ザ・ミーターズ

ORIGINAL ALBUM (CD) ・ compilation CD (CD) ・ HOME ・ お気に入りのミュージシャン


METERS 1
 もう20年近く昔のことであろうか。狭い路地の間に、なぜか薄い緑のキャベツが転がるジャケットを抱えた友人が、「ミーターズはいいぞ」と教えてくれたのは。また、その後P-VINEから出た「Gumbo Ya-Ya」というアルバムに、鶏の鳴き声を模したタイトなインストが入っていたのを聴いたのは。でも、そのころ僕の体の真ん中にミーターズが入り込むことはなかった。ただし、頭の片隅に確かな足跡はついていたようだ。
 その後今のバンドを始め、ファンクに興味を覚えた頃、ベースのフクチャンからミーターズを勧められて、本格的に聴くようになった。10年ほど前だったか。当時は初期のもののコンピしか手に入らず、最初はスカスカのサウンドにあまり興味を感じなかった。歌がないのもつらいところだ。しかし、繰り返し聴くうち、このバンドの麻薬のような魅力に取りつかれていった。それは特有の「ノリ」だった。メロディが印象的とかいうわけではない。でも、4人が絡み合いながら紡ぎ出す「ノリ」は他のバンドからは感じられないものだった。こうして僕はいつしかこのバンド、ミーターズにはまっていった。
 ミーターズとネヴィル兄弟の関係は極めて深い。1937年ニューオーリンズでネヴィル兄弟の長兄アーサー・ジュニア、つまりアート・ネヴィルは、音楽好きの父アーサー・シニアとブラック・インディアン(アフリカンとネイティヴの混血)の血をひく母アメリアの間に生まれる。4才で教会のピアノを弾き、10代の時にはターコイズに参加(すぐに解散)、さらに1952年にホウケッツを結成し、1954年には CHESS から「マルディグラ・マンボ」を出しローカルヒットさせる。その後アートは SPECIALTY と契約し、「オー・ウィー・ベイビー」をリリースするが、1960年まで兵役にとられ、活動を中断する。除隊後は INSTANT から「トゥー・マッチ」「フック・ライン・アンド・シンカー」などの曲を出すが、大ヒットには至らず、1963年弟アーロンが所属していた MINIT の倒産などもあり、ニューオーリンズの音楽シーンは冬の時代を迎える。
LEE DORSEY 1966年に入り、アーロンが「テル・イット・ライク・イット・イズ」の大ヒットを飛ばすと、アートはネヴィル・サウンズというネヴィル兄弟(アート、アーロン、シリル)を軸に据えたバンドを結成する。子供の頃クラシックのピアニストやギタリストを目指していた1947年生まれのジョージ・ポーター・ジュニアは、アートの助言によりベースに転向した。ルイジアナ・ブラック・デヴィル・バンドのバンジョー・プレイヤーを父に持つ1946年生まれのレオ・ノセンテリは、幼少時代から音楽に親しみ、ギターを持つと初めはジャズを学び、ジョージ・ベンソンやウェス・モンゴメリーのようなプレイヤーを夢見ていた。しかしコズィモ・マタッサのスタジオで、リー・ドーシーなどのセッションに参加するようになり、ネヴィル・サウンズの一員となる。ジョン・”ジガブー”・モデリステは当初代役としてバンドに参加した。しかし当時のオリジナルのドラマーは、”ジグ”の演奏を聴くととっとと辞めてしまった。
 アートは彼のアイドル、ジェームズ・ブッカーの影響からハモンドB-3を導入、サックスを加えた7人編成でしばらく活動、1968年6月に地元のアイヴァンホー・クラブのレギュラーの座を射止めた。しかしクラブは7人編成のバンドを雇おうとはしなかった。しかたなく、ネヴィル・サウンズはリズム隊3人にアートを加えたファンキー・ミーターズと、アーロン、シリルらのソウル・マシンに分裂してしまう。ファンキー・ミーターズはクラブで「枯葉」や「星空のステラ」などのスタンダードやダンスチューンを演奏する傍ら、4人のインタープレイを展開していった。こうして頭角を現したファンキー・ミーターズに目をつけたのが、ほかならぬアラン・トゥーサンであった。
 トゥーサンはすでに65年くらいから、リー・ドーシーの「ゲット・アウト・オヴ・マイ・ライフ・ウーマン」「ワーキン・イン・ア・コール・マイン」といった録音で、よりシンコペイションの強いサウンドを追求し始めていた。その眼鏡にかなったのがファンキー・ミーターズで、まずはトゥーサンとマーシャル・シホーンが経営する SANSU からアート名義で「ボ・ディドリー」「ハートエイクス」をリリース、同時にトゥーサンの秘蔵っ子リー・ドーシーのバックを務める。そして1969年 JUBILEE 傘下の JOSIE からミーターズとしてデビュー、第1弾「ソフィスティケーテッド・シシー」がいきなりR&Bチャート7位のヒット、続く「シシー・ストラット」は4位となり、ニューオーリンズきってのインスト・バンドとしての地位を固めていく。METERS 2
 この時代のミーターズのサウンドは、スタジオやライヴでのインタープレイを凝縮したようなインスト・ナンバーがほとんどである。"ジグ"が叩き出す、シンコペイトし、時には微妙なタイミングのズレさえあるニューオーリンズ直伝のセカンドライン・ドラムを下敷きに、レオがソロを取るとすかさずアートとジョージがリフを弾き、アートがソロになるとレオとジョージがユニゾンで応えるといった、変幻自在の絶妙なコンビネーションから産み出される緊張感にある。そこにはギターやオルガンの冗長なインプロヴィゼイションは必要ない。これらのリード楽器は、時に完全にリズム楽器と化す。そして透き間を埋めるのではなく、むしろ強調するようなジョージのベース。彼自身の証言*1によれば、リズムギターを弾いていた経験から、全音を弾ききらず、半音で切ってしまうようにしたとのこと。これを"ジグ"と相談して取り入れた。この、弾かないことによって生み出される隙間が、ブッカー・T&ザ・MG'sなどとは明らかに異なる、ミーターズ特有の魅力となるのだ。それはあたかも老荘思想の「無用の用」のように。
IN THE RIGHT PLACE ジェームズ・ブラウンが作り出し、スライ・ストーンやジミ・ヘンドリックスが発展させつつあったファンクを取り入れながら、ニューオーリンズのカラーをしっかり染み込ませた JOSIE 時代のミーターズは、手拍子や合いの手、コーラスなど徐々に音に厚みを加えながら、アルバム3枚、シングル10枚をリリースし、1970年にはビルボードとレコードワールドのベストR&Bインストゥルメンタル・グループに選ばれた。しかし翌年 JUBILEE が倒産、REPRISE へ移籍する。このころからミーターズの音に大きな変化が現れてくる。それまでのインスト中心から、アートのヴォーカルを前面に押し出すようになっていくのだ。また、このころから弟シリルがパーカッションやコーラスで参加するようになると、サウンドはよりアフリカを意識したような、込み入ったアレンジが施されていくようになる。ギターの多重録音やワウワウなどのエフェクタの多用がそうしたサウンドをさらに複雑なものとしていった。
 一方この時代、アラン・トゥーサンは時代の寵児であった。彼はプロデューサーとして人気の頂点にあり、例えばザ・バンドなども「トゥーサン詣で」をしていたくらいだ。1973年ニューオーリンズ出身のドクター・ジョンはトゥーサンのプロデュースの下、ミーターズをバックに「イン・ザ・ライト・プレイス」を発表、1974年にトゥーサンとシホーンはシー・セイント・スタジオを設立すると、ミーターズはそのハウスバンドとしてスタジオ・セッションに借り出される。ラヴェルの「レディ・マーマレード」はこの時代のトゥーサンの代表的な仕事で、ミーターズのメンバーも録音に参加している。ミーターズはこの間も精力的にアルバムをリリース、ニューオーリンズを代表するヴォーカル&インスト・バンドとしての地位を不動にするとともに、ライヴバンドとしての名声も得、1975年にはローリング・ストーンズのオープニング・アクトを務め、ポール&リンダ・マッカートニーとウイングスとともにクイーン・メアリー号でのライヴなどもおこなっている。LABELLE
 こうして REPRISE で3枚のオリジナルアルバムを出し、プレイヤーズ・プレイヤーとして、1976年にはローリング・ストーンズ誌のベスト・バンドに選ばれたミーターズだが、すでに商業的にはかげりを見せ始めていた。その上プロデューサーとは名ばかりで、ミーターズの録音にはほとんど姿を見せず、セッションワークにこき使うだけのトゥーサンや、練習テープを寄せ集めて作った「Trick Bag」を、ミーターズのヨーロッパツアー中に、勝手にリリースしようとしたシホーンに対する不満はつのっていった。その上アートの母の死をきっかけに兄弟が集まり、母の兄ジョージ・ランドリー率いるブラック・インディアン・トライブのアルバム「The Wild Tchoupitoulas」を、ミーターズ全員とネヴィル兄弟が結集して作ったが、プロデューサー名義を録音にタッチしていないトゥーサンとシホーンにされたことは、この溝を決定的に深めた。そして1977年解散を決意したミーターズは、最後のアルバムをサンフランシスコで録音するが、これも失敗に終わる。
 解散後のミーターズのうち、アートと途中から加わったシリルは、他の兄弟とともにネヴィル・ブラザーズを結成して現在も活躍している。この現在世界最強のライヴバンドについては、稿を改めて紹介したい。また、解散後もオリンピック・イヤーごとにミーターズは再開して演奏を続けていた。1988年には一時引退した"ジグ"に代わり、ディヴィッド・ラッセル・バティステというセカンドラインのサラブレッドをドラムに迎え、ミーターズとしてツアー、1993年には来日もしている。1994年にはレオに代わってブライアン・ストルツがギターとなり、バンド名もファンキー・ミーターズ*2として現在も活発に活動を続けている。ジョージはスヌークス・イーグリンのバックでも2度来日、BLACK TOP の専属ベースのような活躍(ソロアルバムも出した)もあったし、レオは昨年ライヴアルバムをリリースして元気なところを見せている。さらにうれしいニュースとして、"ジグ"がこのたびニューアルバムを出したそうだ。まだまだ彼らからは目が離せない。

*1 「ブラック・ミュージック・レビュー」No.155 p.22
*2 右のアドレスが公式ホームページ。http://www.funkymeters.com/


画像は上から 参考文献:「レコード・コレクターズ」1990年11月号、前掲CD「Funkify Your Life」のドン・スノウデンによるライナー。


The Meters

Arthur "Art" Neville (アート):key,vo
Leo Nocentelli (レオ):gtr
George Porter Jr. (ジョージ):bass
Joseph "Zigaboo"("Zig") Modeliste ("ジグ"):dms
Cyril Neville (シリル):perc,vo
オリジナル・アルバム(CD)

コンピレーション・CD