったならなお良いのに、と強く思ったものである。但し浴室窓の直下にはかなりの“スペース”があり、これは露天風呂増設を考えてのものでは、とも思った。
その予想は的中し、数年前、露天風呂が完成したとの報が伝えられ、楽しみにしつつ出掛けたのであった。が、結果は、期待に反するものであった。どういうわけか、露天風呂の配置に難があると言わざるを得ないのである。
まず、内風呂からの階段を下りた先に大露天風呂があり、その駒ヶ岳方位に位置する外側に岩と松を配した和風庭園が設けられているのだが、それらが肝心の駒ヶ岳の眺望を遮ってしまっている。その反対方位端には、やや高い位置に設けられ、あずまや風の屋根を持つ展望露天風呂があるのだが、その直下にサウナ室が設けられているため、それがやはり、駒ヶ岳の手前に覆い被さるのである。大露天風呂にしても展望露天風呂にしても、ほんの少し配置を工夫すれば駒ヶ岳が直に眺められたものと思われ、設計段階でもう少し考えられなかったのか、甚だ疑問である。
いきなり苦言から始まってしまったが、それもこの温泉の素晴らしいロケーションを生かし切れていないがゆえに出るのであり、それだけ素晴らしい場所に立地していることは特筆されよう。泉質はアルカリ性単純泉で、54.7℃、毎分520リッターと、泉温、湧出量ともに恵まれ、循環使用なしというのも嬉しい。単純温泉というのも、北海道においては数が少なく、希少価値ありと言える。
入浴料金は400円で、シャンプー、石鹸類なしは道南流だが、200円追加で、タオルとアメニティ一式のレンタルがある。サウナと露天風呂もあるので、400円の入浴料は高くはないが、備品一式を借りたら計600円というのは、高いか安いか、評価の別れるところではあろう。
館内には無料休憩室、ラーメンや栄養価の高いという韃靼(だったん)そばなどを揃えた「雑穀道場」なる食堂などがあるほか、野外活動の専属インストラクターがおり、予約により各種の野外活動、自然体験ができるほか、落ち葉を利用した「木の葉メール」づくりなども体験できるという。ファミリー向けのイベントを積極的に行っている公営温泉というのはあまり聞いたことがなく、ヤングファミリーが一日を通して楽しめる工夫も凝らされている。但し日帰り入浴のみの施設で、宿泊はできない。隣接して「道立森少年自然の家」(愛称“ネイパル森”)なる宿泊施設はあるが、団体利用向け施設で、個人の宿泊には不向きのようである。温泉に付属した宿泊施設の誕生が、待たれるところである。
今回の二施設以外にも、道南地区には循環使用なしの掛け流し温泉がまだまだあるが、それらはまた改めて紹介していきたいと思う。
それにしても、ひどい施設になると、一週間もの間、同じ温泉水を濾過循環使用していたりするというのだから、開いた口が塞がらない。銭湯(公衆浴場)の場合、お湯を毎日交換することが義務付けられているのに、温泉浴場にはそういった規定がないという法律の不備に問題もあろうが、この一連の“ニセ温泉”騒動が、温泉業界の「浄化」を加速させてくれることを、温泉ファンとしては願ってやまないものである。(完)
道北、音威子府村名物「音威子府そば」
北海道は蕎麦(そば)栽培が盛んな地としても知られている。道央では江丹別(旭川市)や幌加内町、道東では鹿追町や新得町が全国にも知られているが、道北の音威子府村にも、知る人ぞ知る、名物そばがある。今回は新そばの季節に合わせて、道北への旅へ出てみよう。
道北の内陸部に位置する音威子府村は、農業と酪農を基幹産業とする人口1,200人余りの、道内では最も人口の少ない村である。村域の八割を山林が占め、かつては林業で栄えたが、林業不振の現在では、その豊富な森林資源を活用した「森と匠の村」として、彫刻展示館を設けたり、工芸品や家具作りに取り組む工芸科の村立高校を設置したりしていることで知られている。
そんな小さな村ではあるが、ここの「音威子府そば」は、知る人ぞ知る名物である。知る人ぞ、というよりは、ある特定の趣味趣向の人々を中心に、といった方が正解かもしれない。その趣味趣向とは、鉄道ファン、ならびに鉄道を利用した旅をする人々の間で、ということになる。
かつて音威子府駅は、宗谷本線から、オホーツク沿岸の浜頓別を経由して稚内(正確には南稚内)へ至っていた天北線の分岐駅であった。往時の列車ダイヤは実にのんびりしたもので、急行列車ならいざ知らず、普通列車同士の交換待ち、或いは普通列車が対向もしくは後続の急行と交換ないし退避をするのに、平然と数十分間も停車することが珍しくなかった。
そういう列車に乗って音威子府駅で手持ち無沙汰の時間、殊にそれが肌寒い季節であれば、食事時ではなくとも、ホームのそば屋から立ち上る湯気に心動かされる人は少なくないだろう。しかもそのそばが、色がやけに黒っぽく、一般的なそばとはかなり異なる香りと食感であるならば、鉄道ファンや旅行者の間で口コミで評判になり、また鉄道絡みの紀行文などで紹介され、“その道”の通の間では知られるようになったのも、当然といえば当然のことではある。
現在の音威子府駅は、ログハウス調の「音威子府交通ターミナル」に建て替えられている。平成2年に廃止された天北線の代替バスを運行する宗谷バスが建物を管理しており、建物を入ると、まず宗谷バスの窓口がある。その奥の改札口手前にはJRのみどりの窓口があるが、本来の駅の“主”であった鉄道会社がターミナル内に間借りをしているという、いわば“庇貸して母屋を取られた”格好となっている。
そしてかつてはホームで店を構えていたそば屋は、駅舎もといターミナル内に移り、改札口脇でみどりの窓口と向かい合う形で営業している。時刻表を見れば、宗谷本線の普通列車には、ここ音威子府で相変わらずの長時間停車をやらかす列車もあるが、乗り換え客がホーム上の天北線から駅前のバスへと移り、ホームでは商売が成立しなくなったのであろう。
さて、ここのそばの特徴だが、先にも述べたように、まず色が黒っぽいことに驚かされる。これは、製粉の段階で蕎麦殻も一緒に製粉しているためという。原料蕎麦は道産の「大角和蕎麦」を用い、創業時である七十年前の蕎麦粉、製法、打ち方を守り通しているという。製造元の「畠山製麺」のオヤジさんが、店にも立っているとの由。
季節が夏の終わりでもあり、そばの香りを楽しむには、やはりざるがいいだろう。まず、香りが強めである。これは好き嫌いがはっきりと別れるところだが、私は好きである。そして口に含んで噛み切ると、独特のコシがある。讃岐うどんのような強いコシというのではなく、最初は強い歯ごたえがあるが、それがぷつりと噛み切れる、そんな独特のコシなのである。
もちろん寒い季節であれば、温かいそばも勿論いいだろう。但し、そばの味をより味わいたければ、余計なトッピングはせず、かけで味わってほしい一品である。この「音威子府そば」、村内はもとより近隣町村にも知られているようで、マイクロバスで小団体が乗りつけ、鉄道とは無関係に賑わっていることもある。但し休みは不定休らしく、運悪く閉まっていたら残念でした、ということらしい。ただ、生そばならびに干そばは駅前の商店でも販売しており、また、駅から程近い「道の駅おといねっぷ」内のレストランでも味わうことができる。さらに駅からはかなり離れるが、同村咲来地区にある村営の天塩川温泉のレストランにも、同じそばを使用したメニューがあるほか、お土産用のそばの販売も行っている。生そばは350グラム入り(約二人前)で336円。生そば、干そばの地方発送も行っているとのことなので、食べてみたい方は、畠山製麺、電話01656-5-3035番まで問い合わせを。なお、ウェブページでの検索も試みたが、商品紹介のページにはヒットしたものの、ウェブ上の通販は見つからなかったので、念のため・・・(もし知ってる方いたら、教えてください・・・支庁市町村ページはもとより、アマゾン、楽天でもヒットがなかったので、もし扱い通販サイトがあるなら、かなりマニアックなサイトと思われるので・・・)(完)
“夏”の季節感,“夏”の旅あれこれ・・・
四季の季節感はそれぞれだが、夏の季節感とは、いったいなんだろう,と思うことがある。分かりきったことを聞くな,夏と言えば暑いことこそが季節感だろう、と言われてしまいそうだが、ただ暑い暑いという言っているだけでは,風流さも何もあったものではない。本州以南は記録的猛暑で、北海道も、久々に夏らしい夏であった今夏を振り返りつつ、夏の季節感と、その“風物”を探してみたいと思う。
北海道では、長い冬が終わると、春と夏が極めて短いスパンで移り行く。梅、桜といった春の花が散るか散らないかなというタイミングで、早くも初夏を彩る花々が咲き始める。代表的なのは水芭蕉で、本州では高地の植物の水芭蕉が、北海道では海抜数メーターにある湿原にも自生している。道北のサロベツ原野や道東の網走湖女満別湖畔などが著名だが、これ以外にも有名無名の数多くの湿生花園が随所にあり、水芭蕉のみならずその場所ならではの花々で彩られる。本州以南各地が梅雨でじめじめした季節であるのに対し、梅雨のない北海道においては、からりとした空気の下、様々な花咲き乱れる素晴らしい季節となるのである。
筆者は花を愛でることを目的とした旅をするような風流人ではないので、正直なところ花や植物に関する知識は皆無に近いのだが、彩りあるところに旅することは吝かではなく、かつては毎年のように、初夏の礼文島に足を運んでいた。6月下旬から7月半ばにかけての同島は、まさに“花の浮島”と呼ぶに相応しく、島中いたる所が、天然の花畠と化する。何しろ、フェリーの着く香深港の背後の丘や断崖でさえ、エゾカンゾウやエゾスカシユリといった花々が咲き乱れているのである。そして一歩内陸へ歩を進めれば、エゾフウロやコマクサ、ウスユキソウといった、本来であれば高山植物と呼ばれている花々が、海抜数十メーターのところに咲き乱れている。日本の“北端”まで遥々足を運ぶ価値は十分過ぎるほどにある、最果ての島への旅である。
島の北部に位置する船泊(ふなどまり)市街の海岸段丘上に定宿にしていたユースホステルがあり、そこの食堂からは、居ながらにして船泊湾と、沖に浮かぶ海馬(とど)島、そして初夏の頃には、湾口部を成すスコトン岬と海馬島の間に沈む夕陽を見ることができる、きわめて恵まれたロケーションに位置する宿であった。そして、希望者が集まって海が穏やかであれば、その海馬島へ渡るツアーが行われた。現在無人島の海馬島は、周囲数キロという小さな島だが、ほぼ全島が自然の花畠で、まさに足の踏み場もないくらい、花、花、花…という島である。島の周囲は断崖が続いているが、その間隙にあるわずかな浜で、澄みきった空と海を見ながら楽しむジンギスカンは、敢えて最果ての無人島で行う価値のある“大人の炊事遠足”であり、まさに夏の醍醐味であった。夏こそ北の最果てへ、というのも、筆者の北方嗜好を現していると言えようか。
その礼文島へはこのところ足が遠のいてしまっているが、近年の初夏は、空知管内雨竜町にある雨竜沼湿原へ足を運ぶことが多くなった。同湿原は暑寒別・天売・焼尻国定公園内に位置しているが、同公園は国立公園と比較して地味なイメージの強い国定公園の中でも、特に道外の人々にはきわめて馴染みの薄い公園なのではなかろうか。離島の天売、焼尻の名を知る人なら少なくはないだろうが、暑寒別岳の名を知っている人は、相当な北海道通か、登山を趣味とする人々に限定されよう。
雨竜町は、札幌から100キロ弱離れた内陸の町で、鉄道は通っておらず(かつては国鉄札沼線が通っていたが、昭和47年に廃止)、雨竜沼湿原を除けばこれといった観光資源もなく、道外はもとより、道内からも訪れる観光客は少ない。そういう事情であるから、雨竜市街と湿原登山口を結ぶバス路線もなく、雨竜沼湿原を訪れるには、マイカーないしレンタカー、或いはタクシーと、車の利用が不可欠ということになる。それゆえに札幌から比較的近い場所であるにもかかわらず、手付かずの自然が残されている秘境でもある。そういうロケーションであるから、車さえ駆ることが出来るのなら、札幌からは日帰りで手軽にハイキング感覚で訪ねられるのが、このところ嵌っている理由の一つでもあろう。
具体的には、少々早起きをし、朝の渋滞が始まる前の札幌市街地を抜けてさえしまえば、その先は空知国道こと国道275号線の快適なドライブで、登山口まで2時間もあれば着くことができる。
登山道は、始めは緩やかな上りと、時折の下りがしばらく続くが、二本目の吊橋を超えると、心臓破りの急坂がしばらく続く。日差しがあって気温の高い時は、この登りはかなり堪えるが、やがて道は次第に緩やかとなり、湿原より流れ出す尾白利加川の流れに沿うようになると、もう湿原は近い。道が平らになると、早くもところどころに水芭蕉の群落が現れる。そして時季が6月であれば、運がよければ、単木ではあるものの、エゾヤマザクラの花と出くわすこともある。さっそくの花々の出迎えに、上り坂でかいた汗も吹き飛ぶ思いである。
やがて登山道は木道となり、いよいよ湿原へ到着である。視界が開けて、緑の絨毯を敷き詰めたかのような広々とした湿原の広がりと奥行きには、大小様々な沼と、咲き乱れる水芭蕉が点々と展開する。そしてその向こうには、残雪を抱いた暑寒別岳と南暑寒別岳。ここまで来ると、まさに“天上の楽園”という言葉が彷彿とされてくる。登山口からは1時間ほどの距離である。
水芭蕉やエゾカンゾウの花を愛でながら木道をてくてく歩き続けると、30分足らずで湿原の奥行きまで至り、そこから南暑寒別岳への登山道をしばらく登ると、湿原を見下ろす展望台がある。ここからは、ここまで歩いてきた湿原の全貌はもとより、晴れていれば増毛から留萌へかけての海岸と日本海を望むこともできる。ここで昼食を取り、しばし休憩してから下山しても、午後の比較的早い時間には登山口へ戻ることができる。そして帰り道の空知国道沿いならびに周辺には、多くの温泉があるので、どこかで一浴し、汗を流してから帰るというのが、定番となっている。程よく汗をかき、有酸素運動をした後の温泉は格別で、それらが可能な札幌という場所に住んでいることを、訪れる度に、何と恵まれていることか、と思わずにいられない。
個人的な初夏の旅の趣向が二題続いたが、三題目は誰もが納得の夏の風物、花火大会を取り上げてみよう。
札幌では、7月には三週に渉って金曜日の夜に、豊平川畔にて花火大会が開催される。筆者自宅の東札幌から比較的近い場所から打ち上げられるため、敢えて外出をしなくとも、自室の西側的から、居ながらにして夜空に展開する光と音との競演を楽しむことができる。但し場所柄ビルやマンションが族生しているところなので、打ち上げ高度が低い花火においては、それらビルやマンションに遮られて音しか聞こえないことが度々あるのだが。
夏の暑さを、“茹だる”と表現することはよくあることだが、今年は北海道においても猛暑で、そんな折に行われた三週連続の花火大会は、北海道らしからぬ熱帯夜の暑気を、視覚、気分的には相当和らげてくれたと思われる。
本州以南各地では、8月に入っても各地で花火大会が行われるが、北海道においては、8月も半ばを過ぎれば秋風が吹き始めるということで、夏の行事は概ね7月の集中せざるを得ないようである。札幌夏祭りの一環である大通公園のビアガーデンも、8月10日を以って終了となるのであるから、北の夏はかくも短いのである。
ビアガーデンも、夏の風物として、左党には欠かせない存在であろう。とは言いつつも、ここ最近は夏場に繁忙期を迎える仕事をしていたこともあり、北海道、札幌のビアガーデンには足を運ぶ機会には恵まれていない。そんな憂さを晴らすべく、ということのみではないのだが、夏の終わりの8月下旬ないし9月上旬に、旅先の西日本や九州のビアガーデンには随分足を運んだ。特徴的なのは、東海地方以西では前金制で飲み、食べ放題のビアガーデンが主流で、筆者のような大酒飲みかつ大食の人間には、たいへん有難い料金システムのところが多数あるということである。
印象深く残っているのは、数年前に足を運んだ松江のシティホテル屋上のそれであろうか。ホテルだけあり、飲み食べ放題のバイキング形式としては、こんな凝ったものを出すのか、と思えるほどの料理が並んでいて驚かされた。さらにこれはビアガーデンとしての評価外のことではあるが、たまたま通り掛ったシェフに話しかけらたことをきっかけに、自身は会社をリストラになったばかりという身の上話などで盛り上がり、一方ホテルの料飲部門もバブル崩壊後なかなか厳しい状況に置かれているといった話など、短い時間ながらも、きわめて内容の濃い話ができたのであった。正直、飲み食いこそが目的でのビアガーデン入りではあったが、それにプラスして実りのある人生話ができたのであるから、支払った料金以上の収穫はあったと思える。それにもまして筆者の場合、存分に飲んで食らい、オーダー制の店であったなら軽く大枚は支払っていたであると思われるものが前金のみで済んでいるので、何とも有難い話ではある。
昨年までの数年間は、鹿児島三越屋上のビアガーデンに通った。確かどの年も、8月下旬ないし9月の上旬のことであるが、南国鹿児島の残暑は厳しく、北海道より一ヶ月も長く、ビアガーデンが開設されているのである。
ここも前金制のバイキングで、飲み物がビールにとどまらず、チューハイや本格焼酎、日本酒、ワインに至るまで飲み放題というのがよかった。料理の内容は、前出の松江のそれよりはやや劣り、好きなだけ食べられるのだからよし、といったレベルではあったが、夏の終わりながら、毎回賑わっていたことを記憶している。残暑厳しい鹿児島で、ようやく涼しい風が吹き始める夕刻、桜島の噴煙を見ながら飲むビールは格別で、このところの“我が夏”の定番となりつつもあった。この夏は道外への旅は叶わず、いわば“思い出の定番”となってしまうかもしれないが、またいつか行ってみたい、“暑い”夏の、“暑い”南国のビアガーデンである。
さて、そんな夏もいつか過ぎ、もはや北海道では秋の気配が濃厚になりつつあるが、こと北海道においては、とにかく久々の猛暑であったと思われた。通常北海道では、日中の最高気温が夏日ないし真夏日を記録していても、日が沈めば急速に涼しくなり、場合によっては上着が欲しくなることも珍しくない、というのが本来の姿である。ところが今年は、夜になっても気温が下がらず、真剣にエアコンの必要性を感じた夜が多々あった。これは、全国的な猛暑、かつ自身が北海道に移住をした平成6年の夏以来のことであり、一時期、家電量販店はもとより、町の電器屋、リサイクルショップからまで、冷風扇、扇風機を含めたあらゆる冷房、冷風関連家電が姿を消した。実は我が家でも、これまでほとんどと言って必要性を感じなかったこともあり、冷風扇はおろか、扇風機さえもない生活を十年間続けてきたのであるが、いよいよ扇風機くらいは、と思った時、どこに行っても在庫がない、という有様であった。結局は、「そのうち涼しくなるさ…」と自分に言い聞かせ、団扇を扇いでどうにかやり過ごしたのであったが…
ところで冷房の話で思い出すのは、今を去る20年ないしそれ以上前の、中、高校生時代における、国鉄車両の冷房率の低さである。
当時の筆者は、学校の夏休みに、国鉄の周遊券(現在の周遊きっぷの前身)やフリーきっぷの類を使い、西日本や九州方面へ出掛けることが多々あった。周遊券と大半のフリーきっぷの場合、目的地までの経路上では急行列車の自由席には追加料金なしで乗ることができたが、すでに新幹線のある東海道、山陽本線においては、急行列車は極めて限られた区間のみ運行されているに過ぎなかった。特急券を購入すれば新幹線の利用も可能ではあったが、出費は必要最低限に抑え、若者は若者らしく…? と意識していたかどうかはともかく、料金不要の普通列車を積極的に乗り継いで、というスタイルの旅であった。
具体的には、東京を深夜に発車する、現在の快速“ムーンライトながら”の前身である、列車愛称なしの大垣行夜行普通列車で出発する。普通座席車で一夜を過ごし、翌朝着の大垣からは普通列車の乗り継ぎとなる。関西都市圏の姫路までは、殆どの列車が冷房車なのだが、ちょうど昼下がりの最も暑い時間帯を迎える姫路から岡山にかけての区間が、非冷房車に当る確率が極めて高かった。
しかも、今思えばよせばいいのに、当時の筆者は、区間によっては海沿いとなるということで、南からの日が差し込む進行左側の席にこだわっていた。その結果、二段式の窓を上段まで全開にし、かつブラインドを下ろしはするものの、ブラインドの隙間から吹き込む風は“熱風”に等しく、扇風機も、車内にこもった熱気を攪拌するに過ぎなかった。列車に乗っているだけで大変な運動をしたような状況で、乗り換えた列車がごくまれな冷房車で、あまりの心地よさに寝入ってしまい、乗り過ごしをしたというケースもあった。
JR移行後、地方線区の一般型車両においても積極的な冷房化が進められ、北海道を除く本州以南の旅客五社では、東北地区の一部路線を除き、波動用車両を除けばほぼ完全な冷房化が達成された今では昔話だが、“我が夏の旅”の思い出として、深く心に刻まれている。列車に乗っているだけで大汗をかく旅など、思い出すだけでぞっとし、二度と体験したいとは思わないが、一方で我が後の世代の旅する人々は、列車は何でも涼しいのが当たり前で、何を感じるまでもなく、下車して行ってしまうとすれば、やや物寂しい気もしてしまうのだが。
しかしながら、そんなことを論じている以上に、地球規模での温暖化は深刻な状況だという。国立環境研究所と東京大学気候システム研究センターなどのまとめによると、2050年の日本では、二十世紀中は50日程度だった最高気温30℃以上の真夏日が年間100日を越えるようになり、記録的猛暑であったこの夏の暑さでさえ「冷夏」に感じるほど、現在よりもはるかに高温多湿の、東南アジア的気候になるという。(9月17日の読売新聞朝刊から抜粋)
50年後まで生き長らえているかどうかは不透明だが、その間にも温暖化は進むのであろうから、ここ北海道の住生活環境も確実に悪化するものと思われ、果たしてどうしたものかと思う。相手方かそれを認めるかどうかはともかく、サハリンや千島、クリール諸島への日本人移住といった可能性も、長い目での今後の日露間で、持ち上がらないとも限らないと思うのは、果たして筆者だけであろうか。
日本にはいわゆる“四季”があり、その中で一隅を占めてきた夏という季節。しかしこのまま温暖化が進めば、日本も、現在の赤道直下の国と大差の無い、一年中が夏に等しき国となってしまいそうである。それを思えば、我々を含めたほんの数世代先までが、この国の“四季”を知っていた世代で終わってしまうのであろうか。その答えを知ることは、どうやら難しいとは思われるのだが…
(完)
「暑いですね…」の挨拶をこれほど交わした夏はかつてない、というくらい暑かったこの夏ですが、暑いばかりではなく、台風の異常に多い夏でもありましたね。
先の台風18号では、道内各地でも多くの被害が出ましたが、それ以前の台風の直撃を受けた西日本地方各地の甚大さは、北海道の比ではなく、当地の方々には、心よりお見舞い申し上げたい心境です。
思えば、昨年までの数年間、夏の終わり、すなわち今年、台風の直撃を受けた8月下旬から9月上旬にかけて、西日本各地を旅していました。もし今年もそちらへ出向いていたら、もしかしたら自分も台風被害に巻き込まれていた可能性もあるので、背筋の凍る思いがします。あるいはこの夏、北海道を離れずにいたのは、何かの力に導かれてのことだったのでしょうか?私の母は九州出身で、いわば私の血筋の半分は九州人なわけですから、ご先祖が、災いから遠のけてくれたと考えられなくもなく、何か神妙な気持ちにさせられます。これまで、先祖を敬うことなどほとんどしないままに生きて来た身ですが、ここへ来て、少し考えを改めなくては、と思い至ったこの頃ではあります。
では、またお逢いしましょう。ごきげんよう!