北海道の冬は、当たり前の話、長い。暦の春を迎えても、北海道は、まだ雪の中。しかし、3月を迎えると、陽は長くなり、気温も徐々にではあるが上昇し、雪どけが進むのもまた事実。花の季節にはまだ程遠いものの、ネコヤナギの芽が大きくふくらんでいるのを目にしたりすると、やはり、季節は確実に進行していると実感したりもします。
2月は、さっぽろ雪まつりをはじめ、道内各地で、雪と氷のイベントが目白押しの月でした。しかし、それも3月に入るとすっかり影をひそめ、「春待ち」モードに入ったかの感もあります。自宅アパート車庫回りと通路の氷割りも済ませ、このまま春になれば、と思ったところですが、残念ながら2月末には、一日の降雪量としては観測史上最高というドカ雪が降り、3月に入ってからも、雪融けが進んだか、と思った頃にまた降る、といったことを繰り返し、まだまだ雪景色の日々です。トータルの積雪量もかなり多い冬と言えそうですが、何よりも「雪が遅い」のが今冬の特徴だったようです。
2月は、流氷を訪ねる旅に出ました。流氷情報では、宗谷岬から知床半島にかけて、ほぼ全海域流氷に覆われているということでしたが、実際に足を運んでみると、宗谷岬から枝幸にかけては、接岸した名残の氷が海岸のところどころに残るものの、青いオホーツク海が広がるのみ。しかし、さらに南下を続けると、沖には流氷帯が見え出す。その流氷帯も一旦姿を消すものの、雄武に至ってかなり近くにまで接近。ここで、昨年オープンしたばかりの公営温泉「オホーツク温泉日の出岬」に立ち寄ると、この日の出岬がまさに、流氷接岸の境界。露天風呂から望むその様は、まさに冬のオホーツクの醍醐味でありました。
さらに南下を続け、網走を経て小清水へ。この町の某所に、私の北海道のみならず、全国でも最も好きと言っていい景観を望む場所の一つがあります。昨年、道主催で行われた「新北海道百景」募集にも、是非推したいところでもありましたが、その結果、多くの人が押し寄せるようになっては、私の心安らぐ場所が失われることになりかねないので、応募は見合わせたという経緯がある場所でもあります。何しろ、交通の便は、北海道にあってはかなり良い部類の場所なので、具体的言及は避けさせてもらいますが、その場所からのオホーツク海と、北の能取岬、そして南の知床半島を望む様は、まさに“絶景”の一言です。そして、地元の人が時折犬の散歩などで訪れる以外は、限りなくその絶景を独り占めできるのが、その場所の最大の魅力でしょう。
その日の流氷は、完全な接岸ではなく、ところどころに海面が覗くという状態。もちろん浜には、打ち上げられた氷があり、その氷を砕いて、流氷ロックを楽しむことになります。流氷は、シベリアのアムール川の水が凍ったものなので、基本的には真水の氷ですが、真水のまま大きな氷になるのではなく、最初はシャーベット状の氷だったものが、次第次第に大きな氷へと成長していくものなので、その過程で、わずかな海水も取り込まれ、ほのかに塩からいものなのです。ゆえに、その微かな塩分との相性は、香りの強いウィスキーやブランデーよりも、くせの少ない焼酎が最高なのです。つまみは、車で調理してきた道内産の焼き牡蠣。風は冷たくとも、ほのかに塩からい焼酎ロックと牡蠣の相性も最高で、誰もいない浜辺でそれを一人楽しむのは、最高の贅沢…。今後も、その場所が、必要以上にメジャーにはならないことを祈る限りです。
そこから先は、定番の小清水温泉、そして屈斜路湖畔の無料露天風呂を訪ねたりして南下を続け、太平洋岸に至って浜中や新冠の新しい温泉に入ったりして、札幌へと戻った旅でありました。不思議なことに、ほぼ一日おきに晴天と荒天が繰り返され、穏やかな印象と荒れ狂う印象が交互する旅でしたが、そんな旅もまた、味があるものです。
2月の末からは、カタログが大量に入り、捌き切れないということで、中央ペリカンセンターに足を運ぶことになりました。実は、1月末からしばらくの間も、同様にカタログの宅配に従事したのですが、今年の日通は、どうやらカタログの当たり年のようです。おかげで、例年ならば道路区画線工事の仕事をするのが恒例の春なのですが、しばらくは宅配でやっていけそうで、例年とは違った春となりそうです。そのカタログが一段落したら、また、旅に出たいな、と思うこの頃でもあります。
以上、北海道&旅人、ナウでした…
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第六回 海峡のマチの温泉めぐり
道南地方は、道外にも広く知れ渡った温泉密集地帯で、湯の川や登別といった著名温泉のみならず、秘湯、あるいは湯治の湯として知る人ぞ知る存在のひなびた一軒宿の温泉も点在しており、温泉ファンには実に魅力的な地帯である。そこへ最近では、設備の整った公営の温泉も続々誕生し、そのバラエティはますます豊かになった。今回は、函館から松前街道を南下し、その沿道の温泉を訪ね歩くことにしよう。
函館市街から国道228号線を進み、上磯町に入ると、道路はやがて函館湾沿いに進む。湾の向いには函館山が浮かび、さらに南に目をやれば、晴れた日には津軽半島の陸地も望むことができる。道路はほぼ海岸沿いに敷設されているが、山側の段丘上には江差線の線路が走っている。津軽海峡線の一翼を担うこの路線は、ひっきりなしに列車が行き交う。特に目立つのは貨物列車で、かつての海峡の主役青函連絡船に代わり、今は鉄路が海峡間の物流を担っている。
木古内町を過ぎで知内町に入っても、国道はほぼ海岸沿いに進む。すでに函館湾から津軽海峡に出ており、やがて知内市街へ至る。「知内駅前簡易郵便局」の名は、かつてここを走っていた松前線の名残りである。市街を過ぎると国道は、海岸を離れ山間部へと進む。町の西寄りに位置する湯の里地区には、北海道では最も歴史が古いとされる「知内温泉」がある。湯の里という地名も、この古くから湧く温泉に因んだものである。
現在の知内温泉巣は、“ユートピア和楽園”という一軒宿の旅館だが、その歴史は、鎌倉時代の宝治元年(1247年)、甲州の城主源頼家郷の命を受けた荒木大学が、金山見立のために来道し、この地に居城を造った際に発見したことに遡るという。小屋を建て打身疵等を治療した所その効能直ちにあらわれた、と古文書に記されているといい、歴史の浅い北海道に於いては、希少な歴史を有する温泉である。
現在の施設はレンガ調の外壁のモダンな建物で、日帰り入浴は三百五十円と手頃な料金である。泉質は、鉄鉱泉、炭酸塩類泉、明ばん泉など数種類を誇り、男女別の岩風呂のある内風呂のほか、混浴の露天風呂もあり、なかなかバラエティに富んでいる。生ビールや軽食類を販売するコーナーもあり、なかなか楽しめる施設である。
同じ知内町内には、公営の温泉もある。その「知内こもれび温泉」は海岸に近い元町地区にあり、海峡を見下ろす丘陵上に立地している。日帰り専用の施設で、料金は四百円。フロント前には広いロビーがあり、その奥には和室の休憩室が広がっている。その山側が浴室となっており、中央には水着で入るリラクゼーションプールと幼児用プールが設けられている。近年、温泉施設にプールが併設されるところが増えているが、プールと温泉は別料金というところが主流である。しかしここは、温泉入浴料のみでプールにも入ることができる。私が訪れたのは海水浴シーズンではなかったため、当然水着の類は持ち合わせておらず、プールには入ることができなかったが、次回この方面を旅する時は、季節を問わず海パン持参で望みたいものである。
先にも述べたとおり山側に浴室があるため、海を見下ろす立地でありながら、浴室からは海を見ることができないのは残念である。内風呂にはジャグジーとジェットバスのある浴槽とミストサウナがあり、露天風呂は檜浴槽である。一方の浴室にはドライサウナと岩風呂の露天風呂があるそうで、週代わりで男女を交代しているという。泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物泉で、37.1℃の源泉を浴用加熱して使用している。シャンプーはないが石鹸は置かれており、そのあたりは入浴料四百円の公営温泉の標準的な姿でもある。
露天風呂の背後には、杉の美林が広がる。杉はもともと北海道には自生しない樹木だが、松前藩が藩策として植樹したものが、道南各地では現在でも多く残っている。その景観は、どこか下北や津軽に通じるものがあるが、そんなところにも、北海道でも道南地方ならではの歴史を感じることができる。
228号線は、そんな杉林の茂る山間部で、知内町から福島町へと入る。福島町は、千代の山、千代の富士の二横綱を輩出した「横綱の里」として知られ、全国唯一の女相撲大会が行われる町としても、その名を耳にしたことのある人は多かろう。そしてかつては、青函トンネルの北海道側の工事基地が置かれた町でもあるが、当初の在来線規格から新幹線規格に工事が変更されたことにより、トンネルの北海道側出入口は知内町に移り、「工事基地」の町としてのみ、その名をとどめることになった。そして青函トンネル開業と同じ年の昭和63年、町内を走っていた松前線は廃止となり、福島町は鉄道のない町となってしまったことは、何とも皮肉なことである。
そんな福島町の吉岡地区に、公営の日帰り温泉「吉岡温泉 ゆとらぎ館」がある。トンネル工事基地の跡地に設けられたトンネルメモリアルパークから、吉岡川に沿って山側に数百メーター山側に入ったところに立地し、入浴料は四百円。玄関前の屋根とロビーの天井は、トンネルをイメージしたものになっており、「トンネル基地の町」としての自負は、いまだ根強いようである。
自販機とソファーの置かれたロビーの向かいにはトレーニング機器の置かれたリフレッシュコーナー、その奥には和室の休憩室があり、フリースペースは充実している。脱衣所がやや狭いのが難点だが、浴室は広々としており、ジャグジー、寝湯、歩行浴、サウナに水風呂と風呂の種類も豊富である。露天風呂の浴槽は杉と檜材で設えられており、あずまやが架けられている。そのあずまやに使用されている檜材は、津軽海峡の向こうの青森県三厩村から贈られたもので、海峡を挟んでの北海道と青森との歴史的な結びつきの強さを物語っていよう。泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩泉で、46.1℃の高温泉である。シャンプーはないが石鹸は置かれているというのは、同じ料金の知内こもれび温泉と同様である。
さらに228号線を南進すると松前町に入り、ほどなく北海道最南端の白神岬を通過する。その先は北東に向かうかたちで海岸沿いに進み、やがて北海道唯一の城下町、松前市街へと至る。現在の松前城は、再建された天守閣があるほかは城郭としての遺構は石垣と堀が残る程度だが、城址一帯に植えられた桜の本数と種類は全国でも類がなく、北海道きっての桜の名所となっている。種類が豊富ゆえに花の時期も長く、四月下旬から五月いっぱい位まで花見を楽しむことができる。城下町も、幾度かの大火で歴史的な建物はほとんど失われ、現在では静かな漁業の街、といった風情だが、福山、博多、唐津といった全国の城下町から取った地名に、その歴史を偲ぶことができる。
町営の「松前温泉休養センター」は、そのやや手前の大沢地区にあり、海岸からは、大沢川沿いに少し遡った盆地に位置している。日帰り専用施設だが、北海道では珍しい瓦屋根を持つ木造平屋建ての建物で、玄関天井の大行灯が出迎えてくれる。扉なども杉材で設えられており、休憩室も純和風となっている。料金は銭湯料金の三百三十円で、サービスカードにスタンプを12個集めると、一回無料で入浴できるという特典がある。浴室は露天風呂はなく、シャンプーはもとより石鹸の備えもない。その点では、温泉銭湯と割り切った利用を、ということかもしれないが、前庭には和風庭園が設えられ、仕切り壁と湯の湧き出し口には瓦の飾り屋根が設けられており、浴室内までもが「和」を意識した造りとなっているのには感心する。お湯は黄濁したナトリウムー塩化物・硫酸塩泉で、白いタオルなら赤く染まる“赤湯”である。
この温泉のルーツも歴史があり、知内温泉の鎌倉時代には及ばないものの、およそ百五十年前の江戸時代に遡るという。松前藩の武家のみならず、町人や、迫害から逃れてこの地に辿り着いた隠れキリシタンも、この温泉で身体を癒したという。開拓史以前の歴史の匂いがするのは、やはり道南地方ならではといえよう。
なお、知内温泉ユートピア和楽園を除く三か所は、無料の休憩室こそあるが、施設内に食堂や軽食コーナーはないので、手ぶらで行った場合、食事は出前に頼らざるを得なくなる。できることなら、あらかじめ弁当などを用意してから、足を運びたいものである。(完)
脱、ジンギスカンを模索する札幌のビール園事情
北海道、と言えばジンギスカン、である。花見の席で、或いは夏、大通公園に開設されるビアガーデンのジンギスカンコーナーで、もうもうと煙を上げるジンギスカン鍋を囲う光景は、北海道の風物でもある。そればかりか、ジンギスカンは家庭にも深く浸透しており、祝い事などがあるとその日はジンギスカン、というのがかなり一般的だという。本州ではあまり小売りされていないラム肉が、当然のようにスーパーや肉店の店頭に並んでいるということからも、そのことを伺い知ることができる。
そして、ジンギスカンの殿堂といえば、やはりビール園である。現在、札幌市内にはビールメーカー三社が直営するビール園があり、いずれも、ジンギスカンをメインメニューに据えていることには変わりがない。しかし、消費者の舌が肥え、味覚の好みも細分化された現在、ジンギスカンオンリーでは客のニーズに応え切れなくなったようで、それ以外のメニューにも、力が入れられつつあることが感じられる。そんなビール園の事情を、今回は取り上げてみよう。
まずはビール園の老舗、東区北7条東9丁目に位置するサッポロビール園に足を運ぼう。JR苗穂駅にも近く、赤レンガの煙突と建物がシンボルマークのサッポロビール札幌工場内にあり、道外から札幌を訪れたことのある方も、列車の窓から煙突と建物を目にしたことがあるのではないだろうか。
メインメニューのジンギスカンは、食べ飲み放題のキングバイキング(100分)が、生ラムジンギスカンが三千四百円、冷凍ラムだと三千百円となっている。ジンギスカン以外のメニューでは、鉄板に敷き詰めた野菜の上に牛ロース、生ラム、鮭のいずれかを乗せて焼くジャンジャン焼、石焼鍋で肉、野菜、魚貝類を焼いて食べる石焼鍋などがある。四名以上で宴会プランがあり、じゃんじゃん焼プランだと、メインメニューのほかにシーフードプラッター(カニ、ツブ、エビ等シーフードの豪華盛合せ)、バターポテト・バターコーンの盛合せ、生寿司、デザートがついて一人二千八百円(飲み放題はプラス千円)、石焼鍋プランだと、石焼食べ放題にタラバガニ盛り、キムチにおにぎりがついて一人三千八百円(同)などとなっている。また、PM6:30〜9:00までの時間限定、予約制で、“赤レンガバイキング”というのもあり、こちらはカニ、寿司、ジャンジャン焼、オードブル、サラダにフルーツ、デザートまで、全二十品以上が食べ放題で、飲み放題もついて一人四千八百円である。これらなら、観光客のみならず地元の人間でも十分楽しめること請け合いで、いずれも一度は楽しんでみたいものである。
次は、近年、中央区南10条西1丁目にオープンしたキリンビール園へと向かおう。地下鉄中島公園駅から近く、ススキノからも徒歩圏内にあり、アプローチのいいビール園である。かつては老舗キャバレーだったという建物の2、3階はスペースクラフトと名付けられており、11メートルの吹き抜けを持ち、音楽公演などのホールとしても利用できるという。そのあたりは、かつてキャバレーだった建物所以であろう。
ジンギスカン食べ飲み放題コース(100分)は三千三百円、ジンギスカンとにぎり寿司コースだと四千三百円となっているが、最近、ジンギスカンとカニプレートコース四千三百円、ジンギスカンとカニ食べ飲み放題コース五千八百円が加わった。カニを、ジンギスカンと並ぶ主役級と位置付けたのは、ライバルとなる飲食店のひしめくススキノに近いという地域性でもあろう。ほかに、とりみそちゃんこ鍋コース三千円(飲み放題付き)、北の収穫鍋とにぎり寿司コース四千円(同)もあり、後発勢力らしく、創意工夫が伺える。残念ながらこれらはまだ味わったことがないので、ぜひとも一度試してみたいものである。
次は、私の自宅からも近い、白石区南郷通4丁目南のアサヒビール北海道工場に隣接する、アサヒビール園本店へ。札幌中心部から5キロほど離れたここは、開店当初から、観光客よりも地元客にターゲットを絞った経営で知られ、地域密着型のビール園として市民に親しまれてきた。ゆえに「脱ジンギスカン」への取り組みも早く、十年以上前に、ラムしゃぶと焼しゃぶを世に送り出し、今やジンギスカンと肩を並べる看板メニューとなっている。
もちろんここでも定番はジンギスカンで、生ラムの食べ飲み放題(2時間)が三千三百円、冷凍ラムだと三千円となっているほか、生ラムのほかにエビ、イカ、ホタテがつくミックスバーベキューもあり、こちらは食べ飲み放題で三千五百円となっている。
一方のラムしゃぶは、食べ飲み放題(2時間)で三千三百円、一つの鍋で煮ても焼いてもどちらでもOKという海鮮焼しゃぶは、同三千八百円となっている。各種食べ飲み放題には、通常千二百円のはまなすプレート(タラバガニ、若鶏の唐揚げ、枝豆、ポテト、フランクソーセージ)を七百円でつけることもできるほか、フルーツバーも食べ放題となっている。おすすめは何といっても海鮮焼しゃぶで、ラム肉と野菜のほかに、鮭、イカ、ホタテがつくのがいい。真ん中が北海道の形に盛り上がった鍋で、それを取り囲む“海”に水を入れて煮て、“陸地”の部分で焼くというものである。また、これらのコースにおつまみやカニ、寿しなどがついた宴会プランもあり、それらも食べごたえがありそうである。
このほか、別館のロイン亭では、ランチ、ディナーの食べ放題バイキングを行っている。こちらはセルフサービススタイルで、焼肉各種や寿し、デリカ、ケーキなどが食べ放題で、ランチは千八十円、ディナーは二千八十円、食べ飲み放題は男性が三千五百八十円、女性が三千八十円となっている。どちらかといえば、ファミリー客を狙った店と言えそうである。また、レストランピルゼンでは、本格的料理や各種セットメニューに、できたての生ビールが味わえる。こちらはアダルト層を狙った店といえるが、こちらにも飲み放題のついた宴会コースもある。
また、豊平区平岸1条18丁目には、アサヒビール園百景園があり、本店同様のメニューが用意されているばかりでなく、ロイン亭も併設されている。このほかに「和」を前面に押し出した百景園珠童門なる店があり、牛すき焼きランチ千五百円、和食、日本料理ランチ四千円といったランチメニューのほか、食べ飲み放題の牛しゃぶしゃぶコース、牛すきやきコース各五千円などのコースが用意されており、ラムをメインとしたビール園とは差別化がはかられている。本店、百景園をトータルして、多様化する客のニーズに応えているといえよう。
さて、本州からは桜便りも届くこの頃ですが、北海道が花見の季節を迎え、桜の下でジンギスカン、というのには、まだしばらくかかりそうです。それにしても、あまり足を運ぶ機会のないうちに、ビール園も、進化しつつあるようで、浦島太郎状態にならない程度に、足を運ぶ機会を持ちたいな、と、今回の取材を通して感じた次第です…
それでは、また…
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「札幌」。言わずと知れた北海道の道庁所在都市で、人口百八十万人を数える、全国でも第五位、東京以北で最大の都市である。しかし、その歴史は浅い。開拓使首席判官の命を受けた島義勇が、当時人口二戸七人に過ぎなかったここに街づくりの第一歩を記したのは、1869年(明治2年)のことである。以後の百年あまりで、現在のような大都市へと急激に発展したわけで、ゆえに、東京や大阪といった街と比べると、いかにも人工都市然としており、歴史を感じさせる街並みや建物はごく少なく、地域色にも乏しい街といえる。
だが、実際そこに生活してみると、本州の歴史のある街とは比較にならないにせよ、それなりの地域色というのが、見えたり、感じられたりするのも事実である。この連載では、毎回札幌のある地域に照準を絞り、その表情を紹介していきたいと思うので、おつきあい願いたい。
第一回 札幌駅前から中心街を歩く(前編)
JR札幌駅は、いわゆる「終着駅」ではなく、函館本線の中間駅の一つである。しかし、道都の中核駅としてのターミナル機能を持った駅で、発着する大半の列車が、この駅を終着、あるいは始発としている。現在、函館本線の函館〜旭川間はもとより、函館〜札幌間(小樽回り)をスルー運転する列車すらなく、実際の路線名より、札幌を基点に各方面に列車が運行されているのが実態である。その札幌駅は、以前は地上駅だったが、東西に伸びる線路で市街が南北に分断されており、中心部の踏切による平面交差道路では、渋滞が慢性化していたこともあり、昭和50年代後半から高架化工事が始まり、昭和63年11月、札幌と発寒中央駅の間が高架化された。これにより、札幌もホームが北側に引っ越したかたちで高架駅となったが、長く親しまれた駅舎だけは、JR北海道本社ビルとして、そのまま残された。しかし、後に桑園駅前に新しい本社ビルができると、旧駅舎も役目を終え、取り壊された。現在、その跡地は駅前広場として一応整備されてはいるが、最終的にはホテルとデパートを核とした巨大ビルが建設される計画であり、札幌駅の新しい“顔”が最終的に落ち着くのは、まだしばらく先のこととなるようである。
その駅前広場は、行政区分では中央区に属するが、この一帯では函館本線の線路の南際が区の境界となっているので、札幌駅の所在地は北区ということになっている。鉄道の線路が区境になっているというのは、開拓地ならではと言えまいか。
駅前に立ってみると、駅前を東西に走る北五条通りと、駅前から南へ伸びる駅前通りには、びっしりとビルがひしめいている。左にそごう、右に東急の二つのデパートを見送って北五条通りを東へ歩くと、間もなく札幌の東西の基準線となっている創世川通りへぶつかる。川の両側は、片側四車線の石狩街道こと国道231号線で、交通量は多い。創世川は、陸路の開かれていなかったこの地へ、人手や物資を運搬するために開かれた運河で、現在の水量からは往時の面影は偲ぶべくもないが、河畔には柳が植えられ、コンクリートの街に潤いを与えている。
北五条通りを、反対に西向きに歩くと、ビル街の先に忽然と、青々とした森林が出現する。北大農学部附属植物園で、ここだけ、開拓前の森林が切り取られたようなかたちで残っているのである。多くの野鳥はもとより、エゾリスやキタキツネまでもが生息しているという。その北側には、やはり鬱蒼とした森に囲まれた一軒の個人宅もある。この、北5条西8丁目から10丁目にかけて以外は、この一帯では個人商店以外、ほぼ一戸建ての個人宅は見当たらない。10丁目と11丁目の間は、石山通りという通りが隔てている。その石山通りから植物園を回り込むかたちで北二条通りを東へ戻ると、やがて北海道庁へ辿り着く。赤レンガの旧庁舎はあまりにも有名だが、その前庭の池のほとりは、春から秋にかけては、周辺で働くビジネスマン、ビジネスウーマンの憩いの場ともなっている。
このあたりから大通にかけても、見事なまでのビル街である。よく札幌は、「支店経済の町」と言われる。確かに、目につく金融機関や企業の名は、そのほとんどが本州系のものである。全国で五番目の都市でありながら、その実態は経済活動のかなりの部分を本州系企業に依存しているということで、一市民としては、やや寂しいものを感じずにはいられない。
南へ向かって足を進めると、大通公園へ出る。西1丁目から13丁目まで、およそ1.7キロに及ぶ東西に伸びた公園で、札幌の南北の基準線ともなっている。春から秋にかけては市民の憩いの場として、冬にはさっぽろ雪まつりの会場として、広く親しまれている公園であるが、当初の目的は、火災が起こった際に延焼を食い止めるための「防火帯緑地」だったという。冬には、雪捨て場となり、ストーブの炭ガラも捨てられ、白黒の縞模様を成していたという。
時代は変わり、公園両側の建物はほとんどがコンクリート建築となり、防火帯としての役割はなくなった。1950年に、雪像六基、観客五万人で始まったさっぽろ雪まつりも、2000年の今年、五十一回目を数え、氷雪像の数は真駒内、すすきの会場を合わせて三百三十基、動員観客数二百万人の大イベントとして定着している。毎年12月下旬から雪まつりの雪像造りが始まるまでの期間、公園の樹木を電飾で飾る「さっぽろホワイトイルミネーション」も、雪まつり前の冬の風物として、すっかり定着した感がある。
大通の一本北を走る北一条通り沿い、西2丁目には“時計台”がある。旧札幌農学校演武場で、ビル街に埋もれてしまっている風情に、がっかりする観光客も多かろう。しかし、今から一世紀前、このあたりは演武場として使われるほど、広大で何もない土地であったことを無言で語り伝える、北海道史の生き証人である。北大附属植物園と合わせ、都市化が進んだ街の中に、古の札幌の姿を伝える施設があるということは、大きな価値があろう。その時計台、数年間に及ぶ大修理を昨年終え、再び一般公開されている。それに合わせて二階部分はホールとしても整備され、イベントやミニコンサートなどが行えるようになった。今後は、文化発信の場としての役割も担いながら、札幌の街の変遷を見守り続けるのだろう。
(以下次号。次回は、大通からススキノにかけてを歩きます。)
雪に思う
今回は、旅とは直接の関係はないが、北海道に暮らすものにとって切っても切れない雪の話である。
この冬の北海道は、前半は比較的穏やかだったが、冬も後半の2月下旬から3月にかけての降雪が多く、その量もさることながら、「雪が遅い」のが特徴だったように思う。2月末、そろそろ雪も少なくなり始めたか、といった頃合いを見計らい、アパートの通路部分の氷割りをした途端、まとまった雪に見舞われるという始末。やれやれ、という気持ちで、またしても雪かきに精を出すことになる。
我がアパートには管理人はおらず、雪かきは、各住人が自発的に行わざるをえない。そんな中で、長期に留守にしている時以外は、私がほとんどの積雪時、雪かきを行った。正直言って、私は雪かきが結構好きである。雪かき、氷割りといった作業は、横浜にいたら、ほとんど体験できないに等しかろう。そういう作業ができるのも、北国で暮らしていてこそ、というポジティブな発想が、その原動力となっているようである。ほどよく身体を動かすことで、適度な運動にもなる。また、管理人のいない賃貸マンションやアパートでは、雪かきがほとんど行われず、どこが通路なのかわからないような状態になっているところも多いが、それらを思い浮かべたとき、きちっと除雪された姿は、実に清々しいものでもある。
しかし、アパート裏手に、或いは道路端に堆く積み上げられる膨大な量の雪を見ていると、春になってただ融けるのを待つ以外に、何か有効な活用方法がないものか、と思わずにはいられない。雪を“資源”として活用する手立ては、何かないのであろうか…
ところが、同じことを考える人は他にもいたようで、すでに雪は“活用”されていたのである。
道央地方のある農協では、地下倉庫に雪を入れ、その下で米を保存しておくという「氷温米」が好評を得ているという。氷温下に置くことにより、独特の甘みと粘りが出るのだという。キャベツや白菜、長芋などを畠の雪の下に眠らせておくという手法は、かなり古くから行われていたようだが、この農協の試みは、それを一歩押し進めたものといえよう。
そればかりではなく、雪を冷房に活用するという取り組みが、すでに実現されているという。冬の間に降った雪を地下の貯蔵室に貯蔵し、夏、その貯蔵室で冷やした空気を冷房に利用するというのである。膨大な貯蔵室が必要となるため、建設コストの面が今後の課題であるというが、病院や老人ホームといった大規模施設であれば、夏季の冷房にかかる電気代の節約効果で、建設コスト分の回収は可能だという。
そして、実際に道央の自治体でこの雪冷房を取り入れた施設が完成してみると、電気代の節約以外に、思わぬ効用があったという。それは、空気を貯蔵室に循環させる際に、雪により埃や粉塵が吸着され、気管支系疾患を持つ人や花粉症の人の症状が、著しく快方に向かったというのだ。雪を利用したクリーンな冷房システムは、空気までもクリーンにする効果があるという。これは、病院や、老人福祉施設には願ってもないことで、すでに多くの自治体が、この雪冷房の導入に前向きであるという。札幌市でも、東区中沼に建設が予定されている大型施設に、雪冷房の導入を決めている。
建設コストの関係で、現在は大型施設に限られている雪冷房だが、将来コストダウンが進めは、民間でも、「雪冷房マンション」や「雪冷房団地」などが誕生するかもしれない。そして、暖冬で雪の少なかった冬の後は、 「この冬の雪不足のため、この夏は、冷房による電力需要が大幅に増えることが予想され、北電では、発電所をフル稼働させるための準備を進めています…」
といったニュースが流れることになるかもしれない。雪かきに奮闘した日々を懐かしく回想しながら、そんなことを考えてみたりするのであった。
4月に入り、ようやく雪融けも進み、主だった道路では、雪を意識することはなくなった。しかし、空き地や日陰部分にはまだまだ雪は残り、札幌で積雪ゼロが宣言されるのは、まだしばらく先になりそうである。しかし、北国の長い冬を越えてこそ、の春は、もう間近である…
(完)
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今回の旅人通信、3月中にはお届けしたかったのですが、肝心要のパソコンが故障するというアクシデントに見舞われ、4月にずれ込んでしまいました。幸い、ACアダプターの不良という、本体機能に影響のあるような故障ではなかったのが救いではあります。
そんな折の3月31日、胆振の有珠山が、23年ぶりに噴火しました。それ以前から火山性微動と群発地震が続き、かなり早い段階で避難指示や勧告が出されたこともあり、これまでに人的被害は出ていませんが、周辺の国道、高速道路の通行止め、JR室蘭本線の運転見合わせは現在も続いており、特にJRの不通では、物流面での影響が大きく、噴火活動が長引けば長引くほど、その影響は甚大なものになりかねません。というのも、本州との物流のおよそ四割のシェアを持つJR貨物では、同線経由の貨物列車を一日24往復走らせていたのが、迂回路となる小樽経由の函館本線では、5往復の確保がやっととのこと。しかも、待避線の有効長などの関係から、室蘭線最長の二十両編成の半分の十両編成の列車しか走らせることができず、輸送力は大幅にダウン。生活物資の大半を本州に依存している北海道にとっては、これは大きな痛手です。
とはいっても、相手は火山ですから、人間にできることは、その活動が沈静化するのをただ待つことのみ。避難生活を強いられている人々の心のケア、そして一大観光拠点の洞爺湖畔温泉への影響も心配されますが、大自然の猛威の前には、人間とは実に、小さく無力な存在に過ぎないようです。
次号は、北海道が春から初夏へと一気に駆け抜ける頃にお届けしたいと思っています。その頃までに、有珠山の噴火活動が沈静化していることを祈りつつ…(完)
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